2018年9月19日水曜日

意味論的国語辞典「国際」

「国際」

  国と国との際(きわ)とか縁(ふち)のことで、

  外国との情報のやりとりが行われる界面のこと

 

      国際的ということは(比較的まともな国の)

      国内的なことにに比べて基本的に面倒であり、

      低いレベルの倫理的状況に留まるようになりがちだ

 

 広辞苑には「国際」という箇所には膨大な記述をしているが、その定義は「諸国家・諸国民に関係すること」という非常に短いものだった。「international」を明治時代の賢人が「国際」と和訳したのだろう。「world」は「世界」と訳すが、world expositionは万国博覧会と訳している。同じものを universal exposition とされることがあるが、この場合は国際博覧会と訳している。「universal」自体の意味が幅広くあいまいだ。
その後(戦後の比較的最近)に「国際性」「国際化」とかいう言葉がよく使われるようになった。なかでも「国際性のある人」と「国際性のない人」などの言葉から感じるように、「国際性」という言葉は価値の高い方の概念であるように受け取られることが普通になっているように思われる。そのためかどうか判らないが、「国際」という言葉自体が価値の高い方の言葉のように受け取られることが普通の現代日本の状況と僕には思われる。

結論を先に述べると、こういう大いなる誤謬を我が国の似非知識人やマスコミがしていることが、今の日本国が対外的に幼稚な対応しかできない原因だと、僕が気付いてからすでに長い。「国際」という界面において、良い文化が隣の国から入ってくることもあるし、援助があることもある。しかし、依って立つ歴史も価値観その他も異なる主権国家同士のやり取りは面倒なことが圧倒的に多い。すなわち、「国際的」ということは「国内的」に比べてうんと「面倒な関係」が基本ということだ。以下に述べるように、国際的(international)は国内的(domestic)に比べて倫理的には価値が低くなる構造になっていることを忘れてはならないと思われる。

 

成員の少ない順に階層を並べてみると、個人<家族<隣近所<地方公共団体<国家<世界となる。家族<親戚とか、個人<会社の同僚とか、個人<知り合いとか、国家<同盟国・経済共同体とかの別筋や中間階層もあるだろうが、まあ、上記の6つの階層でよいことにしよう。「個人」でもジキルとハイドが同居することもあるが、ここでは個人の話はしない。

「家族」でも紛争がないとは言えない。表面化する紛争(喧嘩・葛藤)の頻度は一番多いかもしれない。その原因は、密に接している時間が多いことが根本原因だろうが、もともと家族の絆があることが多いから(功利的に考えても、かなりの面でその時点での運命共同体でもある)、大喧嘩の翌日でも元の鞘に戻っていることが多い(何時もそうではないが)。そういうことから、紛争を遠慮なく言動に表してしまうので、その頻度が多いのでもあろう。

「隣近所」になると、早速、土地の境界線の紛争がありうる。これがあれば実際かなり面倒になる。夜間うるさい・犬がうるさい・隣組の遂行のやり方やゴミ出しの不満など、いろいろ出てくる。なるだけ表立った紛争は避けたいので、かなりの部分で慢性の我慢があったりする。稀には怒鳴り込みに来られたり、もっと稀には殺傷行為に来られたりすることもある(家族でもあるけれど)。ただ、「家族」から「国家」までの国内問題においては、基本的には国家権力が存在するので、比較的まともな国家では最終的には法律に則っての紛争への介入がなされる。介入可能な国家権力には優勢なphysical power(物理的腕力あるいは武力、これを暴力装置と訳して悪いものと決めつけてはいけない)があるので、強制的に始末を付けることが可能になる。この強制力が肝要点だ。

 

