2020年2月27日木曜日

歴史に基づく科学的社会理論を自認する共産主義は歴史事実により破綻している


 大学の教養学部で政治学を受講した。昭和42年の1年間だった。岡田教授は日本共産党の支持者であって、講義中にそういう発言をしていた。
 この講義で僕は重要なことを聴いた。「共産主義革命は未開地域では起こらず、資本主義社会が発達し過ぎた先進国でも起こらないだろう」「革命がおこるチャンスがある地域はある程度の経済が伸びてきてまだ十分な国力がない国だろう」これが岡田先生の個人的な考えだったかどうか知らなかったが、彼がこういう発言をしたのは僕にとって非常に新鮮だった。つまり、彼は「当時の日本で革命を起こすことはもはや無理である」と言っていたのである。
 日本の共産主義者は敗戦直後の日本の混乱の中では社会主義革命がありうると思ったのだろう。日本を占領した米国がソ連とは連合国同士であり、ルーズベルト大統領やその側近がスターリンのシンパないしスパイだったからだ(このことは最近の世界的常識になるつつある)。しかし、その米国の本国は戦後早期にレッド・パージに転換したように、GHQがそれを見逃すようにはしなかったことで成就しなかった。岡田教授の講義当時のベトナム戦争の最中のベトナム程度のところにチャンスがあると期待していたのだろう。
 
 しかし、歴史に基づく科学的社会理論を自認するマルクス―レーニン主義においては、「資本主義体制が進む経過中にその体制の矛盾が顕在化して、革命の契機になる」というのが、バイブルのような話であったはずだ。だから、実は、岡田先生がこういう内容を講義でしなければならなかったこの頃には既にマルクス理論は現実からもう外れていたことになる。
 未開の国で革命が起こらないに理由については、革命の組織化ができるほどには社会状況や個人の社会的な精神が進んでいないとの説明だった。先進国において革命が成功しない理由については、国家体制の治安に対する軍事力が強大すぎるので革命は成功するはずはないとの説明だった。僕は、昭和42年におけるこの岡田論理は概ね正しいと受け取っていた。

 振り返ると、産業革命後の社会的経済的な構造がどんどん変革していく英国や欧州を中心に、社会主義・共産主義の理論が生まれてきて、その実践の数多くの試みも行われ、マルクス自身も生存中は活発な活動をしていた。しかし、社会主義革命が曲がりなりにも成就したのは、マルクスの死後であり、欧州の中心地ではなかった。それは、20世紀初頭のロシア革命であり、第二次世界大戦が契機の中共革命である。このどちらの革命の場合でも、その当時の社会状況は資本主義経済が全然発達していなかった地域だった。前者は農奴制度を伴った帝政であり、後者は農奴制度とあまり変わらないような社会経済状況で軍閥が各地での勢力を握っていたような状況だったと思われる。つまり、この時点で既に、マルクス主義の理論が外れていたのである。これが最初からの「外れ」である。

 二つ目の「外れ」について。社会主義革命から最終的な共産主義体制に進化する過程において、一時的な指導層による独裁体制はやむを得ないというような四方山話が現実の中で事後的に生まれてきたのだろう。しかし、その後、現実が進むと、社会主義国家体制と独裁体制とは表裏一体であることが明らかとなっていったのである。東欧の社会主義国家や北朝鮮も同じようなことだ。この二つ目の「外れ」は第二次世界大戦の戦後しばらくした時期にはもううすうすわかっていたはずだ。最近の結論としては、社会主義国家は独裁的な国家社会主義(全体主義)にならざるを得ないということだ。経済的には国家資本主義的にならざるを得ず、ナイーブな「みんなが平等で、ある程度の経済水準を共有する」のだというユートピアなんぞは成立するはずがないのである。たとえ平等ということがあるとしても、指導層以外は生活水準が非常に低いままの平等だ。

 経済的にこの理由を考えると簡単なことだと僕には思われる。ソ連や中共のように巨大な人口を抱えた社会主義国家では、その体制を維持するためには治安維持のための過大な数の職員と多大な程度の治安装備を保持しないといけないので、国の富はこの部分に多くを割くことになり、国民は豊かになれない。さらに、周囲の圧倒的多数の資本主義国家との潜在的や現実的な抗争にもっと莫大な軍事力を維持しなくてはならないので、さらに軍事大国にならざるを得ない。そのうえ指導層が国の富を搾取するのが常なので、体制崩壊前のソ連や、現在の北朝鮮・中共の状態になってしまうのだ。国民への十分な富の配分とは最も遠い。
 もし、共産主義経済が成立する状況を想像すると、狩猟と農耕に毛が生えたような手工業までの二次産業程度でしかないような少数部族程度の集団で、かつ、周囲の国からの干渉や侵略を受けないような隔離された状況でしかないと想像する。現在では無理な話である。 
 
 ソ連崩壊の後には中華人民共和国(中共)が生き残っていた。中共がソ連と同じとはいえないかもしれないが(毛沢東主義国家)、現実的には同じようなものだ。
戦後、米国は脅威を増したソ連への対抗のために、まだ国力が大きくなかった中共を支援して、ソ連への圧力としようとした。つい最近まで、米国は中共に莫大な経済的協力を続けたのである。ソ連が崩壊してからも中共への経済的協力は自国の経済的国益と合致していると米国は判断し続けていた。その一方で、米国は戦後に同盟国になった日本が国家として強力になりすぎることのないように最近まで手を打っていた。
 とにかく、米国は経済的国益が得られそうな中共に経済的協力をし続けたが、欧州の先進国も日本も同じようなスタンスが長らく続くことになった。相手は国力として驚異的な成長し続けだした(軍事力およびIT産業・バイオテクノロジー産業に特化した経済力)社会主義国家の中共なのにそうだったのである。
 これは、「国民総生産の目安としてある程度の生活水準が上がると、独裁的社会主義体制が民主体制に移行する」という社会理論を資本主義国家側が勝手に信じようとしたから成立した資本主義体制側の幻想だったのに過ぎない。つまり、こういう理論も誤りであったことを歴史が示してもう長くなるのだが、このことをやっと最近認め出したのである。これが二つ目の「外れ」の番外編である。 
 たまたま米国でトランプ政権が発足する時期の前後から「間違いであった」という結論が米国においては大凡のコンセンサスに到達しだしたのである。
 
