2021年9月25日土曜日

新型コロナ騒動における議論を整理することで物事の本質に近づくと思う

コロナ対策において、「命第一か? 経済第一か?」という議論

 日本において、コロナ事象の当初からこういう議論はあったかもしれません。一つの極は、何も積極的なコロナ対策を取らずに常の生活の流れを尊重する。他の極は、厳しいロックダウン政策を採用する(PCR検査の徹底とワクチンの徹底もこのラインに収束する構造にある)ということでしょう。実際に途中からそれなりにボツボツ発信されてきたロックダウン対策への批判は(不肖の僕もその一角を・・・)、1年半以上経った現在では、増えてきているように思われます。街中の生活や地道な経済活動に犠牲を強いているにもかかわらず、行政や専門家会議のコロナ対策の目途が立っていないので、それは自然の成り行きだと思われます。ただ、この表現上は二律背反のようになっている標語の実態は、そんな単純なものではありません(コロナ疾患も命だが、コロナ以外の生活も命がからんでいる)。

 

 僕は、昨年2月にブログ「日出づる国考M」において最初に新型コロナ関連の記事を投稿し、3月以後は主にブログ「意味論コラムM」において関連記事を投稿し続けてきました。当初から、僕は、インフルエンザ並みの緩い対策でフォローすべきだと主張してきました。そして1年半にもなりますが、その考えを変更せざるを得ない状況は起こらなかったと感じています。

 僕は、半世紀ほどの大半を臨床医として生計を立ててきた者なので、仕事上はイデオロギストではなく実務家であるべきで、そうであったと思います。「インフルエンザ並み」ということは「無策」ではもともとないのです。実際の「インフルエンザ」対策は、実務的であるがゆえに論理的・学問的にはいい加減なところ大ありでした。この話については、最初の頃の投稿に議論しています。

 

 「命第一か? 経済第一か?」という議論自体は当然ありうるし、どちらも重要なので、通常はその中間に目標が行くことになりますが、その目標点は状況によって左右に振れるというのも自然の成り行きだと思われます。

以前の投稿にも述べていますが、コロナ対策をある疾患における薬物療法に置き換えると、「なにがしかの効果は期待できるが、一定の副作用がありうる」という話が参考になります。特に、難病などの疾患においては、明らかな副作用があることを承知で治療をすることになります。例えば、がん疾患に対する強力な抗癌剤の投与や自己免疫疾患に対する強力な免疫抑制療法です。こういう場合の副作用は許されうるのですが、そうであってもその治療がもとで死ぬような事態は可及的に避けなくてはなりません。コロナ対策についての賛否両論の議論においても、こういう話と似たようなことだと思われます。僕はこういう議論をすることもあり得たと思います。

 

 しかしながら、僕の行ってきた議論はこういうことではなかったのです。政府が行おうとしているコロナ対策は、その具体的内容の如何にかかわらず、「なにがしかの効果は期待できるが、一定の副作用がありうる」ということではなくて、本当のところは「その効果は不確定なのに(実は、誰にも判らない)、ある程度以上の副作用は確定的に生じる」というものなのだという叫びだったのです。臨床医療の世界では、このような治療薬など認可されないし認可すべきではありません。だから、ある程度以上の生活制限につながる対策は間違っているはずだという意見でした。

 そうであるので、費用のことを度外視すると、PCR検査自体に反対をするものではありません。僕は、イデオロギストではないので、PCR検査はなんでも反対だというものではありません。その陽性・陰性という判定を絶対視することは馬鹿げており、その結果により被験者の生活を大きく左右する強制力や検査を受けない人たちを非難するような方向付けさえしなければ、その結果自体はなにがしかの有益な情報になるかもしれないからです。 

 

PCR検査自体についての反対はないが、mRNAワクチン自体には疑念がある 

ただ、僕のmRNAワクチンに対する考えはPCRに対する考えとは全然違います。PCR検査は本人の体には基本的になにも影響を与えないのですが、mRNAワクチンは怪しい物質を筋肉内に打ち込むのです(僕は、本人から取り出した細胞をiPS細胞化して注射する山中博士の治療の方が直観的にずっと受け入れやすい)。これは、不活化ワクチン(死菌ワクチン)と違って、生ワクチンに近いものです。打ち込んだ物質が生体において(DNAをつくり出して➞あっ、これは間違い)相当するたんぱく質を作りだすので、生ワクチンに近いと考えることができます。すなわち、人工的に少なくとも短期的に生きているような物質で疑似感染させることです。僕は、そもそも生ワクチン自体が怪しい治療法だと思います。「余程切羽詰まったので適用せざるをえなかった治療法」という立ち位置だとすべきものだと思います。