こうした「国内」とはまるで異なり、「国際」の方は「国家」という成員に対する優勢なphysical powerがない。だから、一部の成員はしたい放題が可能になる。先ず、「世界政府」というのが存在しない。国際連合というのは「寄合組織」であるし、拒否権を持っている5大国の恣意次第である。つまり、国家の階層の真の上位階層がない。仮に「国連軍」という軍隊が作られても、それは一国の今の米軍より優勢ではない。また、国連という代物は、現実には、現時点での唯一ともいえる軍事超大国の米国や、軍事大国の中華人民共和国や、ロシア、英、仏などが世界を牛耳っている。これは第二次世界大戦戦勝国の権力を維持する体制なのだ。加えて、国連の中での賄賂や利益相反の取引が横行している。国連にかかわる多くの会合や交渉はこういう力学の中で行われるので、戦後出来上がっている国際的な取り決めは、比較的まともな国の国内法に比べては、法制上も倫理上も不十分過ぎる代物でしかない。ユニセフも我が国に対して理不尽な議論がなされること久しい。これに対して、外交的に幼稚な我が国は負担金を出さないとか脱退するかもしれないという駆け引きが全くできていない(脱退しない意向の時こそ、こういうアドバルーンを上げないといけない)。「国際的」な地平から見れば、これは「世界基準」とは大きくかけ離れており、我が国の精神の幼児性を露呈している。そして他国から軽く見られていることから、さらにチョッカイを出し続けられて国益を損なっている。「国際なんとか」の多くは実はいい加減であることに何故思いがいかないのだろう。「国連第一主義」を主張するような人物は国際政治家の資質がないと思われる。

 

「国際的」ということの現在的な実態の肝要点を一国内の比喩でもって例えると、警察の物理的な武力より、ある暴力団の武力のほうが優勢である状態となる。今の日本ではそうではないが、ある時期の中南米の国の麻薬組織などはそうであって、そういう国では混乱と不安の中で住民は生きている。そういう状況と、現在の国際状況は異なることなどない。

「国際的」な事案には人権のことやいろいろな重要な事柄があるのだが、古代から現代に至るまで変わらずに一番重要なことは領土問題である(衣食住という生存権の観点からすると、領土と食料や水)。これは民族にとって簡単に譲れることではないので、しばしば戦争に直結してきた。僕は今までに隣人同士の間の土地境界係争の卑近な例を複数知っているが、お互いにそれなりに普通の市民であっても、通常は一センチメーターでも簡単には譲りはしない。土地境界問題は正当な自己主張のイロハのイなのだ。国内では、こういう係争は最終的には個人より上位階層の司法による解決に委ねることが可能だ。

「竹島問題」や「尖閣諸島問題」を起こしている韓国や中共に対して、少なくとも言論において厳しい批判をしないマスコミはどこの国のマスコミかと問いたい。そういうマスコミは日本の現体制から法的な目に余る優遇処遇を受けておきながら、その代表する政府に対して多少の貢献をするどころか、政府を貶めて相手国の付け入る機会を意図していると思えるほど与えている。最近の経団連の動きを見ていると、我が国の歴史上の特異時点だと思われる現時点においてさえ新たな中共への資本提携や韓国への投資を進めようとする勢力があるらしい。戦後の長い間にわたって内外の人権無視をあからさまにしてきた全体主義の中共がいよいよ息詰まってきた可能性のある時に、その体制維持を手助けしようとする経団連には倫理などないのだろう。また、国益より企業レベルの刹那の金儲けが大事なのだろう。連綿と築き上げている貴重な我が国の科学・生産技術のノウハウをどれくらい盗まれたら反省するのだろう。政府や官僚はマスコミ攻撃に対して正論を展開する勇気を持たず、経団連への指導もできずにこれまた国益を損ねている。いや、永らく幼稚なイデオロギー教育を受けた官僚や自民党議員の多くは、いまだに親中共が席捲しているらしい。一部はそうでもなくて、ハニートラップのようなことで雁字搦めになっているらしいという意見もある。
 韓国とのスワップはしてはならないと思われる。その理由は、幾重に及ぶ韓国からの理不尽な攻撃を受けている最中のそれは外交上の幼児性の表明だからであり、国民として恥ずかしくて耐えられない。韓国については、基本的に付き合わない(実際は、必要最低限度に付き合う)ことが我が国にとって生理的に正しいことだと僕は思う。韓国にとっても精神の変調(本当は異常と言いたいが、抑制しておく)から「我に返る」機会が得られるかもしれない。それを期待したい。