毛沢東の後を引き継いだ鄧小平が実に賢明で「1国2制度という方針を打ち出して、民主主義国家に幻想を抱かせたのである(ずる賢いことはその国家にとって良いことだ)。その後、中共は軟硬何人もの指導者が入れ替わったが、最終的には資本主義国家側が一杯食わされたという現実になっていたことに気付いたということだ。特に、2年前の全人代で習近平が鄧小平以来の集団指導体制を再び独裁体制に変更してしまった(憲法を変えた)。そこで軍事力と経済力で2049年(建国百周年)までに世界の覇権を握るという従来からの国家意欲を改めて表明してしまった。さすがに呑気な周囲の国家も「これはヤバい」と気付いたのだ。欧米の諸国は米国先導で、親中国から一転した姿勢を取り始めている昨今である。
 ところが、多くの民主制国家の中で、現時点の日本だけが、官民ともに、この「切り替え」が全然できていない事例で溢れかえっている。日本は今後も間違った選択をし続けるという誤りを犯そうとするのか。何故、日本はこうなのか。ここに、現時点での歴史に基づいた「日本論」についての議論の必然性が出てくるように僕には思える。

ここで述べたかったことは、社会主義革命の行く着く先は国民の不幸で決まりというもので、歴史に基づく科学的社会理論でもなんでもないということだ。しかし、それをいまだに信じようとする、あるいは、そのシンパ的な人たちはいくら学歴があったとしても相当「頭が悪い」に違いない。そもそも社会主義国家とは経済的な不都合どころか、基本的人権全般が制限され、特に精神的な自由が侵害されることが不可分の体制であることが歴史的に証明されてきた。それでもなお、日本のマスコミを先兵とする似非知識人の人たちは社会主義思想にエールを送りたいのである。僕には到底理解できない。
そういう状況をもたらしてきた左翼活動家の修辞学の優秀さだけは認識しなければならないと思う。ただ、それが優秀だといっても、相当に「頭が悪く」なければ騙されるはずがない程度のものだと僕には思えてしまう。学校教育や自己研鑽による知的訓練よりも新聞・テレビの垂れ流し情報の影響の方がボディーブローのように効いていることが現実である。

2020年2月19日水曜日

日本で左翼思想が席捲する理由(その1)僕の青春時代までの回想

 今日このシリーズを始めるにあたってのプランとしては、(その1)僕の青春時代までの思い出、(その2)左翼思想は修辞学が優秀である、(その3)左翼思想はインテリに親和性がある、(その4)左翼思想は組織化能力が優秀である、(その5)日本のマスコミの体質の実態、などがすぐに思いつく。十年も二十年も前からこういうことに気付いていたからだ。 つまり、今回は(その1)「僕の青春時代までの思い出」となる。

 既に他所にも書き記しているが(拙著「Road to BABYMETAL」)、僕自身は小学生の中高学年までには太平洋戦争全般のことを読んでかなり詳しく知っていた。その頃(昭和30年ごろくらいか)までも、日英海戦・日米海戦やインドシナ侵攻についての解説付きグラビアが結構書店に並んでいたようだ。昭和31年に池田隼人首相が「もはや戦後ではない」と宣言したのがこの頃であるのが僕には興味深い。各局地戦のディーテイルを解説した内容と、「こうしたら勝っていたかもしれなかったのに、残念だ」というような話であったように記憶している。そういう内容が、4歳上の兄と僕の興味を誘っていたのだが、多くの大人たちがそうであったからこういう書籍が売り出されていたのであろう。僕ははっきり知らなかったが、父ではなく兄が買ってきていたのだと思う。
 その頃の巷間の雰囲気としては、吾が戦争の犯罪性の有無というような議論は皆無だった。この頃のこうした世相を僕より若い人は知らないと思うので書いておく意味があると思う。東京裁判もGHQによる日本統治もこれよりも以前に実施されたのにもかかわらずである。つまり、米国の「日本骨抜き作戦」は戦後すぐ始まったのに、それから10年も経ったこの頃までは、日本の世間はそういう考えではなかったという事実を証言しておきたい。
 つまり、「もはや戦後ではない」と首相が宣言した後から、日本の文化が「花より団子」にどんどん変わっていき、「日本骨抜き作戦」の影響が徐々に進行していって、現在もなおその状態なのである。結局、この頃から7年ほど経った頃には(もう、米国の方針は変わっていたにもかかわらず)、GHQが蒔いた左翼思想シンパの人々が活動しやすくなった環境が保守政権の無策と左翼組織の自己増殖能力によって強化されていったと思われる。それは、日教組をはじめとする労組や東京大学法学部を中心とした学府や官僚やマスコミに左翼的な利権構造がなおも強化されていったからだと思われる。

 小学校の高学年の頃までは、副読本(副教科書)というのがあり、それに従って「道徳」(「倫理」だったかしれない)の授業があった。記憶では「二宮尊徳」の話もあったと思う。多分、今はこういう授業はないのであろう。国家斉唱や国旗掲揚に疑い持つ連中がいることなど、そういう雰囲気は高校卒業までには全く気付かなかった。繰り返すが、その前に極東裁判やGHQ統治があったのにである。
 GHQの影響下で作られた戦後の歴史教科書では「米国が正で日本が邪」という日本戦犯論が強制されたが、その内容は、現在の方が僕の小学校時代よりも過激になっているように思われる。
 今までに知ったことついては、戦後の左翼組織の日教組が次第に強力になっていったわけなので(最近、やっと組織率が減っているらしいが)、多くの教師が組合に組織化さてれおり、その何割かの人たちがその左翼思想を実際に支持していたと思われる。しかし、小・中・高の学校の生活内で、そういう左翼的な方向に偏向した言動に気付いたことはなかった。しかし、今から思うと高校の時には、組合活動のことが生徒にも隠せなくなっていたこともあったが、僕は政治のこととして意識したことはなかった。 

 大阪府立高校の2年生の男子担任は女性的ともいえるほどマイルドな感じの人だったが、この先生は職組のアクティブメンバーであったらしい。この頃にこの先生たち数人が転勤を命じられたのだが(この理由は政治的なのかどうかの認識は僕にはなかったし、行政側がそういう意図であったかどうかも判らない)、たまたま隣の建物であった大阪府庁に組織的な阻止~陳情のような行動を教員がしたのである。それに一般生徒を連れて行ったのである。僕も「この先生はここにいて欲しいのに」というナイーブな気持ちで参加した。現場は多少は混乱したと思うが、乱闘などはなかった。結末としては、多分、転勤になったと思う。こういうことに教職員が生徒を連れていくことは間違っていると僕が思ったのは直ぐ後のことだった。
 3年生の時は物理の先生が土曜日に「エスペラント語」のボランティア活動をしていた。この先生もとてもマイルドな感じだった。職組の人かどうかはわからないが、今から思うとそうだと推測する。こういう日本語を相対的に否定的に対応するような活動や、マイルドな感じの人(実際に付き合うと、親切で良心的な人である人が多いと思う)に往々にして左翼的な人々が多いような印象を持つようになったからだ。マイルドだから左翼だと決めつけているのでは決してない。ただ、自分たちの支持層を増やすための方便としてはマイルドということは戦術的に優れている。

