2020年6月17日水曜日

コロナPCR検査を集団対策に用いる不都合さの根拠

前号において、現行のインフルエンザ(インフル)や今回の新型コロナ(コロナ)についての感染の有無を判定するための検査における検査自体の信頼度についての概要をデーターで示しました。繰り返しますと、例えば、1千万人の集団にこれらの検査をした場合、仮定陽性率が1%の場合(本当の陽性者は10万人)では、2万5千人の偽陰性と49万5千人の偽陽性が出てしまい、仮定陽性率が10%の場合(本当の陽性者は百万人)では、25万人の偽陰性と45万人の偽陽性が出てしまいます。それぞれ、50万人と70万人の誤判定が出ているという言い方もできます。誤判定率としては約5%(20分の1)です。
 誤判定率が5%程度であるということは一般的な臨床検査の精度としては非常に優秀であると思われます。それならば、「この検査結果の集積を集団への介入の直接的な参考にしてよいではないか」という話になるかといえば、僕はそうではないと思います。集団への介入の程度が「そこそこ」とか「市民の生活を破壊しない範囲内の可能なこと」であればそういう話になることもありますが、集団への介入策の程度を可及的に厳しくする(ウイルス感染の拡大を完全を目指して防止する)ということであれば、「この検査は20件に1件の誤判定が出るようないい加減な検査」という位置づけになってしまい、そういう検査の結果で厳格な対策の適用が左右されるということは完全な「自己矛盾」に陥っているからです。

 もう4~5カ月も経過しているのにもかかわらず、今回のコロナにおける感染防止の対策は非常に厳格であり続けています。先ず個々の現場での対応が厳格であります。いかにも日本らしいです。個々の現場では、一人でもコロナ感染者がいると判定されると、その施設は自主的に閉鎖されてしまうのです。第三者からの非難の目を気にせざるをえない雰囲気のためにそうなってしまうのです。マスコミが先ず感染者が判定された施設を同定して広く報道してしまうから自主規制をするほかはないのであります。それだけでは済まずに、さらにその後、政府や自治体が市民への実質上の生活介入を厳しい条件で示してしまいました。

 別の言い方をしますと、このウイルス感染を真面目な意味で「そこそこ」の程度に抑制するというのであれば、この検査の結果の集積は現在や将来のためのなにがしかの参考になると思いますが、ウイルス感染の蔓延をできれば完全に防止するという方針であれば、この検査での偽陽性者には「本人にとっては大変に気の毒な生活の制限」を強要するし、偽陰性においては「感染防止の目的からは多数の見逃しが野放しになっており抜け穴だらけの状態」になっています。

 つまるところ、「ウイルス蔓延を完全に防止する」という方針が実際上では無理なのであって、「妄念」でもあり「ないものねだりをしている」ということであります。中身を伴わない「きれいごと」を言っていると思われます。どうも歴史的には欧州各国が先導しているようなイデオロギー的な感じも僕には感じられます。このブログの一貫したテーマである「似非文化人」的な「きれいごと」の言論が今や実地医学領域にまで席捲しているという受け取り方もできます。
 まあ、サプリメントのような怪しい効果しかない商品に大手の化学系のメーカーが参入して世の中を席巻しているし、「安全より安心だ」という為政者が主張する言葉としては信じ難い暴言を吐いてもリコールされない日本であるから不思議でも何でもないのかもしれません。
 なお、開業医などの実地医療関係者は僕の考えに似たような意見を持っている人々が比較的多いような巷間の情報を僕は伝え聞いています。社会上の立場は立派でも実地の医療の実態の経験のない学者はかえって訳の分からないことを発信してしまう人々が目立つように思われます。メディアで目立つだけで実際に多いとも限りませんが、そういう意見の医学者をマスコミや行政が選択的に採り上げているようにも思われます。

 一旦水際遮断作戦がうまくいかなかった後に、全国的に感染者の存在がパラパラ見つかるような状況ということは、そのウイルスがある程度は国内にひろく散在していると受け取らなくてはいけません。その多数は幸いにも発症しなかったり非顕性の発症をしたり軽症発症した保菌者の体内に存在するものであろうと推定されます。
 ウイルスは感染した宿主細胞のタンパク製造装置がないと自己増殖できないので、絨毯爆撃で検査しまくって保菌者を発見して、感染陽性の人々を完全に隔離すれば万全な対策のように思うかもしれません。しかし、先ずは二つの問題点に直ぐに気付くではありませんか。一つ目は、ウイルス感染を判定する検査そのものが5%くらいの誤判定をする程度のもので、ある意味ではいい加減な代物である。二つ目は、相当期間を完全に隔離されるべき人たちの全国の総数を考えると、こういう政策は直ちに国内の活動を機能不全にしてしまう。