 市民生活においても、隣人との間にはいろいろ事が起こりうるが、百軒先の住民との事は起こりにくい。直ぐ近くだから紛争が起こりやすい。「隣国だから仲良くしましょう」は素晴らしいが、実際は「隣国だからいろいろ起こる」のが現実だ。そこで肝要なのは、「仲良くすることを優先する」と表明してはならないということだ。内心、「仲良したい」と思っている時こそ、そう表明してはならない。逆に、「絶対に仲良くしないぞ」と思っている時にこそ、時々は「友好第一だ」などと言っておく。これこそ、国際的に成熟した対応なのだ。中共は以前我が国にそういうことをよく表明していた。この点からすると、中共は国際外交的にはある種の常識国家だが、戦後の日本は非常識国家であり続けてきた。
 「絶対に仲良くしたい」を最優先する側が政治的には負けるに決まっているということは、卑近な日常生活での係争を具体的にシミュレーションすると子供でも分かるような話だ。日常で車同士が衝突事故を起こした場合に、「先に謝るな」というのが「イロハのイ」になっているようだ。権利・義務の生じる案件では、自身の正当な主張は一応は貫徹しようということは必要だと思われている。ただ僕自身は、交通事故の際のこういう態度はよろしくないと思っている。自分が悪いと思った時は、それを述べておくことは道徳的には良いことだと思うし、日本国内ではそれで構わない(国際的ではないから)と思っている。

(参考)日出づる国考M:韓国と日本とどちらの非常識が凄いのか?


2018年3月10日土曜日

意味論的国語辞典「イデオロギー」


イデオロギー: ①語源的にも実際的にも「観念の学問あるいは体系」ということらしい
        ②偏った観念の意味合いもあったが、前向きの意味合いも生れた
        ③ただ、それが真理かどうかは保留状態であることだけは明確だろう
        ④観念(思想や信念など)の体系なので、政治的なものとは限らない
        ⑤現代は、日常生活の中で「プチ・イデオロギー」が溢れている

 「オロジー:ology」は「学問」を示す接尾語だ。physiologyは生理学、pharmacologyは薬理学。古い用語においてはologyが語尾にないものが多い。天文学はastronomy、哲学はphylosophy、数学はmathematics、物理学はphysicsなど。しかし、新しい学問は、この語尾を付けて造語される場合が多いようだ。便利だからだろう。レオロジー、レントジェノロジーなど。

 グーグルやヤフーでイデオロギーの検索を探れば、いろんな観点からの説明があって参考になった。語源的には、十九世紀初めに、フランス人の唯物論者のトラシーという人がイデーの学問,つまり観念学という意味の idéologie を用いたことに由来する。

 そもそも、「学問」とは、考え方の体系とか方法論の体系というほどのことだ。真理を究明するために用いる手段となっていることも多いが、学問自体は真理を述べているとは限らない。

 

 若い頃からの僕の関心ごとである進化論は、イデオロギーの例だと思う。いくら過去からの膨大なデーターを並べても、その機構の真理にはなかなか届かない。最近はDNA分析が進化論の進展に寄与しているが、そのDNAの誕生自体は進化の謎の中に存在する。解析は進んでも肝腎の進化の原動力は闇の中だ。生物の多様性の具体的な精緻さを知れば知るほど、進化の原動力は「神」を想定しないと無理ではないかと悩める研究者もいる。僕はこれにシンパシーを感じる。一時、僕は、原動力の秘密は熱力学にあると思ったことがあるが、量子論や統一理論の先に(そこにも神の概念が見え隠れする)答えがあるのかもしれない。「学問」自体も真理をのべているものではないが、「論」となるともっと「誰かの意見」に過ぎない位置づけになる。