 京都大学医学部に進学したが、大学の教養部に入ると、もう全然違っていた。日共系と反日共系(こちらの方が優勢だった)の活動家のタテカン(立て看板)が学校内外に立ち並び、活動家が手持ちマイクでオルグ(勧誘活動)をしていた。僕は昭和42年入学だが、学生運動としては、既に60年安闘争(昭和35年)があったということで、入学の数年後には70年安保闘争があった。僕たちのところでは、大学管理法の阻止・学生としての自衛官受入れ阻止とか医学部内では博士論文にかかわる教授の強権阻止というような闘争が行われていた。今なら大多数は無関心だろうが、この頃は大学生というと多少のエリート意識があり、次代の日本を支えるという意識も今より強かったと思うので、かなりの学生が無関心ではなかったと思う。ただ、大多数は、僕がそうであったように、特定の組織とは距離を置いていて、すなわち、「ノンセクト」や「ノンポリ」学生だった。

 そのうちに何だかわからないうちに、教養学部の2回生から医学専門課程の3回生に進級する前のタイミングで医学部のストライキの動議が学生大会で可決されて、1年余の自宅待機になった。(後記: その期間は勘違いで1年未満だったと思うので、とりあえず訂正しておく。)
 この頃に、時計台の建物がある本部構内の正門を介しての活動家同士の衝突があった。この頃、羽仁五郎という左翼扇動家ともいうべき人が「都市の論理」という書物を上梓していて、学生間ではベストセラー的になっていて、僕も買った。この有名人物が京大本部の正門前の高場に立って突然演説を始めたので、たまたま通りがかった僕はそれを同級生の一人とともに近くで聞いていた。そして、その演説が終わるや否や、正門前に降ってわいたように活動学生が集まり、正門外には反日共系が、構内には民青系の学生が、という形になり、急に閉門された正門を介しての戦いになった。僕自身はこの衝突の際にたまたま本部構内に入って取り残された形になり、投石を避けながら多少の恐怖を味わった。相手側がゲバ棒を多数持っていたので、正門を突破されると自分も危険だった。お互いに誰が活動家で誰がノンポリ学生か区別がつかないからだ。その最中に、明らかに民青の活動家と思われる学生が「大学が機動隊を呼んでくれないかなあ」と話していたのを聞いた。彼らも怖かったのである。

 その後時が経って、ストライキ解除が議題の学生大会の開催の際には、僕は民青学生が募集した「行動隊」に成り行きで加わってしまった。この数年間は民青にシンパシーを感じていたし、ストライキが長く続くと生活が出来なくなり危惧を抱くようになったからだ。行動隊活動の最中に、逃げ遅れて反日共系学生に独り拘束されてしまったが、同級生が相手の中にいたのも幸いしてしばらくオルグされてから解放された。
 この「行動隊」は医学部のストライキ解除の学生大会を医学部内の講堂で開催するために、その設営に加勢してくれと民青の連中に頼まれたのだった。僕のような普通の学生が数名加わった。ところが、事の後で知ったことには、もともとその大会は安全な本部構内で開催することが既定方針で、ストライキ派が主流であった医学部構内での設営はダミーであった。ゲバ学生に妨害された結果、仕方なく本部講堂で大会を開くことになったという「状況証拠」を作るためのものだった。僕は知らなかったので最後まで医学部の講堂に居残ったので捕まってしまった。民青諸君は相手が部屋に突入してきた瞬間に、入れ替わりに逃げ出してしまって、本部講堂の仲間と合流していたのだ。この時に、政治とはこうことにエネルギーをかけるのだと知った。
ところが、医学部のストライキ派の活動学生も、実は「そろそろ授業を受けたいなあ」と考え出していたので、民青主導のストライキ解除の学生大会は成立して欲しかったのだ。だから、民青による会場のダミー設定に対しては、「殲滅する」として妨害にやってきたのだが、これも「状況証拠」を作るための芝居であった。
僕が相手学生に取り囲まれても無事に解放されたのは、一つにはこういう筋書きがあったことと、もう一つには、京大紛争においては、反体制派の学生活動もほとんどが京大学生の中で行われていたので、個人への暴力や建物の破壊などの傾向はあまりなかったのだと僕は思っている。それに引き換え、東京の方は大学の枠組みを超えた学生運動が多かったようで、「愛校心」に乏しく、学校の建物の破壊も大きく人的暴力も多かったのだと僕は思っている。国家に置き換えると、国家よりも世界市民なのだというアナーキズムは愛国心がなく過激になるのである。

授業再開になって学生間のトラブルはなかった。ストライキ派であった人たちも嬉しそうで恥ずかしそうであった。最初にクラスの自治会役員を2名選ぶ選挙があった。これに民青系の候補と反民青系の候補が立候補したが、僕はなお民青系の候補に依頼されて立候補した。もともとノンポリ学生の僕は1票差で落選したが、民青にもっとコミットしていた学生の票はもっと少なかった。実は、僕は落選してホッとした。それ以後は民青の学生たちとは交わらなかったが、その数年後に民医連の病院のカルテ整理のアルバイトを頼まれたことがあったので、民青の学生仲間はまだ僕を半分仲間と思っていたようだ。京都府知事は共産党の長期政権だったが、その蜷川虎三知事のカルテをその際にたまたま僕は見た。

 医学部の学生においては反日共系シンパの全学共闘会議派が「体制」であり、民青系は「非体制」だったので、キャンパスを歩くことにはストレスがある時期があった。医学部学生の多くは裕福な家庭の子弟だったので、多少ストライキが長引いても生活の心配がなかったようだが、僕の家庭は貧乏だった。裕福な家庭の子弟がより過激な反日共系のシンパであるという図式も僕にとっては滑稽であった。世間というものはおうおうにしてこういうものだのだという勉強をしたと思った。

