2018年1月28日日曜日

意味論的国語辞典「民主主義」

「民主主義」:①「民主制」が一番良いのである、というイデオロギー
       ②英語ではdemocracyとなっている。語源はギリシャ語
       ③ここでは「民主制」と「民主政」とは同じように用いる

 最近、何かの書き物において、「民主主義などというものはなくて、言うならば民主制とするべきだ」ということを読んだ。僕は、「成る程、そうなんだ」と直感的に腑に落ちた。民主制の対比語は、貴族制、寡頭制、独裁制、専制、全体主義などと別のところに書かれているので、参考としてここに転記しておく。ただ、実際には民主主義ということばが国内外に溢れかえっている。

 民主制というのは歴史上は古代ギリシャで始まったことになっている。ギリシャも以前は王政であって、その後民主政になったということだ。古代ローマも最初は王政であったが、その後、共和政に移行して、さらに帝政になっていったことは僕も習ったり、映画でも馴染みのあるところだ。

 専門的なことは判らないが、この共和制というのも民主制とおなじ括りのものだろう。しかし、古代ギリシャの民主政が最後は衆愚政治に堕落したために、当時すでに、「民主制」=「衆愚政治」と同義語のようになってしまって(衆愚政治は民主政を揶揄した語といえる)、デモクラシーというのは印象の悪い言葉になったらしい。古代ローマはこのことがあって、「共和制」という語を用い通したようだ。

 現在、多くの「民主主義国家」とされているものは「〇〇共和国」と自称および他称されているが、それ故、「民主主義国家」(本当は、「民主制国家」というべきだ)は本当は「共和制国家」と言い直すほうが適切だと思う。現在までに、国名に「民主」という語を用いたのは、東ドイツや北朝鮮などのいわゆる共産主義的な国家だけのようだ。こういう国は党独裁というのが実態なのだ。「民主」という用語は古代史では最後には揶揄され、現代史では虚偽であり、冗談のようになっている。

 多くの人々がそう考えてると思うが、民主制は日本でも諸外国でも、欠点の沢山ある制度だが、次善の策として当面採用せざるを得ないものだと僕も思う。現代の民主制を採用するということは、胸を張るものではなく、悲しいことでもあるのだ。それでも、「技術的に現在はこれしかないのかなあ」として、仕方なく納得しているものだと思う。

 ところで、「民主主義」だ!と主張する人たちの中には、「せいぜい、いま述べたようなことを言っているに過ぎないよ」と言い訳をする人たちもいるかもしれない。しかし、実際にイデオロギー化している人たちが多いように感じる。心理的機序として、時とともに前者から次第に後者に移行する流れがあるのだと思う。もしそうならば、人はその危険に気付かないといけない。

 ところで、僕は、プラトンが考えたような「哲人政治」が理想だと思う。短期的には可能だったという史実は内外にあると思う。江戸時代でも、優れた藩主が非常に立派な政治をした実例は枚挙にいとまがない。ただ、こういう哲人政治は、その立派な人物も後年変質することもありうるし、次代のリーダーが駄目だということもありうる。特に、後者の場合が大いにありうる。この時に体制としてどう対処できるかというと難しいので、「民主制の方がましかな」ということになるのだろう。ただ、やはり、欧州の歴史のなかにも我が国の歴史のなかにも、国王や将軍や藩主が、その立場上(上からの目線)、かえって民衆の生活を良くしようと虚心坦懐に実行できたリーダーがいたようである。ポピュリズムに迎合することに大きいエネルギーを使う必要や、政治的妥協のために自らの核心的な考えを売り払うこともなかったのだ。

 間接民主制の政治では、国民の投票によって選ばれた議員の議論の後で、議決によって個々の政治の方向を決めないといけない。「徹底的討論」に固執すると、何も決まらず政治空白のみが生じる。それによって国全体に大きい損害を与えた例は多数ある。我が国のメーカー企業が、トップダウンの迅速な外国企業に連戦連敗したことがあったことを想起すれば、民主制の難儀なことが判るはずではないか(僕は、いつもトップダウンが良いと言っているのではない。時は待ってくれないことがあると言っている)。民主政治と哲人政治の現実的なミックス政治についての議論をそのうちにここでできるようにしたい。

  

