2021年10月8日金曜日

非常時における国家の国民行動への制限法整備には賛成だが、コロナ対策への適用は反対だ。

 今回の自民党総裁選の後で決まった執行部の新しい方針については大変注目されているところです。この中で、非常時において政府が国民の行動などへの強制的介入ができる法的整備をするようであるという情報があります。長期にわたる新型コロナ禍に最中であるので、この法的整備によってコロナ対策における政府の強制力をもっと発揮して、コロナ鎮静をしなければならないという議論をする人々がかなり多いように思われます。僕は、この話は物事が整理されていない議論の典型であると思いますので、一寸書いておきます。

 僕は、別のブログ「日出づる国考M」で既に書いていますが、戦後の日本の状態は、多くのいわゆる西欧先進諸国に比べて、国家内における個人の行動への規制があまりにも緩いということを日本国民は自覚していなさ過ぎだと思っています。例に挙げたのは「成田闘争」という一部の政治活動家によって、東アジアのハブ空港にしようとの国家計画だったものが、遅れに遅れて国家に大損害を与えたことです。こういう政治活動のことを言わないでも、実際のポイントは何かといえば、個人の住居の立ち退きが進まないということです。ダムや道路や空港建設などで国が決めたことが、たった一人の住民の不同意で経費と時間の大きい損害が損じるのにもかかわらず、国が呑気な対応するという問題であります。損害は国民の税金なのだということを政治家が重要視していないことが物事の放置の一因だと思います。なお、僕は最近以後のダム建設は大いに反対する意見を持っていますし、熊本県では球磨川の氾濫対策に上流のダム建設が建設されようとしていることに反対です。しかし、こういう個別の賛成反対ということではなくて、「政府が公式に決めた方針には従うということが当たり前のことである」という話が日本ではおかしなことになっているのを僕は指摘しているのです。政治案件ではない普通の道路の建設でも、本当に1軒の住民の移転反対によって、99%完成していた道路が10年も開通しないような事案もあったように聞いています。しかし、この責任は政府にあると思います。左翼マスコミなどの圧力で、自民党政権はまともな法律を作って来なかったのです。今度の政権では、この問題に手を付けてくれるかという期待が一部にあるのです。

 だから、ロックダウンを政府がしたいと思った時には、すかさずこの権力の行使をスムーズにできるような社会にしようということでもあります。それは、そうなのだと思います。しかし、こんなところに道路を作って良いのか?とか、ここにダムを造ることはこういう問題があるぞ!とか、日本の山の斜面にどんどん太陽光パネルを設置するなどという方針は悪い影響が大き過ぎるのではないか?とか、この状況でロックダウンはマイナスの影響が大き過ぎるのではないか?とか、ワクチン強制は文句なしの良いことなのか?とか、ワクチン証明のない職員は解雇(これは国の問題ではなくて、企業が権力発揮しているのですが)だとかはおかしいのではないか?とかという、個別の妥当性は別にあります。ポピュリズムでなく一般意味論的に証拠的にもロジカル的にもにそのようだということなのかどうか充分議論してもらいたいと思います。しかし、その上で政府が決定したのなら僕も従わなくてはならないと思います。法治国家とはそういうことだと思います。不都合な政権は選挙で落とせばよいのです。そうはいっても、実際は難しすぎますが。

 僕は、国家の国民への強制力に関する法整備においては一般的に賛成であり、個別的に直ぐに賛成したいのは怪しい国の国民が日本の国土を自由に購買することを禁止すること(つまり、日本の不動産会社に規制を掛けることとリンクしている)、真に非常事態の際に、自衛隊などの迅速な行動にいちいち知事の承認や道交法の縛りを受けないようになどのことを思いつく。そして、真に非常事態の感染症において、強制マスクや強制ワクチンは制度上はすることができるいうことです。しかし、このコロナに対しての強制権発動こそは、適用しないでほしいと思います。国が今のコロナワクチンを大いに推奨することには反対しません(個人的には、よく判らない点があると思っています)。しかし、強制措置としては反対です。企業がワクチンを打たない従業員を解雇するなどという(米国の大企業で行われようとしている)風潮は、それこそ、基本的人権の侵害だと思います。そこまでの緊急事態か?という疑問があります。そして、そういう強制措置の有効性も実は「五十歩百歩」であるということを冷静に考えるべきだとも思うのです。




2021年10月2日土曜日

ウェーデンのコロナ対策の総括から見える真実(「北欧研究室」を引用して )

  昨年8月24日にこのブログに投稿した「上久保靖彦論文「日本では新型コロナ集団免疫が成立している」に感銘を受けたので、自分なりに紹介したい」という記事の最後のところにスウェーデンのコロナ対策について簡単に触れました。コロナ騒動の当初から緩い規制のスウェーデン方式は世界の注目を浴びていたからです。その時の記事の内容を繰り返しておきます。 この記事の「追記」にあるスウェーデン在住の方のユーチューブ発信の記録が残っていませんので、この発信者が後で引用する発信者との異同は不明ですが、多分違うように思っています。

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 スウェーデン方式が正解かどうかについては敢えてここでは述べないが、とにかく民主的制度に従って選ばれた政府が、自分たちの信じる政策を採ることが出来るということを僕は評価したい。しかも、彼らの方針においては規制の少ないパターンなので、「冷静に事態を注視しながら」という「消エネ」姿勢を重んじていることを推察する。つまり、日本よりはポピュリズム性が少なくて、より理性的であるように思えることを評価したい。理性的とは、そんなに立派なことでもなく、ただ、「ないものねだりをしない」ということだと思う。実は、このことこそが大事なことだと僕は思う。

追記(8月28日):スウェーデン在住の日本人のユーチューブを最近見させてもらった。それによると、この国では、政府は経済や政治以外の国民衛生のことに関しては介入しないことが通常とのことだ。医療・医学の専門家の意見を尊重する法体系らしい。この国では、疫学を専門にしている一人の研究者が長らく指導的な立場にいるのだそうだ。もう一つの話として、欧州全体の疫学専門家のコンセンサスらしいものとして、「集団介入の是非につては否定的であった」らしいが、スウェーデン以外は、そのコンセンサスにもかかわらず、各国の政府が集団介入を実行したということだった。そして、スウェーデンでも全く放置していたのではなく、個別での重点的介入はしていたということだった。とにかく、僕は、以前のこのブログで述べたように、スウェーデンは周辺国に比べて、移民を入国させ過ぎたために、生活環境の良くない地域が増えているらしいことも、当初のコロナの影響が大きかった可能性があるのかもしれない。この国の集団介入をなるだけしないという方針は、日本では上手くいったのではないかということは既に述べた。

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 さて、今回、ユーチューブで「 [最新] スウェーデンのコロナ事情・1年半まとめ・20218月」という記事を見ました。2人のスウェーデン在住の日本人女性で、「Nord Labo・北欧研究室」というタイトル(ハンドルネーム)で発信しています。この人の発信者は専業主婦ではなくて事業を経営・運営されている方のようです。そのユーチューブに連動している投稿記録からすると、新型コロナに関しては、昨年6月12日から発信し出して、今回見付けた記事は9回目のもので今年8月21日に投稿されています。僕は、まだ全部読んでいませんが、この一連の投稿は非常に確かな判りやすい情報として大変素晴らしいものと思いました。加えて、興味深いことには、発信者は長い日本での教育と生活によって「日本人のメンタリティ」をかなり持ちながら、「スウェーデン生活」にかなり同化しつつあるという立ち位置にあるようです。

 以下、記事の内容を書いてみます。この国では当初において高齢者施設でのコロナ発病が大変多くて、高齢者の死亡が非常に多くて、周辺の国からも注目を浴びていたそうです。そういう状況において、当初の昨年3月の時点で首相が声明を出して、何千人・何万人(日本の人口からすると、何万人・何十万人に相当する数字)が死亡する可能性があり、何カ月もあるいは何年も続くかもしれないというビックリするような警告(僕には冷静な予測の発表という感じに思えます)をしています。それにもかかわらず「ロックダウンはしない」「学校閉鎖はしない」「マスクは義務化しない」という方針を採ったということです。なお、12月頃からのインフルエンザ流行も気になる季節には、公共の場所に集まる時だけにはマスクを推奨したとのことでした(これは例年の日本でも同じこと)。なお、マスクについてはその効用について賛否両方の議論があったとのこと。また、憲法上で、国民への制限発動が難しい制度であるらしいこと。集会での人数制限や飲食店の営業時間の制限が限定的にあって、時期により変更があったらしいが、現在(今年8月時点)は制限がほとんどなくて、交通機関の車内でも1割程度しかマスクをしていないとのことです。

 スウェーデンのコロナの医療優先順位ガイドラインによりますと、①回復の可能性の高い者を優先、②それが同等の場合は予想の余命の長い者を優先、③両方が同等の場合は基礎疾患の有無で考える、ということでした。そして、どの医療機関で診療するかは医療機関の自主性に委ねずに、国が決定権を握っているということです。こういう情報を知って、最初は国民の多くは、「あれ、年寄りは死ね」ということじゃあないかとインパクトを受けたらしいが、しかし、結局は多数が受け容れたということらしい。彼女たちの感想は所々にありますが、「ロジカルには判るが、気持ちとしてはどうかなあ」「スウェーデンは冷徹だなあと感じた」「日本では世論が納得しないと思う」など話していますが、特にスウェーデン政府を非難しているのでもなく、冷静であるところが興味深い。

 ただ、このところでの僕の意見は、「日本の世論とは、大手マスコミの意見である」ということをしっかり認識していなければならないと思います。特に、日本では。大規模の住民のアンケートをしょっちゅう取っているわけでもなく(それは、どの国でも不可能)、世論というのは、一義的に住民の大集団の自発的意見の集約ではありません。日本では、どのマスコミも基本的に「反体制」であるという構造が、正体が不明な「世論」などという欺瞞を用いて、マスコミが社会を混乱・撹乱しています。スウェ-デンではロジックが大なり小なり機能しているところが、ロジックよりイデオロギーだという日本と大きく違う点だと思います。日本では、左翼志向のマスコミが国民の不幸であるコロナ禍でさえも、政府攻撃の材料に利用しているというまことにつまらない国になり果てていると思います。しかし、巷間レベルでは今なお、古くから伝承されている佳き風習や道徳がなお生き続いており、スウェーデンで生活されている日本人も懐かしく思い出すのではないだろうかと思います。

 ユーチューブの記事に戻りますと、政府の方針の目的が明確だということです。すなわち、①持続可能な方針であること、②子供の保護を重要視する、③国や省庁のトップダウンで事を運ぶ(説明や会見も毎日あり、隠さず誇張もない淡々とした説明がある➞日本では政府やマスコミによるこの隠蔽や誇張が多い=僕の意見)、④病院は国(県レベル)が運営するので、権限発動が迅速だということです。