 キャンパス生活の話をすると、教養学部の時には、「あの政治学の岡田教授は共産党シンパである」と普通の学生にもそういう情報が入っていた。彼は授業中に、「君たちは、そんな政治的なことよりも、冬の寒い時のストーブが欲しいというような生活改善闘争をしなければならない」と言って反日共系の暴力的な臭いのする行動を非難することを隠さなかった。僕はこの時「そうかもしれない」と思った。諮問には彼の意見を肯定するようなことを書いておくと合格に決まりだった。日本共産党は戦後に火炎瓶闘争を起こしてから国民の支持率が激減したので、以後、体制内革命の一環としてこういうマイルド路線を貫いているということも知った。それ故、日本共産党下部組織の「民青」のオルグは説話のようにマイルドだった。
 各講義の前の休憩時間にはしばしば主に反日共系の各セクトの活動家がやってきてオルグをぶっていった。そのうちにあるクラスにはあるセクトがよくやってきて、別のクラスには別のセクトがよく来るようになる傾向があることを僕は感じた。その結果、特定のセクトにコミットする学生は特定のクラスからのことが多いようになった。それよりも、特定のセクトの人脈は特定の高校の同窓生の比率が多いことも判るようになった。この時点で僕が気付いたことは、人はオルグの論理的内容よりも人脈によって引っ張られていることであった。ここでオルグの欺瞞性を僕は知ったと思った。ある大学は「中核」が優勢だが、別の大学は「社学同」が優勢であるというのも要するに人脈が引っ張り込む最大の引力であることを示している。
 ある日、僕のクラスで受験勉強だけを頑張ってきたような雰囲気の同級生が立ち上がって、「僕は勉強しにここにきているんです」とオルグの学生に正論(と僕も思った)を独りで勇敢に訴え出した。それからの議論の中でオルグの学生に突っ込まれて彼は泣いてしまったりした。僕も含めて、他の学生はそのやり取りを椅子に坐ってただ聞いていた。僕を含めて、各自はいろんな感想を持って聞いていたはずだ。後日談として、彼はそのセクトの活動家になっていってクラスから消えてしまった。僕などは、もともと自民党が怪しいと思っていたし、ベトナム戦争にも腹立たしい気持ちを持っていたりで、オルグの学生の喋っている「現状認識」というものには何も新鮮味を感じたりはしなかった。その大人しい学生にはオルグの内容が新鮮であり、「覚醒」させられてしまったと思った。
 その時に僕の感じたことは、もともと社会に関心を持っていなかった者が、急に議論を吹っ掛けられて、自分の政治的未熟さに気付いたということまでは良かったが、他にもいろんな考え方があるかもしれないという作業をすることなしに、そのセクトの活動家になって、その後、多分、偉そうに新たな後輩世代の一般学生にオルグをするのだろうなということだった。そもそも成人になったばかりの学生が偉そうに他人にオルグするなぞ滑稽の極みだとその時に僕は思っていた。つまり、左翼の思想にかぶれた連中にはそういうような人々が多いということを僕は知ったと思った。

 僕の非常に親しい人は未成年の頃から保守的な考えの持ち主であって、長じて自衛隊に入った。この当時は、現在に比べて、自衛隊に入ることにはかなりの世間体からの勇気が必要だった。しかし、その後、彼は単にその訓練生活に馴染めずに普通の会社に勤務し直した。その会社の社長がたまたま日本共産党の党員だった。そういうことはままあるようだ。当然のことながら組合活動が盛んな会社であり、その後明確な左翼的考えを持つようになった。
 有名人にもよくあることだが、「左から中」や「右から中」よりも「左から右」や「右から左」というパターンが結構ある。こういう場合は、論理内容そのものもさることながら、性格の方が極の方に走らせる要因であろうと思われる。こういう人は「そこそこ」とか「あれも正しいかもしれないが、こういう場合もありかもしれない」というパターンを採りにくい性格なのだろう。
 極左と極右とは親和性があると思わせる事例が政治や論壇で散見されるのであるが、その最大の理由は性格の問題であるという単純なことだと僕は思う。

 さて、医学専門課程の授業が始まったが、残りの3年足らずの間には4年間のスケジュールの授業が収まらずに、講義スケジュールを端折っても卒業が9月になってしまった。卒業式もなかった。
 僕たちの大学は大学紛争を一つの契機として、新しい教育システムが導入された。誰が先導したかは知らないが、「教授の強権」の基盤である「講座制」による講義を崩して「レベル・システム論」による講義に変わったのだ。この考えは、その後、他大学や文部省に広まっていったように僕は承知しているが、それを自分で検証したわけではない。
 具体的に言えば、解剖学とか病理学とかの縛りではなく、基礎医学では、分子レベル➜細胞レベル➜器官レベルなどの縛りでの講義だった(臨床では、臓器別ではなくてシステム別の講義だった)。だから、一つの縛りの講義には、複数の講座からの教員が分担して当たった。学問の教育としては良い点もあったし分かりにくい点もあったように感じた。
 伝統的な「講座制」では一つの「学」つまり「-ology」という研究対象物とそれにかかわる方法論的な「まとまり」があったが、「レベル・システム論」ではまとまりがなかったように感じた。しかも、結局は教授が権力を有する「講座制」はちゃんと生き残っていったので、本来の目的からはあまり意味がなかったとも総括しうると思った。
 ただ、この頃から後、研究ツールとして免疫組織化学・放射免疫測定(RIA)や分子生物学(遺伝子工学)のテクニックが席巻しだして現在に至っているが、この研究の方法論はあらゆる講座に活用されており、「レベル・システム論」はこの潮流をいち早く察知したプランナーが先導したのかもしれない。利根川進と本庶祐や山中伸也のノーベル賞受賞研究は、「基礎免疫学」や「腫瘍免疫学」や「再生医療学」という縛りでもあるが、共通しているのはワトソン・クリックの「二重らせん」が契機の分子生物学の技術とバーネットの「クローン選択説」が先導した免疫学的解析技術が如何に強力であるかということを物語っているということだろう。