 僕がお勧めすることはダブルスタンダードを適応することです。全国に散在すると想定される保菌者からのウイルス暴露が周囲に生じても、確率的には軽症者を再生産する場合が多いと思うのです。こういう集団についてはコミュニティや政府が生活に介入しないでおくことが実際上の正解だと思うのです。これにより国内の生活や経済の機能が維持できます。
 なお、高齢者やある程度以上の全身疾患の持ち主については、状況により、妥当な範囲での感染防止策をすることが推奨されるでしょうが、そのことにおいても、その人たちにおける日常の治療を制限せざるを得ない程度まで考えるかどうかはケースバイケースであるべきだと僕は思います。
 一方、臨床的にコロナ関連の重症感染者と判断された患者からのウイルス暴露は次の重症感染者を再生産する確率が高いと想定されます。その理由は、一つにはその個体からのウイルス飛散量の多いことで、一つにはその個体のウイルスにおける変異の程度が重症化に寄与していることが想定されます。これは現時点で証明されているとは言い難いのではありますが、事態は動いているのだからこれくらいの作業仮説は許されてもよいと思います。コロナ感染による重症患者だけは慎重な感染防止対策を適用しながらの治療を行うということです。

 そもそも、現実の疾病の診断というものの多くは、全てではないにしても、診察や聞き取りや諸検査結果などからの総合判断なのです。純粋科学の証明などが適用できるような世界ではないのです。そのことは診療所であろうが基幹病院であろうが臨床医が皮膚感覚で知っていることです。その診断の大きい戦力の一つの参考資料として、ウイルスPCR検査というのを有効に利用しようという認識であるべきです。そうしますと、誤判定率が5%であるような検査も治療の確率的正解に向けてそれなりに役立つことが期待されるのです。
 臨床診断や治療はそもそも真面目に対応してもアバウトな部分があります。臨床医はそもそも目の前の一人の患者における診断と治療について(治療しないのも一つの対応ですが)真面目に対応するということが出発点です。そういう場においてもアバウトな部分があるのです。この曖昧な部分をなるだけ減らさないように工夫しなければならないことは明らかです。
 ところが、この話を集団の話(疫学といいましょうか)に持ってくると、話が難しくなります。集団における統計処理のデーターの方が個人個人に対応していることよりも、真実が見えてくることがあるということで、大きい意義があります。しかし、こういう個別性を消したデーターを再度個人の世界に戻す作業になりますと、現に個別性を有している患者においてはそのまま適用できないことも生じてくる可能性があります。
 そういうことなので、診断や治療のガイドラインというものは、全部の医師が機械的に従うべきものではなく、また、全部の患者に適用すべきものと決まったことでもないのです。特に、専門医の方が、真面目な理由があって、しばしば「ガイドライン破り」をしていることがあるように思われます。

 医療や生活のことについてはなるだけ個人個人の指針の参考になるデーターを示す程度にしておいて、地域や政府が個人に対する身体的または心理的な強制力を行使することはできるだけ避けた方が宜しいと思われます。
 そこで、今のコロナ騒動が「政府が認識する国家非常事態」に相当するかどうかが国民に対する強制という是非の分岐点だということは多くの人が思っていることでしょうし、僕もそう思います。僕たちは、否が応でも、現実的に、国家単位で生活しているので、それは仕方がないことです。 
 僕からしますと、日本政府が東京五輪を延期するという判断をした頃からその後には冷静に考えることができて、日本における今回のコロナ感染症の「悪性度」は例年のインフルのそれと比較しうる(comparable)程度であろうことが判ろうと思えば判ったはずだと思います。そうしますと、その後の国家非常事態的な表明は、僕には犯罪的な政府の失政だと思っています(結局、多数の国民の生命や健康や生活を確実に損なったに違いがないと思うからです。効果が不確実なのに強力な副作用の薬を用いたに等しいと思うからです)戦後の日本政府は、綺麗ごとを言い募るマスコミやいわゆる有識者の圧力により大いに劣化してしまったと僕は思っています。