 そして、このユーチューブの記事では、以上のスウェーデンでの方針の結果、この1年半でどうなったのかということを報告しています。僕が記事を見て端折りますと、コロナ被害状況は大雑把にいうと、スウェーデンと日本とでは大差がなかったということになるらしい。ということは互いの人口が10倍の差があることを考えると、日本は特段に被害が少ないと言える。しかしながら、スウェーデン政府は現在までの対策の成果についてはアレッと思うほどの自信を表明しているらしい。ただ、西欧諸国の中での比較では似たり寄ったりなんだろうということで、だから、「失敗ではない」というのは誤認ではないと僕は思います。僕が当初から予測しているように、日本の被害が少な過ぎるということでしょう。この理由についての議論は以前の記事に試みています。

(追記: スウェーデン首相は、老人の死亡が大変多かったことについては、「もっとよい対策があったのではなかったかと思い返している」とも語っているということを書き洩らしていました。=2021.10.05)

 この投稿者さんによると、上述したように、政府の発表の際に、隠蔽や誇張をしていないようだということです。マスコミが政府発表に対して、いちいち混乱するような論評はしないようです。もちろん、そういう論評の場は当然機能しているでしょうが、こういう場ではしないので、国民は政府発表をちゃんと聞く環境があるのだそうです。投稿者さんはここで、日本のマスコミがどうもオカシイという意見を述べていますが、「アレッ、こんなこと言っていいのかな?」と及び腰で日本のマスコミへの疑問を述べましたが、僕は、そこは大事な点で、「及び腰になる必要はありません」と申し上げたいです。

 ワクチンについても僕には興味のある情報でした。ここでは、僕の意見を挟んでみます。スウェーデンではワクチン対する否定的な考えは一部にあるだけに過ぎないようです。それは、「政府の方針なら多分よいのだろう」という受け止め方が多いのだと思います。僕は、真実はどうであれ、これは冷静で理性的な考えだと思いますし肯定的に思います。繰り返しますが、「日本では自民党政府の言うことは欺瞞かも知れない」という雰囲気をマスコミが仕上げていますので、こういう望むべき信頼関係はできないのです。スウェーデン政府はゼロか百でなく、ワクチンはたとえ問題のありうるmRNAワクチンであっても「総合的に有益な部分が大きい」という判断で推奨しているのでしょう。総体的にはゼロあるいはマイナスでもなく百でもないので推奨はするが、強制はしないのです(個々では、百もありうるがゼロもマイナスもありうる)。これが、最重要のポイントです。スウェーデン政府の代弁者?として僕が繰り返し言いたいことは、個人に対する治療処置や予防処置は基本的に強制にしてはいけないということです。個々の事例においては、必ず不都合な事象がでてくるからです。こういうことについて強制するという時は、国家存亡の時くらいのとんでもない状況の時以外は許可できるはずがない。これこそ、日本のマスコミの好きなはずの基本的人権なのです。

 なお、スウェーデン国民の多くは、発熱や体調不良などの副反応は日本ほどには問題としていないようだということですが、僕自身はそういう考えに同感です。日本の方が騒ぎ過ぎだと思います。マスコミの影響です。ただ、接種後に重篤な病状に陥る疑いの場合はこれとは話が違います。なお、今のコロナワクチンに対して僕は否定的ですが、その否定的な理由は2点あります。先ずは、実質上で限りなく「強制処置」に近くなってきていることに反対しているのです。「強制的」でなければ、僕も強く反対する根拠も確かではありません。ただし、mRNAワクチンの長年月後の不都合については、実は、現在の地球上の誰にも判らないということです。承認の時間が拙速すぎて怪しい。必要と思うのなら、インフルエンザの場合と同じような不活化ワクチン製品を作成してそれを用いるのが妥当だと思います。ここで重要なことは、mRNAワクチンでもその効能は流動的であり、決定打なんてとてもいえるものではないので、不活化ワクチンでも五十歩百歩なのです。であるならば、半世紀以上の実績がある製品(不都合がほとんどない)の方を使うべきだと思います。不活化ワクチンでさえ強制接種は問題であり、潜在的問題の大きいmRNAワクチンなどを強制的接種すべきではありません。強制的処置は医療のイロハのイを無視するという大きい誤りだと思います。スウェーデン政府は強制接種には進まないように思われます。

 そして、さらにワクチンパスポートの話ですが、フランスなどと違ってスウェーデン国内では強行する風潮はないように思われます。ポピュリズムの少ないロジカル思考が得意な国のようだからです。ただ、EUがワクチンパスポートを決めれば、スウェーデン国外のEU国に出掛ける時はこれに従うということもロジカルに受け止められているようです。

 こうしてこのユーチューブの記事を読ませてもらうと、この「北欧研究室」の2人の在住日本女性よりも、日本在住の僕の方が、より疑いもなくスウェーデンの施策に対して「腑に落ちる」という肯定姿勢であると思います。しかし、このお二人の発信者は多分この政府の方針に対して日本人の性(さが)として多少の驚きがあるのでしょうが、実態は賛成しているように感じられるのです。もっと自信をもって、お二人の住んでおられる政府を肯定してもよいのではないかと思います。

 僕は、このお2人に是非この僕のブログの特に直前の5つの記事について読んでいただきたいと思います。スウェーデン政府は、「どの対策であってもどういう結果になるのかは判らないので、副作用が確定的である社会制限というものが少ない持続可能な方針から始めることにした」と明言して実行しているのだと思います。不都合があれば、その時点で方針を僅かにあるいは大きく変更することにはやぶさかではないということだと思われます。これは、将に、僕が当初から言っていた考え方なのです。僕はスウェーデンで暮らすことになれば、ものの考え方については、日本よりもストレスは少ないかも知れません。「ないものネダリはしない」「きれいごとを言ってことを済ませない」など、僕の拠って立つ一般意味論的思考が実行されているところのように思います。

 

(注)他のEUやスカンディナビア諸国と比較して、スウェーデンのトータルのコロナ被害の状況は調べていないので不確かですが(サボっている)、大差がないのではないでしょうか? たとえ若干の被害の多さがあったとしても、1年半の長期にわたって緩い制限しかしなかったことを考えに入れますと、「コロナ+コロナ以外の生活」全体の幸福度の収支決算を考えると、非難に値することなどないように思います。そして、ポピュリズムに流されないぞという決意を貫徹したところを評価します。

 このように書いてきますと、ポピュリズムの定義ということのヒントが出てきました。「証拠もはっきりしないことを、まるで事実のように大声で拡散して、大衆に影響を与えること」となりました。このブログに連載の「意味論的国語辞典」に採用してみようかな。

(注)僕は過去において、敢えてスウェーデンのことを評価したくなかった理由があります。それは、日本の中で社会福祉国家のお手本などといって、日本のいわゆる識者やいわゆる進歩派の論者がほめ過ぎてきたからです。僕は、天邪鬼でもあるのか、「いいことづくめのはずがない」と思ってきました。日本とは歴史も違うし、人口も違う、気候も違う、・・・。スウェーデンで成立するものがそのまま日本で成立することは難しいこともあるはずだ。逆も真なり。「適用可能な良いところは積極的に真似をしよう」は大切だと思います。

 僕は、20年ほど前に大学院のテーマ研究のために日本に長期滞在予定のオランダ人の女性の肺炎の治療をしたことで、彼女の帰国前に互いの夫婦4人で会食して、日蘭の医療の比較について雑談したことがありました。その時の僕の結論は、「国民全般への医療水準(=贅沢度)は圧倒的に日本が上である。しかし、日本においてそれを維持するための医療費は実際のところ出来高払いの天井知らず」なのです。その女性は、日本で受けたきめの細かい検査などの対応に喜んでいただき、本国では医療制度上でこうはならないと言っていましたが、オランダの政府に不満を持つ発言では決してなかったのです。僕は、日本側の医療当事者ながら、日本の方がロジカルにはおかしいと認識していました(拙著「ドクターMのヘルスコラム」風詠社、2021年、182頁)。

(注)「北欧研究室」からの新型コロナに関するユーチューブ発信の最初の投稿記事(昨年6月)は、「スウェーデンのびっくりコロナ対策。国民に丸投げ?!在住歴14年の室長もびっくり、首相の大胆発言にみるスウェーデンらしさとは?」でした。投稿者自身は実は理解されていると思うのですが、普通の日本人から見たら「ええッ,それでよいのか?」というタイトルで、アトラクティブです。全部で9件の新型コロナに関する投稿があり、どれも興味深いと思われます。

(注)なお、昨年8月の僕のこのブログ「意味論コラムM」への投稿は別のスウェーデン在住の日本人のユーチューブ記事を見て書いたものですが、それ以後急にスウェーデンからのブログへのアクセスが増えてきました。実数自体は残念ながら少ないのですが、現在までのこのブログへのアクセス数は日本(5735件)>スウェーデン(277件)米国>(207件)>香港(28件)>オランダ(11件)となっています。 また、別のブログ「日出づる国考M」の方にも、最初だけコロナ関連記事を数件載せましたが、ここでは、日本(5145件)>米国(1143件)>韓国(43件)>オランダ(24件)>ロシア(23件)です。なお、両方のブログは4年足らず前から書き始めましたが、比較的にコンスタントに続け出したのは、コロナ騒動が始まった2年足らず前からです。

 僕にとって、興味深いことは、日本語で書いていて、これまではほとんど宣伝行為(リンクを貼ったり)ができていないのに、両方のブログに外国からのアクセスが結構あったことです。特に、「日出づる国考M」の方は、最初の1~2年間は、日本からよりも米国からのアクセスが圧倒的に多かったことです。日米中韓の政治問題のことを主に書いてきましたから、米国からのアクセスは情報機関からのものかなと思っていますが、実際はどうなのでしょう。そして、最初は韓国からのアクセスは全然ありませんでした。

 少ないながら、オランダが目に付くのも僕には興味深いです。江戸時代の長崎・出島から既にやり取りしていた国だったし、第2次世界大戦では日本はABCD包囲網(米英中蘭)に敗戦の憂き目にあったし、現在では中国と日本の立場が逆転して、新たなABJD(米英日蘭)プラス豪印の包囲網が出来る兆候があります。数世紀にわたって世界経済にコミットしてきたオランダという感じがします(余談すぎて申し訳ありません)。

コメントがありましたら、メール(19a46m@gmail.com)にどうぞ。

●(次号予定)コロナ禍による精神の劣化(「コロナ病」「コロナ脳」「ホモ・マスクス」とか)


2021年9月26日日曜日

科学論文も怪しいところがある(B)大規模統計データーは怪しい点がある

 (その1) 

高血圧の薬とか高コレステロール血症の薬とかの効果判定においては、最近では、大規模(1万人やそれ以上も)の被検者を集めてランダムに投与群と非投与群とに分けて比較するという検定法が用いられています。がんの治療薬においても同じことです。この両群は、互いに他の背景の条件が同等であるという前提です。 そして、理想的には検定する側も当事者にはどちらかが分からないというのがより適切だとされています(ダブルブラインド)。