 その頃の教育に関して、「レベル・システム論」というものの他に、「強権の」教授を外した「助講会」という組織ができていた。彼らが「レベル・システム論」を先導してくれたのかもしれない。助教授と講師が主なメンバーだったが助手も加わっていたようにも思える。これはまあボランティア的ともいえるアンフォーマルな組織(のような)ものだった。こういう人たちが、授業再開の時からしばらくの間、学生との(あるいは学生の代表との)意見交換をしてくれたのだ。僕が、その後気付いたと思ったことは、学生にあたりの良かったこうした先生達が本当に学問的に優秀であったかとか強い学問的信念を持っていたのかを振り返ると、割合的には疑問を感じるようになった。学園紛争の時に学生と対峙した教授の中にこそ割合的には立派な人達が多かったように気付いたのだ。そもそも全学共闘会議派に属していたヘルメット学生こそ政治的な信念が怪し過ぎて、ほとぼりが冷めたら、彼らはむしろ対峙した教授と僕ら以上に結構仲が良くなっていったのである。
 こういう有様を僕は傍観していたので、「あたりの良い先生」には多少は警戒して、「強権的に見える先生」には頭から拒否的にならないようにするのがよさそうだと思ったのである。











2020年2月1日土曜日

脱イデオロギーの意味論(その3)地球温暖化の観点からも人口の増加自体が問題


既に述べたように、長いタイムスパンを考えると地球は何度も氷河期(氷期)と間氷期とを繰り返しており、現在は次の氷期に向っている最中であって、長期的には寒冷に向かっているということだ。このことにおける気温変動の原因は種々提出されているが、要するに太陽から供給される照射エネルギーの地球全体による吸収率の変動によるものだ。しかし、現在の我々が生活している短いタイムスパンの中では、地球が吸収する太陽からの照射エネルギーはほぼ程一定である。ただ、太陽の黒点生成の変動などによりなどにより 0.1 程度の増減があるとのことだ(なお、千年くらいの周期で小氷期という多少の気温変動があるらしいが、これも黒点生成の変動が関係あるらしい)。
 地球が太陽から受ける総エネルギー量は1秒間に 1.75 × 1014 Wと計算されている。地球表面まで到達するのはこのうちの半分くらいだそうだ。因みに、この吸収率に影響する因子のひとつに空気中の炭酸ガス濃度があるということだ。
短いタイムスパンで、地球が太陽から吸収するエネルギーに有意の変動がないという前提で、人工的な地球温暖化の要因を考えてみよう。結論から言うと、原子力であろうが、太陽パネルであろうが、風車であろうが、化石燃料であろうが、本質的には地球温暖化要因という点では変わりはないのである。ただし、化石燃料の場合のように燃やして電力としてエネルギーを得ようとするものは、その時点での温度上昇と炭酸ガスの発生が直接的あるいは間接的温暖化の要因になりうる。ただ、地球温暖化に実際的にどの程度の寄与をしているかは未決着だ。その使用する総量次第で少なければ無視できる程度なのかもしれない。これは原子力発電の際の温度上昇にもいえることだ。

さて、ここで人類活動におけるエネルギー利用に際して生じる熱エネルギーの発生量という本質的と思われる因子を考えてみると、(人口 X 人口1人当たりに発生する熱エネルギー)ということになり、結局は人口と贅沢さの程度に既定されることになる。
生物体内における運動エネルギー利用の効率は驚異的であり、伴う熱発生は微々たるものである。しかし、人間が作った器械を用いてのエネルギー利用の際には随伴して発生する発熱は無視できないものだ。それ故、どの由来のエネルギーを利用しようとも、人間が暖を取るための直接的な温暖化効果はもとより、電気として保存されたエネルギーから種々の力学的エネルギーを利用する場合にも熱が随伴的に発生するのである(目的からするとエネルギーロスであるので、科学者や企業家はこのロスを減らすことに日夜努力しているのでもある)。人間がどんどん快適な活動を活発にすればするほど用いたエネルギーの利用の段階で熱が発生するのである。そして、人間が増えればそれに従って地球での発熱が増えるのは自明である。それで仕舞である。

上記のことが本質的なことだと思われるが、ことのついでに各種エネルギーについての補足をしておく。石炭と石油の化石燃料というものは、数億年もの長きにわたって太陽から受けたエネルギーの一部が最終形態として地下に保存された物質だ。この物質の持つエネルギーを人類はそれぞれ二百年強と百年強の短期間に猛烈な勢いで地球上で開放してきたのである。これは、換言すれば太陽から地球への太陽エネルギーの吸収率がこの数百年間に増大したことと等価であるのだ。これは少なくとも質的には地球温暖化を誘導する。
 風力発電はクール発電の典型のように言われているが、風という力学的エネルギーの一部を電力として保存するのであるから、同じように太陽エネルギーの実質の吸収率が増加したこととやはり等価である。これは化石燃料と異なりリアルタイムでの吸収率の増加である。太陽光パネルなどというものは名実ともに地球への太陽エネルギーの吸収率を向上させようとするものだ。当然のこととして地球温暖化の要因になる。原子力発電はこの意味では化石燃料と同じことである。地球内に内蔵されている根源的なエネルギーを科学イノベーションの力によって短期間の間に開放することができる。
 すなわち、化石燃料を燃やして電力に保存しようが、別のものを燃やすことなしに電力に保存しようが、電力を使う段階で回り回って空気の温度上昇が伴うのである。この問題が質的な現象にとどまるものか、あるいは現実な気温上昇に寄与するものであるのかは、前述したように(人口 x 人口1人当たりに発生する熱エネルギー)の程度に依存するのである。換言すると、人口の指数関数的な爆発的増加が起こったり、平均的な人間が生活上で限りなく贅沢三昧になってしまったら、その2要因だけで地球温暖化が現実のものとなる。
 そして現実的には、前者はもう起こっていることであるし、後者は多少は起こっているものと思われる。しかも、先進国に住んでいる人類は相当な程度の冷暖房のもとで生活しており、熱エネルギー自体を得るための目的で電気やガスのエネルギーを開放し続けているのである。

 以上の議論の末での僕の主張は、空気中の炭酸ガス濃度のような単なる質的な要因のレベルにとどまっているのに過ぎない可能性が大きいような事柄をことさら強調する一方で、より本質的な人類の増加と贅沢化という煩悩の産物の議論を放置していることは滑稽であると感じる。ここに現在の世界を席巻している「似非知性主義」に異議を唱える所以がある。