 科学データーではこのmRNA物質はいつまでも細胞質内に残らずに数週間のうちに分解消失してしまうから心配ないらしい。また、核内には侵入しないという。僕は、自称・基礎免疫学研究者でもありますので、立派な研究成果に敬意を表するものです。しかしながら、研究を続けていくと、数年後や数10年後には当初に予想もしなかった事実が判ってくることもあるのです。この場合なら、たとえば、生体内には今まで判っていなかったRNAに作用する何らかの酵素が存在していることがその後発見されて、mRNAワクチンの短期間での影響が消えてしまうということではなくなるとか(これは、議論としての例えばの話で、僕はこの方面のことは良く判っておりません)、その他の新発見が出てくるかもしれません。

 僕は、一つ前の投稿で議論したように、どうせワクチンを使うのなら、インフルエンザと同じような不活化ワクチンを作成して用いることを勧めたい。最初の頃は、いろいろ理屈を捏ねてmRNAワクチンでないと時間的に難しいようにその筋の専門家などが言っていましたが、少なくとも、流行から半年以上も経てば無理のはずがないと思われます。要するに、どういう変異株であっても、試験管内での培養が量的に可能になったら不活化ワクチンは製造可能になるはずです。インフルエンザでも前年に流行した株を中心に用いてワクチンを製造しているので、ある年には流行する変異株が「外れ」であって多少効果の悪いことが生じるらしい。しかし、「なにがしかの効果」というのに意味があるのだと思うか思わないかということだろうと思います。インフルエンザの場合は、これについて長年受け受け入れてきたのです。そして、今後は、インフルエンザ予防接種にもまさかのmRNAワクチンを開発することになるのでしょうか? 感度・特異度の精度を議論し出すとそういうことになってしまいます。

僕は、金を食うことだけがはっきりしているこういう方向は止めた方がよいと思います。米国のロックフェラー財閥などに一杯食わされている可能性が僕の中でどんどん確かなものになってきています。すなわち、mRNAワクチンという技術的には素晴らしい方法を開発した研究者たちはこれを実地応用したい欲望にかられるし(ノーベル賞の対象もありうる)、世界の大手製薬会社は莫大な利益が得られるので、彼らの私利私欲に係る陰謀の疑念が大きくなってきました。米国のグロ-バリスト政治家が絡んだワクチンビジネスやPCR検査ビジネスに一杯食わされているように気が本当にしてきました。なお、米国の医学研究の発展はロックフェラー財団に長きにわたって超絶な支援を受けてきており、それ故の権力構造が構築されています。ロックフェラーのテリトリーということが出来ると思われます。

 

余談として、一般的に予防接種というものは、それがその疾患の見事な予防になる場合であっても、頻度は別にして、かなり問題のある副作用が起こるものだということです。種痘でも稀ながら脳炎が生じて悲惨な結果になったことが複数報告されています。インフルエンザワクチンにおいても、免疫変調によると思われるギランバレー症候群を引き起こした症例が複数ありました。そして、予防接種は元の疾患の発症を修復して形の異なる疾患を誘発することがあるということです。京大の上久保先生のコロナ禍における交差免疫と集団免疫にかかわる議論(僕の投稿に詳しく述べています)において触れられている「抗体依存性ウイルス増殖促進」ということもあり、自然にせよ人工的にせよ、免疫をするということは単純に恩恵的な結果ばかりではありません。食物アレルギーや膠原病を考えれば判ることです。「免疫をする」「予防接種をする」とかの言葉に思考を失ってはならないのです。そのことが意味論的思考のエッセンスだと思います。

 

パンデミックのような感染症において、人為的なある対策が短期間に確実に成功を収めた事例はまだ経験していない

 世界的な被害をもたらしたスペイン風邪には人力は無力でしたが、これは古過ぎて仕方がないと思われます。しかし、この前のSARSにおいてや鳥インフルエンザの騒動の時も、何故か判らないうちに流行は収まりました。

 以下の3つのパンデミックはいずれもインフルエンザ亜型であって、コロナ亜型ではないのですが、参考になるはずです。

 スペイン風邪(1918~1919):古くて不明な部分は多いのですが、世界での死亡者数4千万人で、死亡率>2.5%という資料があります。当初はウイルス分離は出来ず、細菌感染に有効な抗生物質もない時代でした。1918年は第一次世界大戦の最終局面でしたので、戦場でもこのウイルス流行でさらに悲惨な状況を生んで、戦争続行が困難な状況になりました。そして、よく分からないうちに収束したようです。

 アジア風邪(1957~1958):2月に中国から発生。5月にウイルス分離。ワクチンは8月(米国)・10月(英国)・11月(日本)で使用開始になりましたが、製造量は十分ではなかったようです。「集会の禁止」「学校閉鎖」などが実施されたようです。世界での超過死亡者数は2百万人とされています。