 しかし、僕が思うには、これは単なる理屈であって、両群の背景が同等であるということは全然定かではないのです。例えば、血圧に関する、あるいは生命全体に関する背景因子が全て解明されているなどというのは、永遠に真実とはかけ離れている可能性があります。専門家がそのように言い張っているだけの形だと思います。人間の生理学的な機能が全部解明されているはずがない。

 同じようなテーマの大規模検定の仕事が、しばしば、あるいは、たまに、異なる結果になるのは、もし、統計学というものに間違いがなければ、個々の検定においての両群の選択に故意ではない不都合があるからというのが一番考えやすいはずだと思います。しかも、これは避けられないことのはずだと思います。とすると、1千万人もの大規模検定であっても、確かではない可能性が残ります。 

 

(その2)

  もし、大規模で真にランダムな検定がなされたと仮定しても、その結果は、その集団に含まれるべき個々の人々の結果の予測にはそのまま適用され難いということです。つまり、こういう仕事は政府機関などの政策にはそれなりに反映される意味がありますが、実地の臨床の場では、個別の背景が大きくものをいってきますから、政府や当該学会のガイドラインの通りには適用できないことが少なくありません。疫学的な話と個々の実地臨床の場とは話が違うことが少なくないということを医療関係者以外の方は知っておく方がよいと僕は思います。

 適切な例かどうか分かりませんが、血圧の高い人に無暗に降圧剤を投与するとかえって具合の悪くなることはあるのです。状態が不良で、そういうことをすると重要な臓器の循環が維持できなくなるということがあります。

 また、それとは全然異なる次元の話ですが、意識のしっかりした人が、「自分は人工的な治療を受けることを拒否したい」と言ったら、この人に対しては自然に任せるのが普通でしょう。

 これらのことは、コロナ対策においても、個人の個別性や主体性の尊重という観点からすれば、考え直してほしいと思うことです。

 

(その3)

 数十年前に読んだ書物で、今探してもその文章の出所が判らないのですが、以下のような深く刻むべき意見がありました。これは、ノーベル経済学賞を受賞した米国の統計学の専門家の言葉だそうです。「何千人も集めてやっと有意差が出てくるような大規模検定検査の結果によっても、目の前の数十名程度や個々の患者さんについての予測はできない」という風なことを言っています。「そうでなければ、何千人もの人数を集めなくても済んだはずだ」と僕は、心の中で解釈していました。臨床家として、常は、当該学会の発行するガイドラインをそれなりに参考にして、重きを置いていますが、その通りに出来ない事例は結構多くあります。しかも、僕は喘息の治療を開業医になってから、かなり経験しましたが、学会のガイドラインが不適切だと思うことは自分としては少なからずありました。

 

(その4)

 以上の議論を現在のコロナ対策に適用すると、以下のようになります。コロナワクチンも、コロナ治療薬も、PCR検査の結果による被検者への強制的ないし説得的な方向付け指導も、少なくとも、その個々の対象者への恩恵があるのか、被害があるのか、どちらともいえないのか、ということに関しては、「誰も」はっきりとは判らないということです。

 分かった風な欺瞞を言うべきではない。ただ、新型コロナが被害の少なくない感染症であるということが問題を複雑にしている要因なのです。つまり、個人における個別性や主体性の尊重と、全体の構成員への潜在的貢献ということが、しばしば、または、場合によっては相反する場合があるということが問題なのでしょう。ただ、自分たちの政策を進めるために、「分かった風なメッセージ」を発することがよくないと思います。特に、尾身会長に文句を言いたいと思います。政府も「本当は判らない点もありますが、政府としては、とりあえずは強い規制をかけようと決めました」というのなら、それはOKです。

 次の投稿で書く予定ですが、スウェーデンのコロナ対策の方針は、大方が誤解しているのとは違って、「集団免疫」を早期に獲得するために制限を緩くしていたことではなかったらしい。単に、「緩い規制で始めてみることが冷静な判断だろうと思う」ということだったらしい。「強い規制が奏功するかどうかが不明である以上は、それが妥当かな」ということだったらしい。僕の最初からの意見と多分同じ判断だと思うところです。

 最後に、日本では、感染者が自然に増えていった方が、1年間全体の国民の全体的な不幸は少なかったかも知れないという可能性は、医学的に見ても、荒唐無稽な話とは全然違うと思います。ワクチンの効果も実は不明だし、PCR検査陽性者の行動を制限してきたにもかかわらず陽性者数のコントロールが出来ないで今日に至っているということが、「事実」なのでしょう。しかも、それでも死亡者数は限定されているという見方も出来ると思います。国民は、この件で、不安を煽るテレビや新聞を見ない方がよろしいとお勧めします。僕は、ずっと、テレビのニュースやニュース解説やワイドショーは見ていません。これらのテレビ番組は特に精神に有害だと思います。ネット情報を(玉石混合であることを知りながら)自分で取捨選択して見ることが妥当なことだとお勧めします。

科学論文も怪しいところがある(A)基礎研究も怪しいところがある

(その1)

ノーベル生理学医学賞を受賞した研究も数多くの問題点がありました。その中でも、1926年のフィービゲル(デンマーク)は「がんの原因が寄生虫感染である」という研究で受賞しています。僕は詳細のことは調べていませんが、この事実は複数の書籍で確認しています。この誤った受賞のために、世界で初めての化学発癌の業績を示した日本の山極勝三郎が取るべきノーベル賞が取れなかった巡り合わせになったようです。

 

(その2)

  1949年の生理学医学賞は「精神障害にたいする治療としての前頭葉白質切載術」に対してモニス(ポルトガル)などが受賞しました。いわゆる「ロボトミー」といわれる手術で、現在では医学人権的に問題のある治療法の代表のような扱いになっています。

 

(その3)

  1997年のノーベル生理学医学賞はプリオン病の病因としての特殊な感染性のたんぱく質の研究でプルシナーに授与されました。社会的には、一時は狂牛病のことで世界中が大騒動になりましたが、今では忘れ去られたような感じです。その時だけの大騒ぎのようだったのは何故なのかなと思います。この研究は「間違い」だとの根拠は定かではありませんし、公的にはに認められているようですが、ただ、当初から病因についての論争があり、今でも疑問を抱いている研究者は多少はいるようだということを書いておきたかったのです。

 

(その4)

  実験データーを捏造したり数値を都合の良いように変更したりすれば、これは明らかな不正で問題外であります。しかしながら、ある自説(仮説)の証明のために実験した結果、10回のうちに5回が適した結果で残りの5回が適していない結果が出る場合があります。この適さない5回の資料を捨ててしまったらどうなるでしょうか? 一般的には、こうして得られた研究結果は怪し過ぎるということになるでしょう。

  しかし、僕が大学院生の時に、日本でノーベル賞級の免疫学の仕事をしていた千葉大学の研究室の大学院生たちと免疫学の西の雄のひとつだった九州大学の研究室の大学院生たちと一緒に信州にスキーツアーに連れて行ってもらったことがありましたが、夜の雑談の時に「上手くいかなかったデーターは捨てて、上手くいったようなデーターをまとめることがある」と言っていました。

 この話は、実は、微妙な話です。一般的には、こういう対処は出鱈目な論文につながるものです。ただ、微妙な技術の実験の場合に、「美しいデーターがでた場合だけ、本当だった」ということは、時にかしばしばかは別にして、ありうるのです。しかし、いくら研究として面白いものであっても、こういう場合には、切れ味の鋭い治療法への進展は難しいとは思います。特に、基礎医学関係の研究のデーターの少なくとも一部は物理学の研究に比べては実験の厳密性に大きい差があると知っておくべきだろうと思います。

 ところで、ある有名な歴史的な物理学の研究で(数十年前に読んだ元の書籍が見付からないので、何の実験だったか定かではないのですが・・・ミリカンの霧箱の実験? 天体の距離と何かの値?)、観測実験をしていて、その結果を2次元グラフにプロットしていたところ、滅茶滅茶ばらついてしまったのですが、そのうちの自説の理論に合わないばらつき点を消していったら(これらの点こそは測定の不具合と判断した)、見事なグラフが得られたそうです。そして、論文にその結果を書いたのです。そして、結果的にはそれは正しかったことは歴史が証明しました。その研究者が自説を絶対正しいという自信を持っていたことが基本にあったようです(必要条件かもしれませんが、十分条件では全然ありません)。このようなことは測定技術が相対的に未熟な微妙な時には起こりうることだと思われます。しかし、これは例外的なこととして「論文の当然の書き方」にしてはいけないと思われます。いずれにしましても、重要な研究成果については多少の年月が検証には必要なのだと僕が思う根拠です。

 

 (その5)

  次の投稿に述べる予定ですが、臨床の治療効果を検定する大規模研究においては、それぞれ別の機関が独立して同じようなトライアルを行うと、5つのうちで3つは有効であっても、2つは無効だったという事例はかなりあるのです。その場合、ある製薬会社が委託した研究の結果の中で、たまたま都合の良いデーターの方が得られた場合に、これだけを示すことは「嘘」とは言えない(製薬会社の委託実験はその一つだけだったからです)。しかし、「一般的に本当に本当か?」という不確かさは当然残ります。特に、テレビ通販のサプリメントの宣伝で、「効果があった」という資料を示して信用を得ようとしていますが、これは「嘘」ではないのでしょうが、効果が出なかった資料は捨てていると僕は信じています。しかも、通販レベルの案件の場合は、トライアルの人数はとても大規模調査とはいえず、それ自身だけでも統計的には怪しいと思います。その統計というのも怪しいことが多いのですが。


(その6=余談)

 最初に、ここに書いていた長い話は、僕個人のリアルな体験のことなので、ここの号では冗漫になりすぎると考え直して、一旦削除しました。ただ、近く、別の号に、基礎研究や臨床データーの扱いについて、自分の周囲や自分について生じたことの「覚書」を記録したいと思っています。早目に書き始める予定です。(2021.10.05)


 

 

 

 


2021年9月25日土曜日

新型コロナ騒動における議論を整理することで物事の本質に近づくと思う

コロナ対策において、「命第一か? 経済第一か?」という議論

 日本において、コロナ事象の当初からこういう議論はあったかもしれません。一つの極は、何も積極的なコロナ対策を取らずに常の生活の流れを尊重する。他の極は、厳しいロックダウン政策を採用する(PCR検査の徹底とワクチンの徹底もこのラインに収束する構造にある)ということでしょう。実際に途中からそれなりにボツボツ発信されてきたロックダウン対策への批判は(不肖の僕もその一角を・・・)、1年半以上経った現在では、増えてきているように思われます。街中の生活や地道な経済活動に犠牲を強いているにもかかわらず、行政や専門家会議のコロナ対策の目途が立っていないので、それは自然の成り行きだと思われます。ただ、この表現上は二律背反のようになっている標語の実態は、そんな単純なものではありません(コロナ疾患も命だが、コロナ以外の生活も命がからんでいる)。

 