 蛇足。炭酸ガスの温暖化犯人説に反論している武田邦彦教授の主張の一つに、クリーンエネルギーの典型な風力発電や太陽光パネルにしても、その製品を完成するまでに用いるエネルギーは相当なもので、この段階で随伴熱エネルギーが発生するということである。同じ構図として、ゴミの分別のための制度の構築や維持そしてそれに関する製品の製造や人員配置と運搬実務に消費されるエネルギーに随伴して発生する発熱を考慮すると、「今まで通りの単に燃やしてしまうことの方が宜しい」という議論も質的には成立するのである。
すなわち、種々の要因が単に質的な要因にとどまっているのかそうでないのかの検証をしないで主張してしまうと「その領域に携わっている学者の好き放題の議論になる危惧」が現実のものになるということだ。そして、武田教授によると、分別させまくったゴミの大半は、実は、焼却しているとのことだ。このことを政府や行政は発表しないし、当然知っているはずのマスコミはこのことを報道しないのだ。とても興味のある構造である。
 「地震の予知もまだできないくせに一方的な主張を一部の学者が誇大広告し、その一方的な議論のみをマスコミがいろんな思惑で繰り返し垂れ流している」という現実も同じような土壌のもとにあると感じている。随分以前に地震研究者のロバート・ゲラー東大教授が「(現在においては)地震は予知できない」と明言してからそのNHKは二度と彼を番組に呼ばなくなったそうだ。この「地震は予知できない」という現状は、今でも一向に変わっていないのだ。武田邦彦教授も「地震は予知できない」という意見をユーチューブなどで主張しているが、もちろんマスコミはお呼びでないのである。

 しかし、繰り返すが、人類の爆発的な増加と贅沢三昧という現実は、ほとんどの質的要因にとどまるかもしれない潜在的な地球温暖化の要因を現実的な要因にしてしまうことは明確であると思われる。
 しかも、今のレベルの地球温暖化のことよりも、人口増加が食糧難と土壌の不可逆的な劣悪化の可能性という人類その他の生物生存の根本を台無しにしてしまうことの方がもっと恐ろしいことだと感じている。僕は以前議論した政治軍事問題だけでなく個人の生き方の場でも、「そこそこ」主義は場合によっては選択の余地があると感じているものである。

 「垣根の垣根の曲がり角,焚き火だ焚き火だ落ち葉焚き」という幼少時の風物詩が懐かしい。僕には「似非知性主義」よりも懐かしい風物詩の方が大切だ。

(追記)僕は、焚火が禁止的になっている日本の現状を悲しく思っている。世界のあちこちに大規模な山火事が自然に定期的に生じている状況で、このような些細な規模の焚き火が出来ない状況は変だと思って、この機会に現状を調べてみた。そうすると、その扱いは条例での規制が主流なので、地方によっても是非が違うらしい。そして、「規制したい」側のポイントの一つは消防関係のことで、火事か焚き火か判りにくいことと類焼のリスクのこと(➞以前から同じではないか)、焼くパターンによっては有害ガスが発生すること(➞そういう物を焼かない場合は問題がないはず)、そして地球温暖化対策などが列記されている。しかし、現実には地球温暖化対策マインドの影響がかなり大きいように感じた。ただ、場所と地域によっては「焚き火はダメ」とは限ってないように読み取れた。
その一方で、知人から「私の知り合いが自分の庭で焚き火をしていたら検挙されたとのことだ」と聞かされた。本当かな?

脱イデオロギーの意味論(その2)炭酸ガス増加より人口増加自体が桁違い

簡単な実験によると、空気中の炭酸ガス濃度が上昇すると植物の成長が大きくなり、それが減少すると植物の成長が悪くなることが判っている。単純な思考実験でも「そういうことになる」という納得感がある。こういうフィードバック機構に連関した植物の増加現象は、人類による自然破壊によってそのスペースがもう限られているとして、「むやみに空気中の炭酸ガス(二酸化炭素)の増加をもたらさないようにしたい」という考えも理解ができないことはない。僕は片方のイデオロギストになることを恐れるからである。ただ、少なくとも現在のありうるところの地球温暖化現象の根本原因が空気中の炭酸ガス増加であるという意見も、まだ「凡そのコンセンサスが得られている」という状況でもないのが実態であると思われる。

しかし、前号に触れたように、国際関係の学術団体や国連下部組織などには、好むと好まざるにかかわらず、すでに巨額の資金や利権が絡んでいることが懸念されるのだ。また、日本のマスコミ(世界のマスコミのことまではここでは触れない)には報道内容の選択上の公平さが大いに損なわれていることは「裸の王様」でなければ誰にでもわかるはずのものだ(一つには現政権の政策に反対することが責務だと勘違いしており、二つにはセンセーショナルな方の意見を選択する)。この日本のマスコミの病理については多数の秀でた論客が指摘してきたことであるが、この国においてはなかなか是正されることがない。「裸の王様」現象を打ち破って目を覚まさせるには、今までとは別のパターンの修辞学というものが提出されないと日本では難しいように思われる(憲法議論と同じである)。僕は、「一般意味論」と「身体・精神の生理学」とを基盤にした訓練と学習が適切のように思ってきた。

さて、前号に触れたような「この数百年以内の地球の気温の上昇?を示すグラフ」などはまだまだオトナシイ。最近の数世紀における地球上の人口の爆発的な増加(グラフ)は実に「正の指数関数的」である。このとんでもない程度の人口増加の実際的かつ学問的な意味合いについてはその筋の専門家がそれぞれの論点を持っているのだと思われる。しかし、このまさに狂気ようなグラフであるということを正面切って議論できていない現実に危機感を抱いている。
炭酸ガス増加規制という場でもいろんな既得権益(善悪の価値観を含めていない)の対立構造が絡んでいるが、人口増加規制という場となればはるかに調整不可能のような対立が起こってくることになる。だから、この問題を専門家や学者が地球問題の俎上にあげることができないのだと思われる。
人口問題を「真面目?」に議論すれば、地球規模の紛糾になってしまうだろう。何故なら、各国や各民族の権利義務・生命の倫理問題が絡んでくる。「一応の議論」ということも「ヘイト議論」と非難されることになりそうだ。要するに、「じゃあ、どこの国の人口を減らすというのだ」となり、今後も国際の場では議論ができないだろう。むしろ、個々の国家内での将来を見据えた議論の中で、人口抑制の取り組みをする場合ができていると思われる。
 しかし、そうなってくると、国家や国民の意識が比較的高い場合に人口抑制が方向付けされる一方、いわゆる経済発展途上国の場合にはそういう人為的な方向付けはほとんど成立しないだろう。そうであるから、先進国に比べて発展途上国の人口がどんどん爆発してしまう可能性がある。貧困国に対する国際機関からの補助・援助が行われることが、結果的にスポラディックな人口爆発的な状況になかなか抑制がかからないことになる可能性があるように思うのである。なお、この文脈における中華人民共和国における人口抑制政策についての論評は避けておきたい。