2018年1月15日月曜日

意味論的国語辞典「徹底的討論」

「徹底的討論」:①自分の主義主張が通るまでは議論を止めないこと
        ②意見の異なる他者の次の行動を一切阻止する、とほぼ同義語
        ③民主主義(民主制)には本来的には容認されるはずのない行動


 言葉の持つ怪しい属性に最初に気付いたのは、記憶からは、大学紛争の最中のキャンパスにおける全共闘系の諸君のこの言葉だった。ちなみに、僕は、大学入学時には自民党には反感がありベトナム戦争にも反発していた。当時はまだ朝日新聞を下宿で購読していた(当時は、他の多くの学生と同じく、それがインテリの必要条件と思い込んでいた)。政治には大きい関心を持っていたが、行動としては「ノンポリ」学生だった。沖縄返還には特に反対ではなかった。

 日本共産党の下部学生組織の「民青」は「徹底的討論をしよう」というようなことは言わなかったが(当時は生活改善路線で、アジテーションもソフトだった)、「中核」「革マル」「社学同」などの懐かしい響きのある「反日共系」セクトがよくこれを言った。全共闘はこれらのセクトの影響を受けていることが一般的だった。
 「徹底的討論をしよう」「えっ、君は逃げるのか」。これを言われた側は厄介だ。「腹が減ったから早く飯を食いに行きたい」という場合でも後ろめたさを感じさせられそうだが、自分が相手の意見と全く違う、または、一寸違う場合では、抜き差しならなくなる。


 学問の世界や文筆の世界では、ずっと議論が続いても構わないが、日常の生活の方針を決める場合に、こういう要求に付き合わされると、①相手に「君の言う通りだ」と言ってしまうか、②現実の行動は一切進まない、のどちらかということになる。 
 現在に当てはめれば、野党が政権与党に「徹底的な議論を要求する」ということだ。この「徹底的」という言葉は、「痛めつけてやるぞ」への修飾語であれば非情すぎるが、「議論」の前の修飾語であれば、いかにも正論を言っているかのような錯覚を受け手や第三者にもたらす。主張している側については、もしこれを「言葉の綾」とか「駆け引き」として言っているのであればまだしも(それでも受け容れられない)、どうも主張している者も本当に正論だと思っているのなら、「身勝手」というよりは「頭が悪い」に違いなかろうと思われる。僕は、学生時代からこのように思っていた。


 国家運営や企業運営やその他の社会活動の最中では、現実的には「締め切り」のようなものがある事案が多いはずだが、「徹底的議論」を要求する諸君は自分だけでなく国家運営や社会活動の責任者である相手にも「責任放棄」を強要することだ。どこかで取り敢えずは決めなくてはならない。決めたことも、次の実情に合わなくなったら、また変えることができる。数学の解と違って、もともと正解など人智の及ぶところではないはずだ。

 



 

2018年1月13日土曜日

意味論的国語辞典「人の命は地球より重い」


「人の命は地球より重い」「二十世紀の最大の妄言」


 


  

 昭和52年9月に、ダッカ日航機ハイジャック事件があった。「日本赤軍」と自称していた若者が乗客を人質にして収監されているメンバーの釈放を要求した。時の日本の首相の福田赳夫が、「人の命は地球より重い」と言って、超法規的措置として受け容れた。

 誰がこの時に首相だったとしても、苦渋に満ちた判断をしなければならなかったし、要求を呑む」のも「要求を拒絶する」のどちらが正しいとも断言が難しいと思われる。このことの後日談やその後の内外の評価につてはここでの関心ごとではないが、先進西欧諸国の行動指針の観点からは、どちらかといえば「その場限りの軟弱な対応」であったとの批判の論調の方が大きかったと記憶している。

 当時の僕は、この報道を知って、一つだけ大間違いをしていると思った。「人の命は地球より重い」という発言だ。要求を呑んで罪人を釈放したことは「仕方がない」という考えもあると思った。この言葉は福田氏の言葉としてあまりにも有名だが、多分、それ以前に欧米の誰かがどこかで発言していたのだろう。まあいえば、ありふれたような言葉のようでもある。それを福田氏は苦渋の決断の際に、「何とかご理解を」という気持ちでこの言葉を適用したのだろう。「私も苦しんでいます。私は結果的にはこの措置がよりベターな策だったと認められることを祈っています。この重い責任は私一人にあります」とかなんとか言えば良かったのだと思う。