 僕は、昨年2月にブログ「日出づる国考M」において最初に新型コロナ関連の記事を投稿し、3月以後は主にブログ「意味論コラムM」において関連記事を投稿し続けてきました。当初から、僕は、インフルエンザ並みの緩い対策でフォローすべきだと主張してきました。そして1年半にもなりますが、その考えを変更せざるを得ない状況は起こらなかったと感じています。

 僕は、半世紀ほどの大半を臨床医として生計を立ててきた者なので、仕事上はイデオロギストではなく実務家であるべきで、そうであったと思います。「インフルエンザ並み」ということは「無策」ではもともとないのです。実際の「インフルエンザ」対策は、実務的であるがゆえに論理的・学問的にはいい加減なところ大ありでした。この話については、最初の頃の投稿に議論しています。

 

 「命第一か? 経済第一か?」という議論自体は当然ありうるし、どちらも重要なので、通常はその中間に目標が行くことになりますが、その目標点は状況によって左右に振れるというのも自然の成り行きだと思われます。

以前の投稿にも述べていますが、コロナ対策をある疾患における薬物療法に置き換えると、「なにがしかの効果は期待できるが、一定の副作用がありうる」という話が参考になります。特に、難病などの疾患においては、明らかな副作用があることを承知で治療をすることになります。例えば、がん疾患に対する強力な抗癌剤の投与や自己免疫疾患に対する強力な免疫抑制療法です。こういう場合の副作用は許されうるのですが、そうであってもその治療がもとで死ぬような事態は可及的に避けなくてはなりません。コロナ対策についての賛否両論の議論においても、こういう話と似たようなことだと思われます。僕はこういう議論をすることもあり得たと思います。

 

 しかしながら、僕の行ってきた議論はこういうことではなかったのです。政府が行おうとしているコロナ対策は、その具体的内容の如何にかかわらず、「なにがしかの効果は期待できるが、一定の副作用がありうる」ということではなくて、本当のところは「その効果は不確定なのに(実は、誰にも判らない)、ある程度以上の副作用は確定的に生じる」というものなのだという叫びだったのです。臨床医療の世界では、このような治療薬など認可されないし認可すべきではありません。だから、ある程度以上の生活制限につながる対策は間違っているはずだという意見でした。

 そうであるので、費用のことを度外視すると、PCR検査自体に反対をするものではありません。僕は、イデオロギストではないので、PCR検査はなんでも反対だというものではありません。その陽性・陰性という判定を絶対視することは馬鹿げており、その結果により被験者の生活を大きく左右する強制力や検査を受けない人たちを非難するような方向付けさえしなければ、その結果自体はなにがしかの有益な情報になるかもしれないからです。 

 

PCR検査自体についての反対はないが、mRNAワクチン自体には疑念がある 

ただ、僕のmRNAワクチンに対する考えはPCRに対する考えとは全然違います。PCR検査は本人の体には基本的になにも影響を与えないのですが、mRNAワクチンは怪しい物質を筋肉内に打ち込むのです(僕は、本人から取り出した細胞をiPS細胞化して注射する山中博士の治療の方が直観的にずっと受け入れやすい)。これは、不活化ワクチン(死菌ワクチン)と違って、生ワクチンに近いものです。打ち込んだ物質が生体において(DNAをつくり出して➞あっ、これは間違い)相当するたんぱく質を作りだすので、生ワクチンに近いと考えることができます。すなわち、人工的に少なくとも短期的に生きているような物質で疑似感染させることです。僕は、そもそも生ワクチン自体が怪しい治療法だと思います。「余程切羽詰まったので適用せざるをえなかった治療法」という立ち位置だとすべきものだと思います。

 科学データーではこのmRNA物質はいつまでも細胞質内に残らずに数週間のうちに分解消失してしまうから心配ないらしい。また、核内には侵入しないという。僕は、自称・基礎免疫学研究者でもありますので、立派な研究成果に敬意を表するものです。しかしながら、研究を続けていくと、数年後や数10年後には当初に予想もしなかった事実が判ってくることもあるのです。この場合なら、たとえば、生体内には今まで判っていなかったRNAに作用する何らかの酵素が存在していることがその後発見されて、mRNAワクチンの短期間での影響が消えてしまうということではなくなるとか(これは、議論としての例えばの話で、僕はこの方面のことは良く判っておりません)、その他の新発見が出てくるかもしれません。

 僕は、一つ前の投稿で議論したように、どうせワクチンを使うのなら、インフルエンザと同じような不活化ワクチンを作成して用いることを勧めたい。最初の頃は、いろいろ理屈を捏ねてmRNAワクチンでないと時間的に難しいようにその筋の専門家などが言っていましたが、少なくとも、流行から半年以上も経てば無理のはずがないと思われます。要するに、どういう変異株であっても、試験管内での培養が量的に可能になったら不活化ワクチンは製造可能になるはずです。インフルエンザでも前年に流行した株を中心に用いてワクチンを製造しているので、ある年には流行する変異株が「外れ」であって多少効果の悪いことが生じるらしい。しかし、「なにがしかの効果」というのに意味があるのだと思うか思わないかということだろうと思います。インフルエンザの場合は、これについて長年受け受け入れてきたのです。そして、今後は、インフルエンザ予防接種にもまさかのmRNAワクチンを開発することになるのでしょうか? 感度・特異度の精度を議論し出すとそういうことになってしまいます。

僕は、金を食うことだけがはっきりしているこういう方向は止めた方がよいと思います。米国のロックフェラー財閥などに一杯食わされている可能性が僕の中でどんどん確かなものになってきています。すなわち、mRNAワクチンという技術的には素晴らしい方法を開発した研究者たちはこれを実地応用したい欲望にかられるし(ノーベル賞の対象もありうる)、世界の大手製薬会社は莫大な利益が得られるので、彼らの私利私欲に係る陰謀の疑念が大きくなってきました。米国のグロ-バリスト政治家が絡んだワクチンビジネスやPCR検査ビジネスに一杯食わされているように気が本当にしてきました。なお、米国の医学研究の発展はロックフェラー財団に長きにわたって超絶な支援を受けてきており、それ故の権力構造が構築されています。ロックフェラーのテリトリーということが出来ると思われます。

 

余談として、一般的に予防接種というものは、それがその疾患の見事な予防になる場合であっても、頻度は別にして、かなり問題のある副作用が起こるものだということです。種痘でも稀ながら脳炎が生じて悲惨な結果になったことが複数報告されています。インフルエンザワクチンにおいても、免疫変調によると思われるギランバレー症候群を引き起こした症例が複数ありました。そして、予防接種は元の疾患の発症を修復して形の異なる疾患を誘発することがあるということです。京大の上久保先生のコロナ禍における交差免疫と集団免疫にかかわる議論(僕の投稿に詳しく述べています)において触れられている「抗体依存性ウイルス増殖促進」ということもあり、自然にせよ人工的にせよ、免疫をするということは単純に恩恵的な結果ばかりではありません。食物アレルギーや膠原病を考えれば判ることです。「免疫をする」「予防接種をする」とかの言葉に思考を失ってはならないのです。そのことが意味論的思考のエッセンスだと思います。

 

パンデミックのような感染症において、人為的なある対策が短期間に確実に成功を収めた事例はまだ経験していない

 世界的な被害をもたらしたスペイン風邪には人力は無力でしたが、これは古過ぎて仕方がないと思われます。しかし、この前のSARSにおいてや鳥インフルエンザの騒動の時も、何故か判らないうちに流行は収まりました。

 以下の3つのパンデミックはいずれもインフルエンザ亜型であって、コロナ亜型ではないのですが、参考になるはずです。

 スペイン風邪(1918~1919):古くて不明な部分は多いのですが、世界での死亡者数4千万人で、死亡率>2.5%という資料があります。当初はウイルス分離は出来ず、細菌感染に有効な抗生物質もない時代でした。1918年は第一次世界大戦の最終局面でしたので、戦場でもこのウイルス流行でさらに悲惨な状況を生んで、戦争続行が困難な状況になりました。そして、よく分からないうちに収束したようです。

 アジア風邪(1957~1958):2月に中国から発生。5月にウイルス分離。ワクチンは8月(米国)・10月(英国)・11月(日本)で使用開始になりましたが、製造量は十分ではなかったようです。「集会の禁止」「学校閉鎖」などが実施されたようです。世界での超過死亡者数は2百万人とされています。

 香港風邪(1968~1969):全体に軽症で(前年のH2N2亜型の大流行によって免疫が出来ていた可能性)、学校閉鎖もなく医療負担の増大もなかったとのこと。世界での超過死亡者数は百万人で前年にあった季節性インフルエンザよりも少なかったそうです。 

 これくらいしか、経験がないので、「こうしたらこうなる」というような確定的な対策があると主張する学者は学問を勘違いしていると思います。そもそも、公衆衛生的な空間的ないし数的スケールの大きい事象は純粋学問からは予測できないことが多いという簡単な真理を無視してはいけないと思います。学者は政府が参考とする重要な資料として諮問するだけの立場だと自戒すべきだと思います。

 今回のコロナ騒動において、スウェーデンにおいてはロックダウン的な生活制限をほとんどしなかったし、イスラエルにおいては早期から国内のワクチン接種で他国を凌駕する接種率を誇った。この二つの国の最近までの流行の収支決算は、「こうしたらこうなる」という公衆衛生的な対策は予測通りにはならないことがあることを示していると思います。日本おいても、1~2回のワクチンで済むような予測だったはずですが、目論見通りには行かなくなったこの時点においても懲りずに、3回目のワクチンを予定しています。要するに、予測が「外れている」のです。この場合、①ワクチン効果はいう程のことではないようだから、せいぜい「念のために」の精神レベルに緩めようという選択もあるはずだが、専門家会議の連中は、②ワクチンは対策のキモだから、今後は3回でも5回でも緩めずにガンガン進めよう、という方を迷いもなく政府を通して国民に強いていると解釈できます。

  

国家的な問題において、医学諮問委員会は政府関係者より決して「上」ではない

国民のことを考えるにあたって、どうも医学専門家との名札を貼っている人たちは、自分たちが政府よりも偉いと思っているという、僕に言わせれば、とんでもない誤謬に陥っているのではないかと疑っています。医療業界イデオロギー、あるいは、学者イデオロギーだと思われます。たとえ、政府の人間がこの領域の理解力にどうも怪しいと感付いていても、それは構造上・立場上で仕方のないことのはずです。自分の意見を理解してもらうべく一所懸命に説明しまくるというのは大切ですが、どうも、尾身氏や東京の医学研究者は態度がおかしい。

イデオロギーに陥っている者は、実は、頭が悪いと思います。基礎学問の研究者や臨床医は大学入学にそれなりの壁を乗り越えているということで頭が良いと思われているようですが、僕は、全然そうではないという思いを段々強くしています。入学試験を乗り越える才能のあることと物事の判断を的確にすることとはかなり違うように思います。僕は医師であり基礎医学研究を続けている者なので、自分のことや周囲の同業者を見回したうえで、そういうことをはっきりと言えると思っています。 