さて、実際的かつ学術的に人口問題を俯瞰すると、現在に至るまでの人口動態のありさまは食糧の補給量に見合って人口の増える余地があったと考えられる。食糧の補給量を規定する因子は、地理的な食糧の確保能力、貨幣流通経済の現在では経済能力、ということに集約されると思われる(ただし、人間は「メシを食って生きているので、の場合でも結局はの能力に依存しなければならないのだが、この議論はずっと後で触れたい)。
地球規模でみると、この数世紀での人口増加の最初の契機は英国で始まった産業革命だったらしい。つまり、このことは、最初は、先に資本主義化して経済発展した国(それとその植民地にも起こったと思われる)に起こったことだ。蒸気機関などの発明により二次産業が発展して、それに従事する人口の増加を必要とし、かつ、その増加した人口に貨幣を支払うことができて、倍々ゲームになっていった。この状況は現在でもその通りだと思われるが、最近では国の枠を逸脱したグロ-バルな企業がいろんな途上国に安価な労働者を見込んで進出するので、進出された国では人口は増えることになる。加えて、最貧の途上国への援助という仕組みが作動するので、そこでもその額に連動した人口の維持・増加が見込まれる。すなわち、現在では主に上記のの要因が大きいということになる。しかし、による人類活動規模の増大が度を越してしまうと、地球規模ののキャパシティが破綻するだろうの危惧を僕はもつ。
 ただ、極めて優秀な科学者たちは「そこにエネルギーがある限り(例えば、物質=質量などがある限りとか)イノベーションによってなんでも創り出せる」とするだろう。しかも、エネルギーは無限に存在しているのだ。こうした議論は実は「実現するもの」かもしれないが、二十一世紀前半の議論にこういう「ぶっ飛んだ」話をすれば、あらゆる議論は阿呆らしくなってしまい、多くの評論家は失業してしまうだろう。
産業革命や欧米列強の世界侵略が始まる前はというと、基本的にの因子に規定されていたことになる。たとえば、東南アジアは基本的に降雨の豊かな温帯・亜熱帯であるので、放っておいても果物をはじめいろんな植物が茂り(動物もそれなりに食糧になった)、海の幸も豊富であるので、それに見合った人口が維持されてきたのである。アフリカ大陸でも植物の多い地域ではよく似た状況であったと思われる。ただ、こういう地方では風土病や感染症が猛威をふるうことが常だったという問題がある。生物学一般で真であるごとく、このリスク(特に、生後から成人になる前の高い死亡率)には「多産」という対応で良かったという言い方もあるいは可能と思われる。
以上のようなことを考えてみると、もし国際機構が最貧国への経済援助を行う際には、必ず疾病率の減少への援助と出生率の節度ある管理とのカップルなしでは行ってはいけないと僕は思うものだ。

さて、僕は昭和22年生まれの団塊世代の人達とともに人生を送ってきたが、小学校での社会科で習ったことが強烈に記憶に残っている。日本の都道府県と県庁所在地や世界の国名と首都名を覚えることが面白かったことを思い出す。この時には、「日本は狭い国土で資源が少ないにもかかわらず人口が多いので今後が心配である」と明確に教えられた。子供なりにも我が国の将来を心配した記憶がある。この昭和30年(1955)ごろの日本の人口は9千万人だった。その後、平成22年(2010)の1億2千8百万人弱をピークにその後減少しだして、昨年は1億2千6百万人だった。日本の現在の人口問題が単に人口数のことだけではなく、ピラミッド型とはかけ離れた「多数の高齢者を少数の若者が支える」ような形態をしていることであるということだが、ここでは敢えて単純な人口数だけの話として論を進める。
人口が減るということは、僕が小学校の社会科で習った危惧が解消されてよいのではないのかという疑問が出てくるというものだ。しかも、現在では我が国の「食料の自給率」が他国に比べて低過ぎるという心配をさせるような意見が声高である(この議論も一方的で怪しい点が多い)。じゃあ、なおさらやっと人口が減少するのは良いことなのではないのかと問いたい。僕は、ある程度は本気にそう言いたいのである。喉もと過ぎれば何とかで、あの頃の心配を忘れたのか? やはり狭い国で1億人以上は多過ぎるというのは直観的かつ生理的な感覚で「そうだよな」のように感じてしまうのだ。しかし、何故論調が真反対になったのかはこう言う僕にも判ってはいるつもりだ。それは経済構造が変わってしまったからだろう。

資本主義がどんどん先鋭化している現在では、今や人口は企業の生産活動の労働者としての意味と消費者(内需)としての意味でしか見ようとされない。そうなってくると、大量生産・大量消費、そして、しばしば薄利多売の経済活動の前提では、人口が多くないと企業が持たない。しかも、国民はその企業の活躍なくしては生活もままならない。
しかし、日本が「そこそこ」にしなかったから敗戦の憂き目をみたように、この先鋭化した資本主義そして株主絶対主義化や国の枠をはみ出すグローバル資本による支配化という「やり過ぎ」から脱却できないと間違いなく地球にいろいろなカオスが到来すると思われる。
欧米中心のこの経済構造(中共も国家資本主義として同じようなことを先鋭化している)が現に進行している時に、日本だけがそれと無関係に存在するべきであるというようなことを言うつもりはない。それは実際上は無理だろうと思うからだ。しかし、古来から独自の存在感のある文化で育まれ、そして作り上げてきた日本人は、少しでもその影響力を世界に与えていくべきだと思う。少なくとも、欧米の価値観が正しくてそれに盲目的に従っていこうと思ってはいけない。
明治維新の頃の脱亜入欧には意味があったが、キリスト教一神教的な西欧精神文化とは冷静に対応していかねばならないと思う。西欧社会の行き詰まりに対して、彼らに日本文化がヒントを与えるようになると僕は予想している。ユーチューブをいろいろ見ていると質的にはそういう変化が既に明らかになっている。
年功序列・終身雇用を完全に見捨てるような最近の我が国の流れであり、これらの制度とこれと連関した「愛社精神」の意義や、QCサークル活動などの生産現場での「改善」という日本の世界に誇示した長所を全て否定されるものではないはずだ。日本の優れた精神をかなぐり捨てないで、年功序列制度や終身雇用精神の時代に多少合わなくなった部分の修正を図れば良かったのにと思うのである。