 さて、ウイルス感染➞発病➞重症化➞死亡という各段階を考えてみますと、理論的には、「先ずは微量のウイルスの暴露を受け、そして次第に何回か少しずつウイルスの暴露が増えていく」というパターンが免疫防御的には安全にやり過ごすパターンだと思われます。予防ワクチンもそういう意図のものです。もちろん、こんなパターンを生活の中で意図的に実践することはまあ無理です。しかし、思考実験的にはこれが正解の一つだというしっかりとした認識だけでも持っておくべきだと思います。
 この観点から導き出されることは、厳重なロックダウン対策や政策はかえって愚策だったかもしれないという疑念が湧くということです。早い話が、日本はスウェーデン政府が考えたような「集団免疫を時間をかけて強化していく」方針が正解であったという言い方に落ち着くのです。
 これこそ、この数十年にわたる日本のインフル禍における日本人の対応であったのです。ワクチンの効果については判断する根拠を僕はあまり勉強できていませんでしたが、タミフルなどの治療薬の効果は世間が確信しているほどにはないように思っています。つまり、個人への防疫の指針を示したうえで、個人の自主性に委ねることが主な対応であったのです。一般的には、マスクや手洗いの推奨であったし、度を越した集団発生に対してはその集団だけの短期間の学級閉鎖や職場閉鎖を求めただけです。
 こんな対応だけでは、ウイルスの拡散防止が完全に近い形で収まるかというと、もちろんそんなはずはありません。しかし、冷静に考えると、この程度が最も妥当に近い対応だったはずです。日本人一般の清潔好きや従順性を考えるとこれが正解で、コロナに対してもこれで良かったはずです。
 ところで、日本人の識者の一部はしばしば、北欧や北部欧州の国々の政策や生活規範は素晴らしくて、日本も大いに見習うべきだと言うようですが、僕は全然そうは思っていません。どの国もそれなりの個別的な理由があってある政策を採用しているに過ぎません。そもそも1億人を超す人口を抱えた人口大国の日本が欧州の人口少国の真似などをしてはろくなことが起きないと思っています。
 最終結論はまだ先の話でしょうが、スウェーデンの集団免疫政策はどうも失敗だっという情報は伝え聞いています。僕は、もし、当面失敗しているのであれば、それはスウェーデンの他の国内要因によることが大きいのだと思っています。例えば一般国民に対する医療費自体が少ないとか、最近この国は多数の移民を入れてしまったので、生活や衛生状況の不良な地域が増えているなどの問題があります。

 この号での結論として、コロナPCR検査自体の不都合については問題性が相対的に低い話になってしまっています。
 僕は、インフルについては、実地診療で実態をよく知っていると思っていましたが、今回のコロナ騒動を契機に長年扱ってきたこのインフル検査の誤判定率が滅茶苦茶高いことに初めて気付きました。それでも、経済というものは「みずもの」で、真剣に考えると不正確極まりない検査であっても、そのことで利益を生み出して生きている企業などの集団もあります。経済活動全体を俯瞰しても、なんだかマスターベーション的な部分も大きく、贅沢や無駄も多過ぎるともいえます。しかし、既に巨大な有機体になってしまった経済というものにはあらがうことも難しくなっていますし、自分もその中で生活させてただいております。
 そういう意味では、コロナPCRやコロナ簡易検査を製造する企業は利潤を求めて増えてくるでしょうが、これは自然の成り行きでしょう。しかし、そんなに超優秀な真判定を誇るものは出てこないと僕は思います。現在のインフル検査の程度がいまだに褒められたものではないという見方もできるからです。
 つまり、この曖昧さの残る検査の結果でもって、人々の生活に強い介入をすること自体が「不都合さ」の所以だということです。この点においては、日本政府や自治体の介入もさることながら、大多数の日本国民の自主的な自己介入の方により根源的な問題が存在すると思われます。
 そもそも、他国であれば、政府が生活上の指令を出しても、「自分は自分だ」という人々が多いのです。特に米国ではこういう人が多いようです。世界の中では、日本人の異様とも思われる従順さの方がが特殊なのです。それは、思いやりの精神という優しさ・恥の精神という高潔さ・自分の価値を他人の評価で確認するという幼児性・お上の言うことやマスコミの言うことを無批判に受け入れてしまう(自分の考えはなく、スーパーエゴに支配されている)などが入り混じっているように思えます。良い部分もあるでしょうが、感心できない部分も多いと思います。
 