実地臨床のことについても語弊を恐れずに言いますと、臨床医の実践は僕においては学問的な知的満足度としては低いものです。大学入試の時に必要だった方面の知的能力もあまり必要としないと思います。この仕事のキモは教科書的なことを参考にしながら、自分で経験を積んで、患者というお客さんに真面目に対応することだと思います。その意義は学問とはかなり違うものです。ということは、建築家や料理人と変わることはないように思います。

すなわち、臨床医の方も実地医療のことは経験豊富であるが、詳しい基礎研究成果の方は受け売り知識程度の場合もありうるわけで、医学や医療の「素人」でも文献をあたっている方もいるわけでして、医師の方が医学を良く知っているということも、限らないと思うのです。比率は少ないでしょうが。

僭越ながら、僕が自分の意見に多少の自信がある理由は(もちろん、しばしば間違いもありますが)、自分が医学・医療の一応の専門家だからということではありません。若い頃から「一般意味論」の考え方を一貫して実践してきたことにあります。一般意味論という馴染みの少ないと思われる考え方を端折って説明すれば、「耳障りの良い、いかにも常識らしい」という意見には用心して、むしろ一旦立ち止まって、実際にはいろんな場合があることを一寸は考えて、自分の評価をボチボチ考えておく癖を付けるということでしょうか。この考えは、基礎研究にも大変に有用でしたが、特に長年の実地医療において「お客さん」の多くに貢献できた武器だったと思っています。

 僕は、二十年前から医療における一般意味論的な考え方を、1題ずつ選んでパンフレットに印刷して、「お客さん」に持って帰っていただくようししていました。百題集まったので、今春に単行本として出版しました(「ドクターMのヘルスコラム」風詠社)。アマゾンで販売しています。

 

この投稿において、文章が長くなりましたので、以下の内容は、次の号以後に書く予定です。

レベルの高い科学論文の内容も曖昧でいい加減なところがある

(その1)基礎研究も結構怪しいところがある

(その2)薬物などの治療法の有効性を証明する大規模統計データーは怪しい

スウェ-デン式コロナ対策は僕の考えと似ていたらしい

民主制国家ではマスクもワクチンも基本的には個人の利益のためのもの

etc.

2021年9月4日土曜日

最近のインフルエンザ感染数が激減したのはマスク着用とは明確に無関係

 最近、ユーチューブで「コロナの真実「現実の裏に隠された闇」(アキラボーイズストーリー #1,2021.04.14)」という記事を見ました。この方(アキラ氏としておく)は若者で何かの会社の代表をしているようです。事業所の代表という者は、政府や地方公共団体からの事業所への制限によって多大の迷惑をこうむるので、いろんな方が、結構コロナのような専門的な内容に関しても真剣に情報や経緯を調査・考察しているようです。僕も小さいながらも事業所を主宰していますのでわかります。アキラ氏の記事の冒頭に、箇条書きの項目が列挙されています。

 1,なぜ政府はコロナに対応できないのか?

 2.なぜコロナ感染者が増えたり減ったりするのか?

 3.なぜインフル感染者が0に近いのに、コロナはなくならないのか?

 4.なぜテレビは恐怖をあおる情報しか出さないのか?

 5.なぜワクチンがこんなに早く出来上がったのか?

6.ワクチンが出来たのに、なぜまだ謎のままなのか?

 

 アキラ氏の意見は、①~④のすべては⑤につながっているというもので、特殊なワクチン(新技術なので高価である)を製造することによって(大企業や世界金融業者による)莫大な金儲けのための陰謀だということです。この陰謀論は、この人の話のような単純・直線的なものとは思えませんが、結果的には、そして部分的には、そのように思えます。(  )は私が挿入したものです。

 ただ、このうちで、②と③については、この医学的には素人と思われるアキラ氏の判断力が的を得ていると思うので、このブログの導入に挙げました。

 曰く、②につていては、東京都の場合の例として、(行政上の判断で)意図的に検査数を増やしたり減らしたりした方針の結果で陽性者数が増えたり減ったりしているだけだ、ということです。 (  )は私が挿入したものです。

 曰く、③については、「風邪症状がでたら、(民衆も行政も)コロナかどうかに関心を集中させて、インフルかどうかについては無頓着だからだ」、ということです。(  )私が挿入したものです。

 どちらについても、当該検査数の実施数の多寡に決定的に影響を受けてしまっているという主張です。今や、こういう考えの人は多くなっているように思われます。

これは私の考えと同じです。それは、8月13日の本ブログの「米国CDC「現行のコロナPCR検査の適用は年内で終わる」という記事」のところで議論している通りです。 

ただ、このアキラ氏の記事の③に触発されて、8月13日のブログで抜けていた議論に気付きました。それをここで明記しておきます。

世間だけでなく、臨床医や基礎医学研究者という専門家であるはずの人々が、安易に主張しているような、「コロナ禍に触発されてマスク着用をちゃんとしていたから、インフルエンザは増えなかった。このことによって、一般的にマスク着用は感染防御に大変有効だということが再確認できたはずだ」という意見は頭の中がスカスカではないかと思うのです。こういうことを恥ずかし気もなく発言する医師などは、教科書に全部教えてもらって、教科書の一部は実は違うかもしれないという学習の仕方の習慣がない人たちです。まあ、素人とよい勝負です(私は、マスク着用そのものは、「適材適所的」には意味が大変あるものだと思ってはいます)。

何故かといえば、感染力については、インフルエンザも新型コロナも似たようなものです。ともに、「感染力はかなり強い方に属する」という病原体です。インフルエンザも新型コロナも特定の変異株によって感染力に強弱はあるにせよ、総体的に同じような感染力レベルであることは間違いがないはずだと思います。インフルエンザの方が感染力は相対的に強いのではないでしょうか?

日本において、マスク着用がインフルエンザ感染を劇的(桁違い)に減らしたのであれば、何故、コロナ感染は抑えられなかったのか??? コロナ感染がコントロールできず、インフルエンザが劇的に減っているということは、大筋としてはマスク着用とは無関係であるようだということは小学生でも判るはずのことです。 むしろ、精神が予備知識や先入観で汚染されていない小中学生の方が判りやすいのかもしれません。

 そして、その原因の(全部とは言わないが)最大の要因は、両者への関心の過大と過少にあり、その結果としての両者への検査実施数の多寡にあると思うべきであります。他に、どういう要因があるというのでしょうか。

 こういう要因をもたらした理由として私が考えることは以下のようなことです。日本という国に限れば、それはアキラ氏の項目にもあるように、マスコミの煽りに政府が負けてしまうからです。今までの状況では、強大なマスコミに逆らうと選挙に負けてしまうからマスコミの誘導に逆らえないのです。安倍政権でも菅政権でも、あまり規制はしたくなかったように思われます。マスコミに逆らえなかったという点で、だらしないと言われても仕方がないと思います。一方、世界的視野に立てば、IT技術の超絶な進歩により国際的な強権を獲得し出したグローバルな経済勢力による陰謀かもしれないと疑っております。この点はアキラ氏とよく似た考えだと思います。ただ、日本政府や東京都や日本のマスコミがそういう筋と直線的な関係にあるとは思えません。


(追記:2021.09.10)

 冒頭のアキラ氏による6つの疑問に対して、私がコロナに関するブログを書き始めた1年半前からの変わらない判断を書いておきます。

 1,なぜ政府はコロナに対応できないのか?

   基礎研究者も臨床医学者も政治学者も官僚政治家も、誰も、このコロナについて「どうしたらどうなる」ということが実は判らないからです。コロナについても、個々の場のことでもそうですが、特にマクロ政策の結末がどうなるかは誰も確定的なことは判らないことは、医学・医療に造詣がなくとも長年人間を生きてきて社会の歴史を知れば判ることです(歴史からの帰納)。「こうしたらこうなる」と解った風なことを言うのが間違いなのです(イデオロギーや期待的論理からの演繹)。「当面こうして様子を見たい」という姿勢でことを運ぶのが正解だろうと思います。その場合、当面裏目に出てもそれをもって行政を責めてはいけないと思います。方針を変更してまた様子を見るほかはないと思います(スウェーデンでの対応はこういう哲学が機能していると僕は以前から評価してきました)。しかし、判った風なことを言って「副作用」の大きい強制的な諸政策をすることを私は責めたいと思います。ただ、政府(それに、個々の地方自治体の首長)もマスコミや民衆からのポピュリズム圧に屈しているように思われます。そして、なんとか諮問委員会~なんとか分科会の尾身さんというのが立場上で一番ヤバい奴だと私は思っております。尾身さんの履歴を調べました。彼は、自治医科大学出身です。この学校では卒後プラン上で最初は地方における実地医療の経験をされているようですが、かなり早期に行政畑に入ったようです。その後、WHOにコミットした仕事をされているようです。医療行政の世界ではヒエラルキーの上層部に値する経歴なのでしょう。本質的には医師というよりは官僚と思われます。不肖ながら私は彼の言動を信用できません。

 4.なぜテレビは恐怖をあおる情報しか出さないのか?

   次のうちのどれが基本か判りませんが、「視聴率を上げること」「不安を煽ること」「安心だとはほぼ絶対に言わないこと」が絶対的な立場だからでしょう。「皆さん、いろんな情報を提供しますので、ご自分自身でよくお考え下さい」ということには絶対にならない。加えて、多くの大手マスコミは基本的に「左翼活動をしている結社」だから、必ず保守政権を公平さを欠いた仕方で徹底的に攻撃します。私は「自民党はひどいので怪しからん」と思うのですが、「左翼野党はもっととんでもない」と思っています。そういう人が相対的に多いから曲がりなりにも自民党が選挙で政権をとっているのでしょう。そういう状況の中で、大手マスコミは左翼政党の主張や反日姿勢の中共政府や韓国内の主張だけを声高に報道するのです。相対的に多い部分の有権者が何故こういう姿勢の大手マスコミを拒否しないのかが不思議ですね。私は、TVのニュース・報道番組・ワイドショーを数年前からは見ないようになりました。それで、世間のことは少し遅れて知ることが多いです。二つの新聞とネットニュースとユーチューブで情報を入れています。2種類の新聞を見比べると新聞社の姿勢をチェックできて興味深いものです。新聞から情報を受けると同時に新聞をチェックしています。新聞の場合はTVほどは腹が立たないのです。

 5.なぜワクチンがこんなに早く出来上がったのか?

   mRNAによるワクチンの開発には既に長い歴史があるようです。その開発研究者を山中伸弥氏がインタビューしている1時間弱の番組を見る機会がありました(=2021年7月15日・ETV特集「世界を変える大発見はこうして生まれた カリコ X 山中伸弥」)。最初は、動物に注射すると当初から強い炎症が生じてお先真っ暗だったとのことです。年月をかけて、化学修飾を加えたりして炎症を起こらなくしたという話でした。アキラ氏の情報では、生体内での安定化のために種々の脂質で保護しているということを述べていました。つまり、もともとコロナ以外の対象にいろいろ試行錯誤で開発してきていたのです。私自身は、今のところ、これに関する原論文の類は見ていません。