アインシュタインの相対性理論もあくまでも「理論」に過ぎなかった。彼はノーベル賞受賞者だが、一般相対性理論で受賞したのではなく、光電効果という検証可能な重要な現象のことで受賞している。当時、相対性理論の彼は量子論(これも「論」だ)の旗手のニールス・ボーアと公開の場できびしいバトルを戦わせている。一見して互いに相容れない「論」だったので、お互いに必死になって議論をしていたが、その内容はなんだか哲学や禅問答のような部分もあったのだ。もちろん、重要な数式は互いの手元にあったのだが、まさにイデオロギーだったと思われる。その後、相容れないはずの二つの「論」はそれぞれ事実の検証に耐えて発展的に生き残っている。卑近なところでは、かたやカーナビゲーション(GPS)の位置補正計算で実力を発揮しており、かたや量子コンピューターという夢の計算機を生み出そうとしている。自然科学においても、個々の研究は往々にしてイデオロギーから始まるのだが、他者による検証可能性(反証可能性)を担保している場合は、単なるイデオロギーで終わるのではなく、真理に近付いていく方向性がある。

 ところで、最もイデオロギーらしいものといえば、それは宗教教義に違いない。キリスト教会 vs 地動説、キリスト教会 vs ダーウイン進化論、キリスト教会 vs 共産主義、それに共産主義 vs ダーウイン進化論などにおける激しいバトルは、イデオロギー同士の対立だからだ。
 ローマ・キリスト教会は地動説と進化論には一応敗れている。自然科学の世界では、理論に対する反証が一つでも証明されたら、その理論の体系は廃棄される運命にある。実に、正々堂々という世界といえる。この一点を考えると、宗教教義はさらなる真理を求めないイデオロギーということになるのだろうか。
 既に述べたように、進化の原動力に神のようなものを想定せざるを得ないというイデオロギーの進化論研究者も、集積した知見を数多く知るようになった現代だからこそ存在している。ここにいう神とは「人間の叡智というものでも及ばざる何か」という程のことを言っているように思われる。キリスト教とも他の特定宗教とも無関係なものだ。正統的なダーウイニズムもまだ一つのイデオロギーに留まっているといえるだろう。

 

 現在の生活の中には、非政治・非宗教的な日常生活におけるプチ・イデオロギーで溢れかえっていると僕は思っている。多分、似非知性主義に冒されているからだろう。「一日三食をきっちり摂るべきだ」も「特定保健食品をとることはお勧めだ」もほぼ単なるイデオロギーに属する考えだと僕は思う。後者はむしろ商売がからんでいる。「血液型による性格診断は科学的根拠のない幼稚な話」という真っ当のように思われる意見が単なるイデオロギーであることを、僕は三十年ほど前に見破ったと思った。ただ、この僕の意見もまだイデオロギー的なものに留まっている。


2018年1月28日日曜日

意味論的国語辞典「民主主義」

「民主主義」:①「民主制」が一番良いのである、というイデオロギー
       ②英語ではdemocracyとなっている。語源はギリシャ語
       ③ここでは「民主制」と「民主政」とは同じように用いる

 最近、何かの書き物において、「民主主義などというものはなくて、言うならば民主制とするべきだ」ということを読んだ。僕は、「成る程、そうなんだ」と直感的に腑に落ちた。民主制の対比語は、貴族制、寡頭制、独裁制、専制、全体主義などと別のところに書かれているので、参考としてここに転記しておく。ただ、実際には民主主義ということばが国内外に溢れかえっている。

 民主制というのは歴史上は古代ギリシャで始まったことになっている。ギリシャも以前は王政であって、その後民主政になったということだ。古代ローマも最初は王政であったが、その後、共和政に移行して、さらに帝政になっていったことは僕も習ったり、映画でも馴染みのあるところだ。

 専門的なことは判らないが、この共和制というのも民主制とおなじ括りのものだろう。しかし、古代ギリシャの民主政が最後は衆愚政治に堕落したために、当時すでに、「民主制」=「衆愚政治」と同義語のようになってしまって(衆愚政治は民主政を揶揄した語といえる)、デモクラシーというのは印象の悪い言葉になったらしい。古代ローマはこのことがあって、「共和制」という語を用い通したようだ。