キリスト教社会では教義的にあるいは歴史的に「労働はネガティブなもの」だということを日本人は認識しておく必要がある。つまり、労働は「働かされるもの」あるいは「仕方なく働く」というもので、基本的には宜しくないのである。ところが、日本では「働くことができてお天道さまに感謝する」というものなのだ。僕は日本文化の方が明らかに人間性として素晴らしいものだと思っている。そもそも動物全般においてはそれが真実なのだ。繰り返すようだが、西洋文化であってもイスラム文化であっても、それは日本古来の考えとはいささか異なるのである。日本古来からの文化は一神教ではないがゆえに、争わず良いところだけ吸収するというものだ。ラテン社会で目立っているような「働くことはなるだけ止して、なるだけ楽しもう」という文化はそのまま吸収するような代物ではないのだと解脱し直さないといけない。「そこそこ」にしておかないと、最終的に狭いタイムスパンでの地球温暖化は起こり、人口爆発が止まらない地球になるであろう。ただし、地球温暖化は炭酸ガス増加が原因ではなく、人口爆発した各人がどんどんエネルギーを消費する事態そのものがもたらすであろう。

日本は古来からの自慢できるような精神文化がある。しかし、現在の日本人の精神文化は総じて「贅沢の欲望がとどまるところをしらない」状況になってしまったと僕は感じている。日本は世界の中で、全般的にみて非常に裕福な国民であり、かつ、貧富の差が世界基準からすると驚く程少ない。であるのに、不幸を煽るマスコミを無批判的に受け入れてしまっている日本人には「自分は貧しい」と不満を抱いている者が多い。どこまで贅沢なのだ。経済的に「そこそこ」で良しとしないこの精神では、この一点で日本は破綻するだろう。上昇志向で頑張ったり工夫を凝らすことは良いことだと思うが、自分より贅沢をしている者を見て不満を募らせることは結局は不幸なのだ。「ひとそれぞれ」なのだから、各自は自分なりに真面目に仕事をして、適度の余暇を過ごして、それなりに生命を維持出来て、その間に多少とも個性のある精神的な活動が出来れば、それは幸福でないのかと問いたい。僕は、海外からの旅行者が驚き・称賛するウォッシュレットその他のハイテク機能の付いた便器を憎む。これが日本の庶民の贅沢化の典型だと思うからだ。「日本人よ、何様と思っているのか」と思ってしまうのだ。
欧州からの観光客は日本に来ると「また来たい」という人たちが多いらしい。彼等にとって日本の日常生活は非常に魅力ある生活なのである。そのような印象を多くの外国人が持つことに「そうだろうな」と僕自身は直ちに了解できる。僕は欧州に行ったことはないが、身内の者がアイルランドや東欧に行った時の印象を聞いたのだが、街中でも夜は明かりもほどんどなく、ひとびとは自宅の中で何かをしているだけで、通りには誰もいないような生活なのだそうだった。日本では庶民であっても金満的といえるような華やかな生活に溢れているように思われる。勤勉の結果に得たものだと思ってよいのかもしれないが、いつまでも続くのが当たり前というような天を恐れぬ精神であってはいけないと思う。何かあれば、あの戦後の慎ましい状態に耐えることが出来るという覚悟もありかなと思うことは、少なくとも精神修養には必要だと思われる。まあ、そのような覚悟があれば日本は満蒙には進出せずに済ませられたと僕は頭の中だけで思い返している。

なお、日本の人口について付け加えたいことがある。15世紀に1千万人を超え、江戸時代の初期に急増してその後3千万人で一定していたらしい。この一定ということの要因としては、作物の収穫量がどんどん増えるというイノベーションは起こらなかったのだろうことと、貧しい人々の間に「人減らし」という悲しい行いがあったからなのかもしれない。明治の後半には5千万人、以後終戦の年の7千万人まで徐々に増加していた。
戦前、日本政府が満州に進出しようとした理由は、根本的には増えた人口を「人減らし」のようなことなしに賄っていこうとしたからに他ならない(これにひきかえ、それに先立つ朝鮮半島への進出はロシアの侵略からの日本の防衛が主な目的だったし、これは当時の国際秩序からしても軍事力をそれなりに備えていた国家の普通の対応であったと認められている)。満州への進出は領土拡張主義でなく既存人口の生命維持のための食糧確保が目的であるとの認識であった。このことは、最近世に出た松岡洋右の復刻書「東亜全局の動揺」(経営科学出版)にも明言されている。
 しかし、そうであったのなら、その頃こそ人口抑制政策を模索することを含む収穫量に見合った人口の維持というノウハウを探究すればよかったと残念に思う。他所の土地に無暗に進出することは特段の理由がなければ褒められたことではないし、朝鮮半島や満蒙地区というところは日本人が進出しうるような甘いところではなかったことは、その後思い知らされることになるのである。その地方の土着の精神文化が全然違うので、「大東亜共栄圏」ということも無理な話だった。
蛇足だが、「大東亜共栄圏」というものは、戦後のGHQの洗脳内容のような侵略的な雰囲気は乏しくて、博愛主義の雰囲気の優勢な方針だったというのが事実だったと思われる。しかし、アジア大陸の各地域はあまりにも精神文化が異なっていたので、現実的には「きれいごと」で終わってしまったと僕はその失敗から学ぶことが出来ると思う。曽野綾子が繰り返し警告しているごとく、「きれいごと」を主張すれば、それは結局は人を不幸にしてしまうものだ。大東亜戦争の目的のひとつであったアジア諸国の欧米列強からの独立の契機を日本がつくったことは失敗の中の大成功だったと思っている(最近、こういう総括の書物を西欧人が上梓している)。

ところで、農業や科学の発展した現在の時点では、日本の国土からは潜在的に3億人の人口を賄えるキャパシティーがあるらしい。日本は「温帯のモンスーン気候が中心で複数の暖寒流に囲まれた南北に長い列島」という地理的にまことに恵まれた国なのである。マスコミに席捲しているところの日本の食料自給率はとんでもなく低いという警告は、今後もどんどん贅沢をしていこうとすればそうである。ところが、現在の科学技術のもとでは、我が国は贅沢をしなければ自前で国民すべてを十分に食糧で賄うことができると思わなければならない。その点が、満蒙に進出した時との違いである。
しかし、それは、庶民のかなりがグルメ志向で、庶民の多くがウォッシュレットを持っており、ほとんどの未成年者までがスマホを持っている、というような「贅沢」をどんどん進める構造とは並立できないように思うのである。