   もともとは「箸にも棒にもかからなかった」ものに時間をかけて工夫をして成功したというものです。学問的には、非常に高くされる研究だと私も思いますし、山中先生の ips細胞の研究のようにワクワクと知的好奇心をそそる仕事だと思っています。その一方で、その複雑な化学的操作によって曲がりなりにも出来上がったとする製品は、僕には「潜在的に大いに問題が起こる余地があるのではないか」と心配する所以です。僕はこの領域では素人ですが、やはり問いたいのです。「絶対にとは言わないでも(絶対ということばは僕はあまり使いたくはないのです)、絶対と言いたいほどに問題の極めて少ないものだ」と本当に言えるのか??? 論文のデータはそのように示しているかもしれないが、「どの領域の論文であっても、後日に問題が指摘されることもある」という歴史の教訓を多少は念頭に入れておかないといけないと僕は思うのです。そして、研究室内でのデーターによって確率的には問題がほぼないとされても、僕自身は接種したくないという意志(ひょっとしたら希望とされてしまう?)は捨てられないのです。

   新型コロナに対しては、1年も経つか経たないうちに英国などから使用承認がされたのでしたか。普通はどんな新しい機序の治療薬や予防薬に対して、こんな早く承認するような流れではないと思われます。短期・中期・長期の副作用や不都合な結果についての慎重な見極めを怠っているからでしかないのは明らかだと思います。アキラ氏も同じ考えだと思います。これは「超法規的」な方針なのです。「超法規的」な方針というのは、「将来のことは言っていられる状況ではないから、とにかく今を凌がないといけない」ということのはずです。これは場合のよってはあり得ることでしょう。それは、「将来のことは言っていられない状況」という認識であるほどのことのはずです。日本でのコロナ被害の程度でこういう「超法規的」な対応をすべきなのでしょうか?とずっと疑問を持っています。一方、世界のことは私には判らないことが多過ぎますが、日本よりもっと被害が大きい諸外国でも、こんな位置付けのワクチン(「超法規的」承認)を迷いもなく導入するのはどうかなあと思います。多少は迷うべきだと思います。

  インフルエンザに対するような普通のワクチンの製造は、実は!、可能なのではありませんか(有効率は相対的に低いとしても)? とりあえずは、ある程度以上の量の培養に成功したどれかのコロナ株を使用して普通のワクチンは作れるのではないでしょうか? 同様に変異株の発生するインフルエンザに対しても、次善の策(?)として、前年に流行した株を用いてワクチンを製造しているではありませんか。それと、じゃあ、何故インフルエンザにはもっと有効率が高いというmRNAワクチンを導入しなかったのか? 物理的にはできたはずだと思います。僕は、これは理屈だけではなくて、敢えてこういう仕組みのワクチンを導入せずに、まあボチボチやってきたそこそこのワクチンで社会はそれなりに混乱せずに済んでいたから可としていたように思います。ロックダウン的な社会規制(社会的およびコロナ以外の健康的な事象における確定的な副作用がもたらされる)とこのmRNAワクチンのありうる強制的導入(特に、ワクチンパスポートという人権侵害の疑い)とPCR検査のありうる強制的実施(これにも検査パスポートのような実態がありうる)は思想的にリンクしていると感じます。私は何でも自由であるべきだという考えでは全然ない立場の者であり、国家や地方や家庭のまとまりは大切だと思う者ですが。インフルエンザの場合はそういうことをせずに済ませてきました。

  それはそれとして、いずれにしても、「ワクチンで決定的解決ということではない」ということも「イロハのイ」と認識していないといけないと思います。「ゼロ目標」(=一般的に馬鹿げている)を導くものではなくて、限定的ないし相対的な効果と思っておかないといけない。「あの治療薬が適用されれば、それは決定的だ」という話も「とぼけた話」です。そんななずはないことは長いこと人間を生きてきて歴史を知れば判ることです(前述の帰納作業)。数十年の長い歴史を持つインフルエンザの近代的な対策において、そういう決定的なワクチンや決定的な治療薬が日の目を見ましたか? 未だにそれは無理なのです。そして、毎年多くのインフルエンザによる被害者が出ているのです。 限定的な予防効果や治療効果を期待してこういうのを受け入れてきただけです。やはり、後は運不運と個人の対応に任されているのです。

  昔のスペイン風邪や最近のSARSにおいては、流行が収まった理由は人力ではなかったと思われます。このコロナの事象においても残念ながら人力はまだまだ絶対ではなくて、「時」が過去の流行病を抑えてくれたという歴史の繰り返しであったことを冷静に謙虚に思うべきだと思います。そうして、もうそろそろそのタイミングは近いと私は期待しています。多分、「時」というのは、ウイルス自体側の自発的な変質と宿主側の集団免疫的な機構が働くのだろうと思います。

6.ワクチンが出来たのに、なぜまだ謎のままなのか?

  これは(1)と同じ議論になります。

2021年8月21日土曜日

2つの投稿における「偽陽性率」の誤記を「陽性非適合率」に訂正します

コロナ検査の陽性・陰性の結果における議論において、種々の用語を使っています。いずれの用語にもその定義があります。この一連のブログで、検査の「感度」「特異度」「真陽性」「偽陽性」「真陰性」「偽陰性」という用語を使っています。これらの用語と、集団全体の「陽性率」(または「陽性者率」)「陰性率」(または「陰性者率」)という用語の使い方には間違いがないと思います。 

しかし、このブログの議論において重要な因子として用いた「偽陽性率」という用語は、完全に間違いであることに今しがた気付きましたので、恥ずかしながら訂正します。チェックした結果、誤記した投稿は「現状のコロナPCR検査結果で判ること(「公的な」ネット公開資料による」と「その続編」の2つだけだったと思います。誤記した投稿は書き換えました。

間違いに直ぐに気付いた方々は少なくないと思われますが、コメントを受け付けておりませんでしたので、長い間、気付きませんでした。

正しくは、「偽陽性率」=偽陽性 / 真陰性+偽陽性です。それは、陰性であるべき集団(=真陰性+偽陽性)の中での「間違い結果」の比率のことでした。 

この一連のブログでは、「偽陽性率」=偽陽性 / 真陽性+偽陽性、として計算していました。というより、偽陽性 / 真陽性+偽陽性という因子に重要な関心を払ってきましたが、それを「偽陽性率」と間違って表現してしまったということです。 

成書には、「陽性的中率」=真陽性 / 真陽性+偽陽性、という用語が定められています。それ故、僕の関心を持っている因子である「偽陽性 / 真陽性+偽陽性」=「1-陽性的中率」というのが学問的に正しい表現のようです。なお、「陰性的中率」=真陰性 / 真陰性+偽陰性、となっています。 

今後の訂正においては、このブログで誤記していた「偽陽性率」というところは「1-陽性的中率」に訂正するのが正解でしょう。しかしながら、これは、スマートな表現ではないし、使いたくありません。そこで、このブログにおいては、苦し紛れとして「陽性非的中率」という表現にしますので(正式用語ではないかもしれません)。 

 何故、こういうややこしい記載事態になってしまったかについて、言い訳的な説明をしたいと思います。 

僕の方は定義から出発しているのではなく、現実の検査結果の統計数値から議論しているのでした。集団の疫学データー自体からは陽性者数と陰性者数しか判りません。だから、分母全体が陽性者全体(陽性的中率の場合)や陰性全体(陰性的中率の場合)の数値からは、いろんな疫学的推論が可能です。

一方、分母に「真陽性+偽陰性」(感度の場合)とか「真陰性+偽陽性」(特異度の場合)などは、集団の疫学データー自体だけからは不明な数字です。これらは、他の場での解析的なデーター(特に、研究室内でのin vitroの実験結果)を参考にして初めて示されるものです。ただ、もし、その解析的なデーター自体に間違いがあったり、実験条件が社会状況を正しく反映していなかったりの場合は、この値も信用できなくなります。この場合は、今回のコロナ騒動においても十分ありうることでしょう。 

僕は、「陽性結果の者の中にはどれだけの偽陽性者がいるのか」という点を問題としていたので、「偽陽性 / 真陽性+偽陽性」という因子がキーポイントでした。これを、つい、「偽陽性率」と間違ってしまいました。 

(追記1)

ところが、例外的に(?)、陽性者数・陰性者数だけの情報で特異度が推定できるように思った場合がありました。そのことは、「この1年余のコロナPCR検査問題の総括―その3」(2021.06.08)の投稿と「この1年余のコロナPCR検査問題の総括―その3続編」(2021.08.12)の投稿のところで議論しています。 

(追記2)

僕らのような末端の実地医家は、腫瘍マーカーや甲状腺機能低下症などの臨床データーを治療の参考にしますが、特異度・感度などは検査開発者が先に示していますし、実際の場面ではあまり統計学的な定義を日常の取り組みの中で扱うことは少ないですね。それよりも、むしろ、異常値と正常値との境界の「基準値」をもって、診断の参考にしていることが実際的です。この時に、特に問題になるのが基準値付近の検査値の場合です。つまり、陽性や陰性は明確な境界はないのです。統計学的な「平均値」と「標準偏差」や「標準誤差」という指標を参考にして基準値の信頼度を確保しようとしているわけですが、個々においては外れることがあるのは当たり前というのが前提です。それ故、こういう臨床検査値だけで診断を決めてしまうことは乱暴なので、注意が必要です。ただ、非常に高度の異常値が出た場合は臨床検査に依存する程度は非常に高くなることは確かです。

 (追記3)

また、これと次元の違う話としては、臨床検査の結果を基に治療方針を決定する際に、患者本人が治療に同意しなかったら医師のしたい治療(本人に有益だと医師が思った治療)は出来ないことは、もともと、当たり前のことです。医療一般の場合には本人(場合によっては、保護者やそれに相当する人)が決めることなのです。

しかるに、コロナPCR検査の結果をもって、受検者本人への強制力だけでなく、その受験者の属している集団の人々全体への強制力を発揮することは当たり前のことでは決してないはずです。これは、「きれいごと」の人権・民主主義とかのスローガンではなくて、実際に国家としての大変重要な問題だと思うべきです。

これは、ことが「感染症」という厄介な問題であるからの強制力発揮ということなのは僕もよく認識しています。しかし、線引きが間違っていると思います。「戦争」や「日本沈没(小松左京の小説)」などの場合は、この線引きは個人制限の方に最大限にシフトするでしょう。しかし、現在までの日本の状況において(世界のことはもともと敢えてあまり議論をしないようにしています)、多くの人々の自由な生活をこれほど大きく・長く制限することは、物事の判断を基本的に誤っているというのが僕の考えです。

そういうことに加えて重要なことは、医学専門家の答申している対策・手引き・ガイドラインはその効果がどれくらいあるか、実は、誰も今の時点では不明なのです(場合によってはマイナスのこともあると思います)。