 現在、多くの「民主主義国家」とされているものは「〇〇共和国」と自称および他称されているが、それ故、「民主主義国家」(本当は、「民主制国家」というべきだ)は本当は「共和制国家」と言い直すほうが適切だと思う。現在までに、国名に「民主」という語を用いたのは、東ドイツや北朝鮮などのいわゆる共産主義的な国家だけのようだ。こういう国は党独裁というのが実態なのだ。「民主」という用語は古代史では最後には揶揄され、現代史では虚偽であり、冗談のようになっている。

 多くの人々がそう考えてると思うが、民主制は日本でも諸外国でも、欠点の沢山ある制度だが、次善の策として当面採用せざるを得ないものだと僕も思う。現代の民主制を採用するということは、胸を張るものではなく、悲しいことでもあるのだ。それでも、「技術的に現在はこれしかないのかなあ」として、仕方なく納得しているものだと思う。

 ところで、「民主主義」だ!と主張する人たちの中には、「せいぜい、いま述べたようなことを言っているに過ぎないよ」と言い訳をする人たちもいるかもしれない。しかし、実際にイデオロギー化している人たちが多いように感じる。心理的機序として、時とともに前者から次第に後者に移行する流れがあるのだと思う。もしそうならば、人はその危険に気付かないといけない。

 ところで、僕は、プラトンが考えたような「哲人政治」が理想だと思う。短期的には可能だったという史実は内外にあると思う。江戸時代でも、優れた藩主が非常に立派な政治をした実例は枚挙にいとまがない。ただ、こういう哲人政治は、その立派な人物も後年変質することもありうるし、次代のリーダーが駄目だということもありうる。特に、後者の場合が大いにありうる。この時に体制としてどう対処できるかというと難しいので、「民主制の方がましかな」ということになるのだろう。ただ、やはり、欧州の歴史のなかにも我が国の歴史のなかにも、国王や将軍や藩主が、その立場上(上からの目線)、かえって民衆の生活を良くしようと虚心坦懐に実行できたリーダーがいたようである。ポピュリズムに迎合することに大きいエネルギーを使う必要や、政治的妥協のために自らの核心的な考えを売り払うこともなかったのだ。

 間接民主制の政治では、国民の投票によって選ばれた議員の議論の後で、議決によって個々の政治の方向を決めないといけない。「徹底的討論」に固執すると、何も決まらず政治空白のみが生じる。それによって国全体に大きい損害を与えた例は多数ある。我が国のメーカー企業が、トップダウンの迅速な外国企業に連戦連敗したことがあったことを想起すれば、民主制の難儀なことが判るはずではないか(僕は、いつもトップダウンが良いと言っているのではない。時は待ってくれないことがあると言っている)。民主政治と哲人政治の現実的なミックス政治についての議論をそのうちにここでできるようにしたい。

  

2018年1月15日月曜日

意味論的国語辞典「徹底的討論」

「徹底的討論」:①自分の主義主張が通るまでは議論を止めないこと
        ②意見の異なる他者の次の行動を一切阻止する、とほぼ同義語
        ③民主主義(民主制)には本来的には容認されるはずのない行動


 言葉の持つ怪しい属性に最初に気付いたのは、記憶からは、大学紛争の最中のキャンパスにおける全共闘系の諸君のこの言葉だった。ちなみに、僕は、大学入学時には自民党には反感がありベトナム戦争にも反発していた。当時はまだ朝日新聞を下宿で購読していた(当時は、他の多くの学生と同じく、それがインテリの必要条件と思い込んでいた)。政治には大きい関心を持っていたが、行動としては「ノンポリ」学生だった。沖縄返還には特に反対ではなかった。