 しかし、福田氏は、この名言?を表明して措置を決めたのである。形としては「胸を張った」発言だ。これは、大嘘である。

 この頃、日本の交通事故の死亡者が年間で一万人を超えていた。「人の命が地球よりも重い」のであれば、国が自動車の運行を認めるべきではない。一国における国民生活の支援や指導を考えると、現実的にはたとえ年間数千人以上の死亡者が統計上で確定的に発生するとしても、自動車の運行の禁止は少なくとも今や非現実的だ。そうすると、個々の人の命はそんなに重いという扱いを受けていないことになる。僕は、この現実を批判しているのではなく、現実容認的に思っている。こういう事例が無数にあることは、この一例の提示だけで容易に想像できると思われる。同様の事例を列挙するという試みは一般意味論の演習の場となるように思われる。

 なお、「人の命」といっても、そのコンテクストが、①特定の人や人々に係わること  vs 不特定の人や人々に係わること、②不特定の人々のことであっても、数人程度の少数のコミュニティ vs 一億人もの構成員が居るという国という違いによって、現実的な扱いが違ってきても不思議ではないと思われる。ダッカ事件の場合は、特定されたある程度多数の人々が対象であったので、大変に難儀な事案であった。

 以上のようなことを考慮したうえでも、僕は、この発言が二十世紀の最大の妄言と言っておきたい。こういう類の言葉は現実の社会的な場面の中では使わない方がよいと思う。たとえ、個人的にそのように感じていてもである。言った途端から、その場の思考と議論の機能が停止してしまう。このことは、ある言葉を「タブー」とするとか、「ヘイト言葉」として使用不可能にしてしまう態度によっても起こることがある。



ブログを開始するにあたって

   

僕は自分を意味論者として勝手に自認している。意味論はもうひとつのイデオロギーではない。一般意味論というものは、信仰や思想ではなくて、技術の範疇にあるものだ。ただ、必然的にイデオロギーの言語的な問題点を認識して、それを排さないと健全な認識に至らないということになる。どちらかといえば、「是々非々」とは共存しやすい態度だと思っている。

また、幸福と不幸に関すること、健康に関すること、福祉に関すること、男女の間の特質や権利に関すること、などのように普通生活から社会学的な分野に至る非政治的な事柄においても、準イデオロギー的な風土が増殖していると感じている。これは、真の知性主義ではない似非知性主義が最近の日本で増殖してきたことに一因があると思っている。僕は反知主義ならぬ反似非知性主義という議論を、早晩するだろうと思っている。

 ただ、意味論的な思考をすると、政治的には、あるイッシューにおいては、左翼を批判することに至ることもあるし、別のイッシューにおいては右翼を批判することに至ることもある。だからといって、最初からいずれかのイデオロギーに呪縛されるものではない。そうなれば、意味論の存在価値はなくなる。

 以前から、日々の身の回りの出来事やマスコミ・雑誌・ネットに接して、意味論的観点を中心に思うことがあったので、このブログで表したいと思う。(➔意味論ノート)。特に意味論的ともいえないような感想も書きたいと思うかもしれない。(➔雑感ノート) 

 それと並行して、自分なりの言葉の辞典を書いてみようと思う。一年前ほどから既にメモしているものがあるので、書き始めてみる。「広辞苑」という立派な言葉を流用したが、言葉だけでなく、文節の場合も、諺のような文章の場合も対象にすることも予想されるので、不適切な流用であることは自覚している。(➔意味論的広辞苑)(注)意味論的国語辞典に表記を変更した(2018.11.17)

 

 「What's  一般意味論 ?」という肝腎なことについて書こうと思っても、実は、1冊の書物(注)の紹介以上のことは僕にはできない。この書物が書店の棚にあるのを見つけたのは、多分、大学院を修了した頃のことらしい。機会があれば、後日のブログで触れてみたい。また、ここで散々イデオロギーという語彙を用いたので、「意味論的広辞苑」で説明しないといけなくなった。「左翼」とか「右翼」とかいう」語彙も定義不詳のままで自分の都合の良いように恣意的に用いることは、一般意味論の立場としては避けなければならい。そうすると、一つのことを書くと、どんどん書き続ける流れになる。ネットサーフィンならぬ記述サーフィンとなる。ただ、エネルギーが切れたら終わってしまう。

(注)S..ハヤカワ「思考と行動における言語」大久保忠利訳、岩波現代叢書(1978)

    Language in thought and action by S.I. Hayakawa (third edition, 1972)