 香港風邪(1968~1969):全体に軽症で(前年のH2N2亜型の大流行によって免疫が出来ていた可能性)、学校閉鎖もなく医療負担の増大もなかったとのこと。世界での超過死亡者数は百万人で前年にあった季節性インフルエンザよりも少なかったそうです。 

 これくらいしか、経験がないので、「こうしたらこうなる」というような確定的な対策があると主張する学者は学問を勘違いしていると思います。そもそも、公衆衛生的な空間的ないし数的スケールの大きい事象は純粋学問からは予測できないことが多いという簡単な真理を無視してはいけないと思います。学者は政府が参考とする重要な資料として諮問するだけの立場だと自戒すべきだと思います。

 今回のコロナ騒動において、スウェーデンにおいてはロックダウン的な生活制限をほとんどしなかったし、イスラエルにおいては早期から国内のワクチン接種で他国を凌駕する接種率を誇った。この二つの国の最近までの流行の収支決算は、「こうしたらこうなる」という公衆衛生的な対策は予測通りにはならないことがあることを示していると思います。日本おいても、1~2回のワクチンで済むような予測だったはずですが、目論見通りには行かなくなったこの時点においても懲りずに、3回目のワクチンを予定しています。要するに、予測が「外れている」のです。この場合、①ワクチン効果はいう程のことではないようだから、せいぜい「念のために」の精神レベルに緩めようという選択もあるはずだが、専門家会議の連中は、②ワクチンは対策のキモだから、今後は3回でも5回でも緩めずにガンガン進めよう、という方を迷いもなく政府を通して国民に強いていると解釈できます。

  

国家的な問題において、医学諮問委員会は政府関係者より決して「上」ではない

国民のことを考えるにあたって、どうも医学専門家との名札を貼っている人たちは、自分たちが政府よりも偉いと思っているという、僕に言わせれば、とんでもない誤謬に陥っているのではないかと疑っています。医療業界イデオロギー、あるいは、学者イデオロギーだと思われます。たとえ、政府の人間がこの領域の理解力にどうも怪しいと感付いていても、それは構造上・立場上で仕方のないことのはずです。自分の意見を理解してもらうべく一所懸命に説明しまくるというのは大切ですが、どうも、尾身氏や東京の医学研究者は態度がおかしい。

イデオロギーに陥っている者は、実は、頭が悪いと思います。基礎学問の研究者や臨床医は大学入学にそれなりの壁を乗り越えているということで頭が良いと思われているようですが、僕は、全然そうではないという思いを段々強くしています。入学試験を乗り越える才能のあることと物事の判断を的確にすることとはかなり違うように思います。僕は医師であり基礎医学研究を続けている者なので、自分のことや周囲の同業者を見回したうえで、そういうことをはっきりと言えると思っています。 

実地臨床のことについても語弊を恐れずに言いますと、臨床医の実践は僕においては学問的な知的満足度としては低いものです。大学入試の時に必要だった方面の知的能力もあまり必要としないと思います。この仕事のキモは教科書的なことを参考にしながら、自分で経験を積んで、患者というお客さんに真面目に対応することだと思います。その意義は学問とはかなり違うものです。ということは、建築家や料理人と変わることはないように思います。

すなわち、臨床医の方も実地医療のことは経験豊富であるが、詳しい基礎研究成果の方は受け売り知識程度の場合もありうるわけで、医学や医療の「素人」でも文献をあたっている方もいるわけでして、医師の方が医学を良く知っているということも、限らないと思うのです。比率は少ないでしょうが。

僭越ながら、僕が自分の意見に多少の自信がある理由は(もちろん、しばしば間違いもありますが)、自分が医学・医療の一応の専門家だからということではありません。若い頃から「一般意味論」の考え方を一貫して実践してきたことにあります。一般意味論という馴染みの少ないと思われる考え方を端折って説明すれば、「耳障りの良い、いかにも常識らしい」という意見には用心して、むしろ一旦立ち止まって、実際にはいろんな場合があることを一寸は考えて、自分の評価をボチボチ考えておく癖を付けるということでしょうか。この考えは、基礎研究にも大変に有用でしたが、特に長年の実地医療において「お客さん」の多くに貢献できた武器だったと思っています。

 僕は、二十年前から医療における一般意味論的な考え方を、1題ずつ選んでパンフレットに印刷して、「お客さん」に持って帰っていただくようししていました。百題集まったので、今春に単行本として出版しました(「ドクターMのヘルスコラム」風詠社)。アマゾンで販売しています。

 

この投稿において、文章が長くなりましたので、以下の内容は、次の号以後に書く予定です。

レベルの高い科学論文の内容も曖昧でいい加減なところがある

(その1)基礎研究も結構怪しいところがある

(その2)薬物などの治療法の有効性を証明する大規模統計データーは怪しい

スウェ-デン式コロナ対策は僕の考えと似ていたらしい

民主制国家ではマスクもワクチンも基本的には個人の利益のためのもの

etc.

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