 日本共産党の下部学生組織の「民青」は「徹底的討論をしよう」というようなことは言わなかったが(当時は生活改善路線で、アジテーションもソフトだった)、「中核」「革マル」「社学同」などの懐かしい響きのある「反日共系」セクトがよくこれを言った。全共闘はこれらのセクトの影響を受けていることが一般的だった。
 「徹底的討論をしよう」「えっ、君は逃げるのか」。これを言われた側は厄介だ。「腹が減ったから早く飯を食いに行きたい」という場合でも後ろめたさを感じさせられそうだが、自分が相手の意見と全く違う、または、一寸違う場合では、抜き差しならなくなる。


 学問の世界や文筆の世界では、ずっと議論が続いても構わないが、日常の生活の方針を決める場合に、こういう要求に付き合わされると、①相手に「君の言う通りだ」と言ってしまうか、②現実の行動は一切進まない、のどちらかということになる。 
 現在に当てはめれば、野党が政権与党に「徹底的な議論を要求する」ということだ。この「徹底的」という言葉は、「痛めつけてやるぞ」への修飾語であれば非情すぎるが、「議論」の前の修飾語であれば、いかにも正論を言っているかのような錯覚を受け手や第三者にもたらす。主張している側については、もしこれを「言葉の綾」とか「駆け引き」として言っているのであればまだしも(それでも受け容れられない)、どうも主張している者も本当に正論だと思っているのなら、「身勝手」というよりは「頭が悪い」に違いなかろうと思われる。僕は、学生時代からこのように思っていた。


 国家運営や企業運営やその他の社会活動の最中では、現実的には「締め切り」のようなものがある事案が多いはずだが、「徹底的議論」を要求する諸君は自分だけでなく国家運営や社会活動の責任者である相手にも「責任放棄」を強要することだ。どこかで取り敢えずは決めなくてはならない。決めたことも、次の実情に合わなくなったら、また変えることができる。数学の解と違って、もともと正解など人智の及ぶところではないはずだ。

 



 

2018年1月13日土曜日

意味論的国語辞典「人の命は地球より重い」


「人の命は地球より重い」「二十世紀の最大の妄言」


 


  

 昭和52年9月に、ダッカ日航機ハイジャック事件があった。「日本赤軍」と自称していた若者が乗客を人質にして収監されているメンバーの釈放を要求した。時の日本の首相の福田赳夫が、「人の命は地球より重い」と言って、超法規的措置として受け容れた。

 誰がこの時に首相だったとしても、苦渋に満ちた判断をしなければならなかったし、要求を呑む」のも「要求を拒絶する」のどちらが正しいとも断言が難しいと思われる。このことの後日談やその後の内外の評価につてはここでの関心ごとではないが、先進西欧諸国の行動指針の観点からは、どちらかといえば「その場限りの軟弱な対応」であったとの批判の論調の方が大きかったと記憶している。

 当時の僕は、この報道を知って、一つだけ大間違いをしていると思った。「人の命は地球より重い」という発言だ。要求を呑んで罪人を釈放したことは「仕方がない」という考えもあると思った。この言葉は福田氏の言葉としてあまりにも有名だが、多分、それ以前に欧米の誰かがどこかで発言していたのだろう。まあいえば、ありふれたような言葉のようでもある。それを福田氏は苦渋の決断の際に、「何とかご理解を」という気持ちでこの言葉を適用したのだろう。「私も苦しんでいます。私は結果的にはこの措置がよりベターな策だったと認められることを祈っています。この重い責任は私一人にあります」とかなんとか言えば良かったのだと思う。

 しかし、福田氏は、この名言?を表明して措置を決めたのである。形としては「胸を張った」発言だ。これは、大嘘である。

 この頃、日本の交通事故の死亡者が年間で一万人を超えていた。「人の命が地球よりも重い」のであれば、国が自動車の運行を認めるべきではない。一国における国民生活の支援や指導を考えると、現実的にはたとえ年間数千人以上の死亡者が統計上で確定的に発生するとしても、自動車の運行の禁止は少なくとも今や非現実的だ。そうすると、個々の人の命はそんなに重いという扱いを受けていないことになる。僕は、この現実を批判しているのではなく、現実容認的に思っている。こういう事例が無数にあることは、この一例の提示だけで容易に想像できると思われる。同様の事例を列挙するという試みは一般意味論の演習の場となるように思われる。

