2021年9月26日日曜日

科学論文も怪しいところがある(A)基礎研究も怪しいところがある

(その1)

ノーベル生理学医学賞を受賞した研究も数多くの問題点がありました。その中でも、1926年のフィービゲル(デンマーク)は「がんの原因が寄生虫感染である」という研究で受賞しています。僕は詳細のことは調べていませんが、この事実は複数の書籍で確認しています。この誤った受賞のために、世界で初めての化学発癌の業績を示した日本の山極勝三郎が取るべきノーベル賞が取れなかった巡り合わせになったようです。

 

(その2)

  1949年の生理学医学賞は「精神障害にたいする治療としての前頭葉白質切載術」に対してモニス(ポルトガル)などが受賞しました。いわゆる「ロボトミー」といわれる手術で、現在では医学人権的に問題のある治療法の代表のような扱いになっています。

 

(その3)

  1997年のノーベル生理学医学賞はプリオン病の病因としての特殊な感染性のたんぱく質の研究でプルシナーに授与されました。社会的には、一時は狂牛病のことで世界中が大騒動になりましたが、今では忘れ去られたような感じです。その時だけの大騒ぎのようだったのは何故なのかなと思います。この研究は「間違い」だとの根拠は定かではありませんし、公的にはに認められているようですが、ただ、当初から病因についての論争があり、今でも疑問を抱いている研究者は多少はいるようだということを書いておきたかったのです。

 

(その4)

  実験データーを捏造したり数値を都合の良いように変更したりすれば、これは明らかな不正で問題外であります。しかしながら、ある自説(仮説)の証明のために実験した結果、10回のうちに5回が適した結果で残りの5回が適していない結果が出る場合があります。この適さない5回の資料を捨ててしまったらどうなるでしょうか? 一般的には、こうして得られた研究結果は怪し過ぎるということになるでしょう。

  しかし、僕が大学院生の時に、日本でノーベル賞級の免疫学の仕事をしていた千葉大学の研究室の大学院生たちと免疫学の西の雄のひとつだった九州大学の研究室の大学院生たちと一緒に信州にスキーツアーに連れて行ってもらったことがありましたが、夜の雑談の時に「上手くいかなかったデーターは捨てて、上手くいったようなデーターをまとめることがある」と言っていました。

 この話は、実は、微妙な話です。一般的には、こういう対処は出鱈目な論文につながるものです。ただ、微妙な技術の実験の場合に、「美しいデーターがでた場合だけ、本当だった」ということは、時にかしばしばかは別にして、ありうるのです。しかし、いくら研究として面白いものであっても、こういう場合には、切れ味の鋭い治療法への進展は難しいとは思います。特に、基礎医学関係の研究のデーターの少なくとも一部は物理学の研究に比べては実験の厳密性に大きい差があると知っておくべきだろうと思います。

 ところで、ある有名な歴史的な物理学の研究で(数十年前に読んだ元の書籍が見付からないので、何の実験だったか定かではないのですが・・・ミリカンの霧箱の実験? 天体の距離と何かの値?)、観測実験をしていて、その結果を2次元グラフにプロットしていたところ、滅茶滅茶ばらついてしまったのですが、そのうちの自説の理論に合わないばらつき点を消していったら(これらの点こそは測定の不具合と判断した)、見事なグラフが得られたそうです。そして、論文にその結果を書いたのです。そして、結果的にはそれは正しかったことは歴史が証明しました。その研究者が自説を絶対正しいという自信を持っていたことが基本にあったようです(必要条件かもしれませんが、十分条件では全然ありません)。このようなことは測定技術が相対的に未熟な微妙な時には起こりうることだと思われます。しかし、これは例外的なこととして「論文の当然の書き方」にしてはいけないと思われます。いずれにしましても、重要な研究成果については多少の年月が検証には必要なのだと僕が思う根拠です。

 

 (その5)

  次の投稿に述べる予定ですが、臨床の治療効果を検定する大規模研究においては、それぞれ別の機関が独立して同じようなトライアルを行うと、5つのうちで3つは有効であっても、2つは無効だったという事例はかなりあるのです。その場合、ある製薬会社が委託した研究の結果の中で、たまたま都合の良いデーターの方が得られた場合に、これだけを示すことは「嘘」とは言えない(製薬会社の委託実験はその一つだけだったからです)。しかし、「一般的に本当に本当か?」という不確かさは当然残ります。特に、テレビ通販のサプリメントの宣伝で、「効果があった」という資料を示して信用を得ようとしていますが、これは「嘘」ではないのでしょうが、効果が出なかった資料は捨てていると僕は信じています。しかも、通販レベルの案件の場合は、トライアルの人数はとても大規模調査とはいえず、それ自身だけでも統計的には怪しいと思います。その統計というのも怪しいことが多いのですが。


(その6=余談)

 最初に、ここに書いていた長い話は、僕個人のリアルな体験のことなので、ここの号では冗漫になりすぎると考え直して、一旦削除しました。ただ、近く、別の号に、基礎研究や臨床データーの扱いについて、自分の周囲や自分について生じたことの「覚書」を記録したいと思っています。早目に書き始める予定です。(2021.10.05)


 

 

 

 


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