 次号で、「ホモ・サピエンス」ならぬ「ホモ・マスクス」にならんとする日本人の問題点を述べたいと思います。

 (このブログ内容は、6月27日にユーチューブにあげました)=
  https://www.youtube.com/watch?v=ycGyp5rbHWU






2020年6月16日火曜日

コロナPCR検査を集団対策に用いる不都合さを示すための計算値

 このブログの「ウイルス診断キットについての雑感集 ①」において、臨床検査の感度と特異度という信頼度についての説明をしています。今年3月8日に公開したものです。
 この内容は、2月26日のプロポ先生のユーチューブ(医師解説: 全員にコロナウイルス検査をしても意味が無い理由: https://www.youtube.com/watch?v=cmI_6UGHXRI&t=173s)という記事を読んで、それを補足してさらに解りやすくしようと意図したものでした。ただ、この説明の出発点であるプロポ先生の資料は、通常の疾患のマーカー検査が想定されていると思われ、これをそのまま「感染の有無の検査」の説明に適用~内挿する場合に僅かな問題があることに気付きました。つまり、この時の検査の精度である「感度」(真陽性と偽陰性のこと)と「特異度」(真陰性と偽陽性のこと)がそれぞれ、90%と80%ということでした。この数値は、通常の疾患に対するマーカー検査としては、際立って精度の高いものだと僕も判断しています。しかし、今回の「感染の有無」というテーマにおいては、実態と多少の差があるということです。
 すなわち、従来のインフルエンザ(インフル)において広く用いられているウイルス抗原検索のものであっても、新型コロナ(コロナ)において用いられているウイルス遺伝子検索のものであっても、感度はもう少し不良である一方で、特異度はもう少し優秀なものであるらしいからです。この検査の精度の差によって、得られる計算値に大きい差が出てしまうことに自分の計算の際に気付きました。
 5月7日にこのブログで公開した「新型コロナから見えたもの:インフルエンザの治療っていい加減過ぎることに気付いた」に示したごとく、「インフルエンザ迅速検査の感度は50~70%、特異度は90%以上」ということですし、現在コロナに用いられていたり、今後開発されてくるはずの検査においても似たり寄ったりのことのようです。
 つまり、大凡のところの感度を75%、特異度を95%という程度での計算値を示すことがより現実に近いものであって、この条件での計算結果によってこの検査を集団に適用することの問題点が明らかになったと思います。
 プロボ先生のたたき台の条件においては、特異度の精度が相対的に低いので、偽陽性がとんでもなく大きくなっています。しかし、こういう場合もありうるということです。

  以下の表で、コロナPCR検査の実態に近い条件としての計算結果を示しました。つまり、検査の感度は75%で特異度は95%という設定です。ただ、ここでは集団の仮定陽性率として、1%と10%の2つの場合を示しましたが、他の場合でも同じように計算して結果を出せば状況がよく判ると思われます。
(表1) 

 この表からいろんな結果を知ることが出来ます。例えば、1千万人の集団にこの検査をしたとします。仮定陽性率が1%の場合では、2万5千人の偽陰性と49万5千人の偽陽性が出てしまい、仮定陽性率が10%の場合では、25万人の偽陰性と45万人の偽陽性が出てしまいます。
 この偽陰性と偽陽性の数を少ないと受け取るか多過ぎると受け取るかは、このデーターを以て医療現場や行政などが公衆衛生的に介入する選択するかどうかによって大きくかわることになると思います。このことに関する議論は次のブログで述べることにします。

 ただ、この号において予め述べておきたいことがあります。こういう臨床検査の個々の結果は(偽陽性や偽陰性が含まれるという前提で)元来は被験者の治療方針を決めるための参考資料です。これをその個人以外の集団に対しての対応に用いる根拠は a priori には証明はされていないと思います。
 その根拠が生まれてくる場合の例としては、臨床研究パターンにおける「後ろ向き研究」に相当ないし近似するデーターが偶然か意図的にか得られた場合にありうるのではないかと思います。つまり、今シーズンで得られた知見は次のシーズンに役立つことがあるかもしれないと思うべきだと思います。そのための検査なら予算があれば積極的にすることは悪くはないでしょう。
 何故なら、徹底的に感染を避けることを第一優先にすべきではないことは判ったはずだからです(あらゆる面での感染を厳密に阻止するという方針は、社会的な副作用があまりにも大き過ぎるという因子を無視できないからです)。関連死亡者や重症症例をなるだけ増やさないことだけが目標であるべきだからです。この感染症の死亡率が10%などという恐ろしい場合なら話は別ですが、少なくとも日本においては、インフルと比べられる程度のものであることは判ったはずです。
 最終的に関連死亡者数や重症者数の推移を規定する因子がなんであるかについては、今シーズンの最中においては実際上も学問的にもまだ明確になったわけではありません。当面は、従来のインフルにおける感染防止のマニュアルの程度が正解であるとしておくべきでしょう。こういう一般状況の中では、この検査におけるこの偽陰性や偽陽性の存在が大きい不都合になることがわかると思います。コミュニティにおける多数の無関係者(bystander)に根拠の乏しくて副作用の大きい強制を強いることになるリスク(というより現実)を人為的的に作ってしまうべきではないと思います。


 参考までに、同じような表を載せておきます。感度をかなり優秀な90%ということで固定して、特異度を90、99、99.9%と非常に優秀な場合を含む3条件で計算しておいたものです。最初はこのデーターを示そうと思っていましたが、その後、感染症に対する検査の条件と多少違うことに気付いて採用しないようにしたものです。このかなり優秀な検査結果であっても、人口集団の生活への介入の材料に使うとすれば、この程度の偽陰性や偽陽性の実数の程度でも大きい不都合になってくることになると私は思います。その議論も次のブログでする予定です。
(表2)




  これらの計算値を得るために用いた簡単なフォームを参考までに載せておきます。
(表3)