 なお、「人の命」といっても、そのコンテクストが、①特定の人や人々に係わること  vs 不特定の人や人々に係わること、②不特定の人々のことであっても、数人程度の少数のコミュニティ vs 一億人もの構成員が居るという国という違いによって、現実的な扱いが違ってきても不思議ではないと思われる。ダッカ事件の場合は、特定されたある程度多数の人々が対象であったので、大変に難儀な事案であった。

 以上のようなことを考慮したうえでも、僕は、この発言が二十世紀の最大の妄言と言っておきたい。こういう類の言葉は現実の社会的な場面の中では使わない方がよいと思う。たとえ、個人的にそのように感じていてもである。言った途端から、その場の思考と議論の機能が停止してしまう。このことは、ある言葉を「タブー」とするとか、「ヘイト言葉」として使用不可能にしてしまう態度によっても起こることがある。



ブログを開始するにあたって

   

僕は自分を意味論者として勝手に自認している。意味論はもうひとつのイデオロギーではない。一般意味論というものは、信仰や思想ではなくて、技術の範疇にあるものだ。ただ、必然的にイデオロギーの言語的な問題点を認識して、それを排さないと健全な認識に至らないということになる。どちらかといえば、「是々非々」とは共存しやすい態度だと思っている。

また、幸福と不幸に関すること、健康に関すること、福祉に関すること、男女の間の特質や権利に関すること、などのように普通生活から社会学的な分野に至る非政治的な事柄においても、準イデオロギー的な風土が増殖していると感じている。これは、真の知性主義ではない似非知性主義が最近の日本で増殖してきたことに一因があると思っている。僕は反知主義ならぬ反似非知性主義という議論を、早晩するだろうと思っている。

 ただ、意味論的な思考をすると、政治的には、あるイッシューにおいては、左翼を批判することに至ることもあるし、別のイッシューにおいては右翼を批判することに至ることもある。だからといって、最初からいずれかのイデオロギーに呪縛されるものではない。そうなれば、意味論の存在価値はなくなる。

 以前から、日々の身の回りの出来事やマスコミ・雑誌・ネットに接して、意味論的観点を中心に思うことがあったので、このブログで表したいと思う。(➔意味論ノート)。特に意味論的ともいえないような感想も書きたいと思うかもしれない。(➔雑感ノート) 

 それと並行して、自分なりの言葉の辞典を書いてみようと思う。一年前ほどから既にメモしているものがあるので、書き始めてみる。「広辞苑」という立派な言葉を流用したが、言葉だけでなく、文節の場合も、諺のような文章の場合も対象にすることも予想されるので、不適切な流用であることは自覚している。(➔意味論的広辞苑)(注)意味論的国語辞典に表記を変更した(2018.11.17)

 

 「What's  一般意味論 ?」という肝腎なことについて書こうと思っても、実は、1冊の書物(注)の紹介以上のことは僕にはできない。この書物が書店の棚にあるのを見つけたのは、多分、大学院を修了した頃のことらしい。機会があれば、後日のブログで触れてみたい。また、ここで散々イデオロギーという語彙を用いたので、「意味論的広辞苑」で説明しないといけなくなった。「左翼」とか「右翼」とかいう」語彙も定義不詳のままで自分の都合の良いように恣意的に用いることは、一般意味論の立場としては避けなければならい。そうすると、一つのことを書くと、どんどん書き続ける流れになる。ネットサーフィンならぬ記述サーフィンとなる。ただ、エネルギーが切れたら終わってしまう。

(注)S..ハヤカワ「思考と行動における言語」大久保忠利訳、岩波現代叢書(1978)

    Language in thought and action by S.I. Hayakawa (third edition, 1972)