ワクチンについても、インフルフルエンザの場合は長らく1回接種に誰も疑問を持たなかった(個々の専門家は別として)。新型コロナのワクチン接種の場合では、当初は2回以上の議論は聞いていない、それが、2回で当たり前のようになり、最近では3回と言い出して久しくなろうとしています。専門家の効果予想が大きく外れているからなので、「もう、そういう話は信用できない」という話になってもおかしくないはずです。専門家を馬鹿だと言っているのではなく、誰にも判らないから仕方がないということです。しかし、判った風な話をする専門家は「馬鹿」であって、かつ、「犯罪的」だと僕は思うのです。現在において新型コロナで断定的なことを言い募る医学専門家は国家規模の大きな事象については「実は、わからない点がある」ということを真摯に考え直さないいといけないと思います。

あの名前も恐ろしかった2003年の「SARS=重症急性呼吸症候群」は案外早く消退してくれましたが(日本には来なかったという結論になっている)、どこかの政府の対応が飛びぬけて正解だったのでしょうか? そうではなかったはずです。専門家も誰も良く判らないと思います。判らない間は慎重に最大限の関心を維持しながら、「様子見」をすることからは始めなくてはならない。直ぐに対策を取ることがあってもよいが、最初は「副作用」の少ない対策を取らないといけない。よく判らない間は「省エネ」対応をしておこうが正解ということです。 

僕は、随分前から「マスクを必要と考える場合以外はするべきではない」と言い続けてきました。狭い室内の場合は別にして、大変広い建物内や、特に、戸外の状況の場合で、マスクをしなかったら(それが有史以来の状況だ)、少量ずつの抗原の自然暴露による、本来の望まれるべきワクチン効果がかなり前から有効になっていたのではないかという議論に対して明確に否定できる免疫専門家はいるのだろうか。僕は、いないと思います。

効果が不明な現行のワクチンより、現実的には余程の効果があった可能性はあると思います。僕は、ワクチンを全否定するものではありませんが(それなりの個別的効果はあると思います)、予防効果は関係者が主張するほどは明確ではないし、製薬会社や医療関係のビジネス関係者その他に莫大な利潤が転がり込み、それに関与する政治家に利益が生まれることだけがはっきりしています。

今のマスク禍、すなわち、ホモ・マスクス(homo maskus)現象は僕にとっては多くの間違いの一つと思っています。マスクのことについては以前も何度か議論していますが、近く、また重ねて議論をしたいと思います。



2021年8月13日金曜日

米国CDC「現行のコロナPCR検査の適用は年内で終わる」という記事

最近、CDC(米国疾病予防センター)が「現行のコロナPCR検査は年内で終了して、マルチプレックスアッセイという検査に移行すると発表したという複数の記事がユーチューブでみられるようになった。この記事を見たので、急にこのタイトルの投稿を入れることした。

ユーチューブの中では、そのオリジナルはどうも8月5日の「真実の報道 エポックメディア NEWS」の「米CDC、PCR検査の取りやめを決定、新たな検査法を推奨」という記事のようだ。これは、ネットニュースサイトの「大紀元・EPOCH TIMES」で書かれた8月3日付けの同タイトルの記事をそのままユーチューブに掲載したものだ(https://www.epochtimes.jp/p/2021/08/76692.html)。

その内容は以下の通りだった。

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「米疾病管理予防センター(CDC)は721日、新型コロナウイルスについて、「PCR検査を推奨しない」とする新たなガイドラインを発表した。今後は新型コロナウイルスとインフルエンザを区別できる「マルチプレックスアッセイ」という検査法を推奨するとしている。

PCR検査を巡っては、その精度を疑問視する声が当初からあった。ウイルスの検出に必要なサイクル数(Ct値)に国際的な標準はなく、数値が高ければウイルスが少なくても陽性と診断されるからだ。また、死んだウイルスの断片と生きた感染性ウイルスを区別できない場合もあり、偽陽性のリスクが高まるという懸念もあった。

CDCは昨年11月、PCR検査の基準値について、「患者のウイルス量や感染力、隔離期間を判断するために使用すべきではない」と説明している。

世界保健機関(WHO)も今年120日に、新型コロナウイルスの診断についてはPCR検査と並行して患者の既往歴や疫学的な危険因子も考慮すべきであると伝え、「ほとんどのPCR検査は診断の補助である」とするガイドラインを発表している。

米CDCは新たな検査法「マルチプレックスアッセイ」について、感染症の急性期にある人から採取した「上気道または下気道の検体から、SARS―CoV-2(新型コロナウイルス)、インフルエンザウイルスA型、B型のRNAを検出し、識別できる」と説明している。米CDCは20211231日以降、PCR検査の「緊急使用許可申請」を取り下げ、マルチプレックスアッセイを含む新たな検査法に移行するとしている。

(翻訳編集・郭丹丹)

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これに対してのヤフー検索でヒットした「Q&A」欄における回答に「これはデマだ」という書き込みが複数あって、肯定的な返答はなかった。デマであるという回答者は「コロナPCR検査が終わるというのはデマ」ということらしい。しかし、この「大紀元・EPOCH TIMES」というサイトは政治的な方針を持っているサイトだと思われるが、いい加減なことを書くところではないと思っているので、僕としてどう判断できるのか直ぐには判らなかった。そこで、リンクを張ってあるCDCのオリジナルな声明(2021年7月21日付けのラボアラート:SARSーCoVー2テスト用のCDC RT-PCRへの変更)を読むことにした。

すると、現行の新型コロナPCR検査の代わりに、採取した検体から、新型コロナ・A型インフルエンザ・B型インフルエンザの3つを一度にPCR検査としての検査をしてしまおうということらしい。その対処として、「マルチプレックスアッセイ」という技法を利用しようということらしい。一般に、この技術は複数の企業が受注宣伝をしているような既に応用されている技法らしい。

もしそうであるなら、質的には、新型コロナに対するPCR検査自体は、この技法を援用して続行するということで、大紀元ニュースは、医学の専門家ではないということから、解釈が違ってしまったのだろうと僕は思った。「デマ」というのは、言い過ぎだと言っておきたい。

ただ、新型コロナPCR検査の製品改良は経時的に行われて然るべきだが、質的には続行するということだろう。では、何故、より手間のかかる技法を用いて、新型コロナだけでなくA・Bインフルエンザを検査するパターンを推奨するのだろうか。現在のパターンのコロナPCR検査に問題があることを認識していることを示していると僕は思った。

 

僕は、以前から考えていたことと関係があるのかもしれないと思った(違うかもしれないが)。日本だけでなく米国でも、新型コロナ騒動の期間にはインフルエンザ陽性者は激減している(日本では数桁も少ない)。これは、大いに目を引く現象だと思われる。この説明として、①マスク着用により多くの病原ウイルスを遮断した、②新型コロナ感染による交差免疫の効果による、の二つのことが多くの人から述べられている。僕は、どちらの説明も質的には解釈可能であっても、量的には説明しきれないと思う。別の言い方をすると、現実にはどの程度の減少効果があるのか判らない=科学的にはデーターがない、それらしいという感想が大きい。そして、僕にはそのような感想は持てない。 

マスクについては、日本ほど着用比率が高い国はないし、日本でも、どの程度の減少効果がマスクに依るのかは定かではない。そう主張したり推奨したりする医師や医学者は自分たちが主張している程には定量的なデーターを持っていないはずだ。僕には、多少ともだが、彼らにポピュリズムの臭いがする。(僕は、マスクを全面否定するものでなくて、合理的なパターンで適用すべきだと主張してきたが、次の投稿でも再度議論したい。)

交差反応説への反論としては、じゃあ、毎年の冬季を中心にインフルエンザが流行っているのに、2020年の冬季から春季にかけて新型コロナ騒動がどんどん拡がっていったこととの整合性は如何にということだ。免疫学の基本としては、交差反応は場合によっては一方通行がありうるかもしれないが、通常は双方向性と考えてようと思われる。そうすれば、日本では年間数千万人ものインフルエンザ感染者が生じるとされているのだから、交差免疫効果が作動しているのであれば、新型コロナの大流行はそもそも起こらないことになる。そして、逆に、例年のインフルエンザ感染者数に比べて、新型コロナ感染者数の実数はそんなに多くないのであるから、新型コロナ感染にかかわる交差免疫反応効果によってインフルエンザ感染が2桁も少なくなるなどとは到底考えられないはずだ。それ故、交差免疫効果での説明でも無理がある。 

以上から、2021年冬季以後のインフルエンザ感染者数が極端に少なかった理由のかなりの部分は別のところにあると思っている。

 

端的に言って、コロナ騒動の間には、例年のインフルエンザ簡易抗原検査の実施件数が極端に減ったのが原因だと僕は思っている。厚労省やその他のサイトの資料を見て回っても、インフルエンザ検査陽性者数が極端に減った数字だけが記載されていて、陽性率は書いていない。すなわち、被検者総数には今のところアクセスできていない。

新型コロナ感染については、マスコミがこの陽性者数 被験者数の比率を書かずに陽性者数だけを書いて騒動を煽っているが、別の次元で、インフルエンザにおいても同じ誤りをおかしている。それは、全体像が見えないパターンの資料提示であるということだ。 

この1年余の間では、風邪症状が出てもインフルエンザのことが頭に登らないで、コロナのことばかりが気になるパターンとなっているはずだ。インフルエンザ検査総数を見ることができれば、このことははっきりするが今のところ推論でしかないのが残念だ。 

来年からCDCがマルチプレックスアッセイを推奨することにより、僕は、インフルエンザ陽性者がそれなりに正しく増えてくると予想している。同時に、新型コロナ陽性者の一部においては発症した風邪様症状の原因が新型コロナであるとは断定できなくなるのではないかと予想している。CDCもこのことに気付いて同時複数の検査を行う方が、実態以上のコロナ騒ぎを多少でも正しく鎮静化できるのではないかと考えたのではないだろうか。CDCの正式の考えはそうでなかったとしても(CDCは「特にインフルエンザが流行する冬季の場合などに、マルチ検査をすることで時間と検査資源が節約できるから」としか言っていない)、僕はそうなるのではないかと思う。    

ただ、こういう方向は、検査に投入する費用がどんどん嵩んでいくことになるので、こういう流れが単純によいことと考えてはいけないと思う。先に、一般意味論的な考えを参考にして、頭を冷やすことも大事ではないかと思ってしまう。

 

PCR検査陽性者と感染者と重症者との関係 そして インフルエンザとの関連

 この内容については1年前からの本ブログにおいて既に述べており、この1年間でその議論の訂正の必要はほとんどなかったと自覚している。次のブログで、自分としての考えを確認・整理してみたい。

 

2021年8月12日木曜日

現状のコロナPCR検査結果で判ること(「公的な」ネット公開資による)(続編)感度80%、特異度99.9% の場合

 この1年余のコロナPCR検査問題の総括=不適切さは単純明快だ (その3) 

現状のコロナPCR検査結果で判ること(「公的な」ネット公開資による)(2021.06.08投稿)における前提条件(感度70%、特異度99%)をもっと優秀な下記に変更した場合について、その結果の変更部分を青色文字にして再投稿してみた。

この前提条件については、僕には実際は判らないのだけれども、この程度の優秀な検査であるという情報に接することが多くなったと感じている。僕にとって決定的なことは6月8日の投稿に述べたように、厚労省のネット資料における「空港、海港検疫」の70万人を超す検査データーの結果を僕なりに分析してみると、少なくとも特異度については99%よりももっと優秀なものであるはずだという結論になっていた。


感度80%、特異度99.9% で議論した場合 

検査データーの読み方のイロハ(感度・特異度・陽性的中率・陰性的中率)

 前回の投稿での初めの部分で述べたことを、ここで、もう一度確認してみようと思う。それによって、次節からの議論を判りやすくしたいと思う。現在のコロナPCR検査における精度・信頼性の問題は、純粋に算数的な因子に整理還元することができる。つまり、基本的には、①感度と②特異度という2つの因子に依存しており、さらには、③被検者集団の真の(現実の)陽性率の多寡にも少なからず影響を受けている。つまり、3つの因子で計算の上で明らかになる。

 

  PCR検査の陽性者率(陽性者数 検査実施者数)を明示しているデータ

 一般新聞やテレビ報道においては、この(陽性者数 検査実施者数)、つまり「陽性者率」というデーターを一切報道していない。そして、PCR検査の陽性者数だけをセンセーショナルにアジテートして、日本を集団ヒステリーに導いているように僕には思われる。しかも、PCR陽性を感染陽性と同義に扱っているという誤りもおかしている。

 新聞やテレビしか見ていない人は自分がいかに洗脳されているのかを考えたほうがよいと思う。ネット情報は非常に玉石混合であることは疑いがなく、特に若い人々には偏った考えにならないか僕は心配するところもある。ただ、多くのデーターを自分で吟味して取捨選択できるという利点がある(ただ、最近では、YTやFBやツイッターなどで運営側による検閲と削除という大手マスコミと似たり寄ったりの行状が知られるようになっているが、それでも大手マスコミよりはましだ)。僕の世代の前後の多数の高齢者は新聞とテレビからだけの情報しか得ていないので、こちらの方の不都合が大き過ぎると思われる。しかも、こういうポピュレーションの選挙投票率が高いという「問題」がある。

 厚労省・東京都・NHK・日本経済新聞(日経)の4つのホームぺージだけについてみてみたが、いずれも経時的な種々のPCR検査に関するデーターや重症者数や死亡者数のデーターを示していることを遅まきながら知った。このうち、陽性者率(陽性者数 検査実施者数)を個別データーとして経時的に示しているのは、厚労省と東京都の公的なものだけのようだ。この二つともその数値は、時期により多少の変動はあるにせよ、ほぼ常に5%前後らしい。日経データーにおいてもそれは3~5%くらいで変動しているようだ。NHKのデーターは、直接データーは見当たらなかったし、間接にもよく判らなかった。この観点に関心がないのか、敢えて示したくないのかどちらなのだろうと思った。

 PCR検査の精度が、感度80%・特異度99.9%の程度だとされていることを前提に、再度、ここで実態を計算してみた(2つ前の「この1年余のコロナPCR検査体制の総括=不適切さは単純明快だ(その1)」参照)。

 検査結果としての凡そ陽性率が5%ということからの取っ掛かりとして、 

 想定上の陽性率が5%の集団にこの検査をおこなった場合(1万人対象で): 

 本当の陽性者500人・本当の陰性者9500人のはずだ。

 そうすると、検査上の結果は、感度と特異度に基づく簡単な計算により、

     真陽性400人・偽陰性100人

     真陰性9490人・偽陽性10人

 よって、検査上の陽性者率は400+10/10000=約4%

    (なお、陽性的中率=400/10+400=97.6 

              陽性非的中率10/10+400=2.4%)

 なお、想定上の陽性率をそれぞれ、0・2.5・5・7.5・10・100%

の各値でこの計算を行ったところ、いずれの場合でも検査上の陽性者率計算値とは大きい差はなく、方眼紙でプロットしたところ直線関係にあった。なお、想定上の陽性者率が3.5%の時に両者は一致した。そして、想定上の陽性者率がそれより低い領域では検査上の陽性者率がやや高目になり、高い領域ではやや低目になる。

 すなわち、検査結果から出てきた陽性者率は、その集団全体の想定上(実際)の陽性者率とほぼ一致するという算数的な構造に落ち着くことになる。ちなみに、集団における想定上の陽性率がゼロ%と百%という極端な場合でも、検査上の結果から得られた陽性率はそれぞれ1%と80%という、それほどかけ離れた値にはならない(繰り返すが、この数値自体は、感度80%・特異度99.9%の場合のものだ)

 実際の陽性者率が僅かな集団を検査すると、とんでもない値の偽陽性者率が増えてくるということは既に強調してきたところだ。ところが、ここで議論したことから判ることは、それにもかかわらず、集団全体の実際の(真の)陽性者率は検査結果の全体の陽性率とほぼ同じということで、重要な参考になりうるということだ。この二つの数値はお互いに矛盾するものではなく、同居している。

 公表資料によると、その陽性者率の値は約5%(20人に1人)であるのが現在までのかなり長い期間における日本の状況であるということだ。もちろん、完全なアットランダム集団に検査を行ったのではなくて、いわゆるクラスター集団やハイリスク状況と思われている集団の場合が多いと思われるが、そうでもない集団もかなり含まれていることも事実だろう。ともかく、厚労省のデーターによると、既に1千5百万人に迫る検査数(同一人に複数回の検査機会が含まれているとはいえ)が登録されおり、それに基づくデーターの全体の状況が5%(20人に1人)に近い陽性者率となっているということだから、大凡はそういうことになる。

 いずれにしても、日本国内においては、もう長期にわたって陽性者率がほぼ5%で安定しているということは、「この新型コロナウイルスは基本的には全国に拡散してしまったのである」と解釈すべき余地が十分にあると思われる。しかも、全死亡者数は冷静に考えるとかなり少ない」のだから、もう生活や生命を強力に圧迫して人々を不幸にする社会規制を止めるべきであることを政府は真剣に考える必要がある。遅まきながら、大凡は、インフルエンザ並みになっていると判断し直さないといけない。インフルエンザも常から変異株が生じているし、時には「新型インフルエンザ」として大きく注目されることはあったが、ロックダウンや強制的な抗原検査や強制的なワクチンや強制的なマスクなどは行われたことはなかったではないか。マスコミと無責任野党とそれらの勢力が便利に使う世間知らずのあるいは社会全体のことを考える能力のない医学研究者にどう対処するかは難しいことだと思われるが、政府は責任を果たしてほしい。

 いずれ、議論する予定だが、どれほどの効果があるか判らないコロナワクチンを、泡を食ったような状況でしまくる必要性があるようには僕には思えない。既に、このようにウイルスが日本の国内に広まっていて、知らない間にこのウイルスに触れているポピュレーションはかなりあるのではないかと思われたからでもある。ワクチン集団接種の会場を強引に確保するために、他の社会インフラに用いるべき大量の施設を流用することが決められていきつつあるが、コロナ以外の生活をここまで無視すべきなのか? 特に、医学関係者には思い上がりを自分で戒めて、広い視野を持っていただきたいと思う。医療というものは確かに非常に重要であるが、多くの人間社会の中の一つの部門・領域に過ぎないという面も考えないといけないと思う。「非常事態」なら話は別だが、どこが「非常事態」なのだ。悪い意味でのポピュリズムではないか。

 飛行機や船での入国者におけるPCR検査陽性率は驚くようなデーターだった

                         (2021.6.8の記事)

 厚労省のネット資料には「空港、海港検疫」と「チャーター便帰国者事例」との2つデーターも大変判りやすく発表されている。前者のPCR検査陽性者率は、2988/712411で、1%未満(0.2%)だったし、後者のそれは、15/829で、2%だった。これらの数値は、国内の平均陽性者率の約5%と比較しては非常に少ない値だ。

この号を含む最近の3つのブログにおいて行った簡単な計算結果から理解できるように、「空港、海港検疫」の70万人超の検査対象者においては真の陽性者は検査上の陽性者の4分の3であって、残りの4分の1は偽陽性だったということだ(算数上=集団を扱う科学上、検査陽性者総数の2988人は特異度99.%に規定される偽陽性者と計算される数の712人の4倍程度だ)。・・・・・。そして、「チャーター便帰国者事例」の829人の検査対象者の検査陽性者については、このデーターに近い値であった可能性が大きいと思われる(検査の特異度99.9%からの計算上では、偽陽性者は0.1%を占めているに過ぎないから)。

この事実を認識した上で、当局は対応をすることが望まれる。最も大事なことは、海外からの入国者や帰国者におけるPCR検査陽性率は国内生活者に比較して大変少なかったという事実を国民に知らせるべきだ。特に、「空港、海港検疫」では国内の25分の1の陽性者率という少なさだった。ここでは、海外からの変異株のことは議論できないが、日本において現実の脅威になるという確定的な証拠はないのである(いずれにしても、ゼロリスク目標などととんでもないことを言い出したら話は別であるが)。

 僕はオリンピック第一主義者ではないが、強力な西欧勢力が五輪を開催せよという意向なのだから(日本政府も「国益」のために開催したいと思っているのだろうが、世界を支配している西欧の勢力が開催反対なら開催は無理だ)、国家としての日本はよほどのことがない限り開催に進むしかないだろうと思う。そこに大いに怪しい国際上の金銭の悪徳がからんでいるとしても(からんでいるからこそかもしれない)。世界の政治力学に無頓着や無知でなければ、そういうことになる。それが嫌なら、独立国家として自立できる国の体制を整えなければならない(特に、節度あるが一定レベル以上の軍事・諜報機能だが、むしろむしろそれよりも、実質上でGHQによって作られた「被統治国憲法」の是正が本筋だ)。しかるに、左巻きのマスコミと野党に対峙できない日本の政府はこのことを進めることが戦後ほとんどできないでいる。

 それもそうだが、五輪に人生をかけてきた少なくない数のアスリートのことを思うと、開催させてあげたいと僕は思う。例えば、研究者の方がアスリートよりも立派なんて誰も言えないはずだ。素晴らしいプレーによって多くの人たちが感銘を受けることができる。スポーツで頑張る人たちも僕は応援したいと思う。その代わり、アスリートはあまり偉そうな発言をしない方がよいと思う(誰かが発言しているということを言っているのではないので、念のために)。税金まがいの国家などからの援助を沢山受けているのだから。

 PCR検査陽性者と感染者と重症者との関係

 この内容については1年前からの本ブログにおいて既に述べており、この1年間でその議論の訂正の必要はほとんどなかったと自覚している。次のブログで、自分としての考えを確認してみたい。