2020年7月5日日曜日

Homo Maskus:日本人は「ホモ・マスクス」に変異している

僕は、ブログ「ヘルスコラムM」で、2003年に#24「マスクや手洗いの意義は場合によると思います」という記事を書いています。今読んでも、自分の中では通用する内容だと思っています。
 今度のコロナ禍に触発されて、このブログ「意味論コラムM」で、3月1日に「マスク着用についての雑感集」・「うがいについての雑感集」・「手洗いについての雑感集」の記事をまとめて書きました。
 これらの記事を書いてから、もう4カ月も経ちました。現在の7月上旬の日本の時点での考えを書いておこうと思いました。

 僕は、ウイルス研究の専門家でもないし、感染症の研究者でもなく、遺伝子工学や抗体産生に関わる研究者でもありません。僕は意味論の実践者として、とりあえず「それがどうした」と言わせてもらおうと思います。今のコロナウイルス禍は疾病や医療のことであるとはいえ、当初から社会現象でもあります。こういう状況で一番困るのは、実地医療の経験の乏しい医学研究者ではないかと思います。限られた研究システムの中で一定標準のレベル以上の研究成果を発表されている研究者だったら、現在のコロナ禍への対処を正しく指南できるかといえば、そう単純ではないと思います。研究の多くはあくまでも「限られた研究システム」の条件の中で得られているものです。それがシステムの外の社会事象の中でストレートに適用できるとは限っていません。
 行政の諮問機関は、基礎研究者以外にも、実地医家や社会現象について熟知している人たちの意見をもっと参考にしないといけなかったと思います。 
 特に、日頃は一般の人々に馴染みのない領域の医学研究をしている人々は、自分の研究関連のことが世間の話題になりますと、自分の研究の意義を思い切り主張するというパターンがどうしても突出してくるように思われます。マスコミがこういう記事を不安や期待感を煽りながら書きまくるので、一般の人々は「話、百分の一」の心構えで対処する必要があると思います。「マスコミの医学記事のいい加減さ」については、別の機会に書いてみたいものですが、既に2004年に「ヘルスコラムM」#41「ガンの免疫療法も泥沼です」で少し書いています。

 さて、そういう僕は、来年は後期高齢者になる老いぼれであることを白状しておきます。昔から馬鹿なところが多いのですが、老化によるそれ以上の馬鹿の進行はまだないと思っています。
 大学時代の最初の7年くらいは、マウスを用いての基礎免疫の研究をしていました。「細胞性免疫における免疫調節機構」と「それにおよぼす免疫抑制剤の逆説的な免疫増強効果の解析」というのが研究内容でした。以前から、がん免疫などの領域においては、「免疫処置をすると、かえって免疫反応が抑制される」という現象が知られていました。それと裏腹に、「動物を免疫抑制剤で処置すると、かえって免疫反応が増強する場合があることが知られるようになっていました。こういう現象は、「意味論的思考」と親和性があり、「言葉」に単純に「騙されてはいけない」ということを示唆しています。今のコロナ騒動において、人間の作った「言葉」に目くらましを食らっているところがあるのだと思います。僕の仕事は、英国の「Nature」や米国の「the Journal of Experimental Medicine」という最上級の研究雑誌に数編掲載されました。
 その後は、肺・縦郭・胸壁の外科の専門医の生活になりました。20年近くは主に大学で肺外科医として活動しましたが、いろんな種類の肺炎や肺感染症の実地医療も担当しました。また、当時の自分たちの大学では開胸術の麻酔は肺外科医の中でローテーションだったので、麻酔や人工呼吸のエキスパートでもありました。
 そして、最後の有床診療所は数年前に辞めましたが、20数年間はその責任者として、呼吸器疾患や循環器疾患を含む民間の実地医療を頑張ってきました。「風邪や感冒」「インフルエンザ」「気道アレルギー」「喘息」「肺炎」などを広く受け持ちました、この診療所時代でも開胸術や人工呼吸器の使用もおこない、ニーズに応えることを心掛けてきました。
そして、なによりも、20歳代の後半に身につけた意味論的思考を行動や研究や医療の指針に置いてきました。
 この「ブログ」はこういうバックグラウンドのもとで書いています。

 さて、本題の「マスク」の話です。
 
 前から近付いてきた人が咳やくしゃみをしたら、僕の場合は(毎回ではありませんが)10数秒の間「息こらえ」をしてやり過ごしながら歩くことがあります。相手にはそうと判らない程度です。これは、咥え煙草をしながら歩いくる人への対応も同じことです。別に目くじらを立てなくても、自分の簡単な対応で対処できると思います。
 発病を引き起こす程度のウイルス量が、戸外で気道内に入ってくることは、高額の宝くじを引き当てるより稀に違いないと思われます。単に感染が生じる程度のウイルス量としてもあまり考えられないと思います。
 誰かの呼気気流をほぼそのままに近いパターンで吸入してしまうことは、戸外ではまずありえません。アッという間に拡散・希釈されてしまいます。放射線汚染物質を海洋投棄しても妥当であるという根拠と同じです。外海や外気のボリュームは無限大に近似しうるからです。愚劣な「安全より安心」ではなく、冷静な「安心より安全」であるべきです。それを導く立場であるべきなのが、行政の長であるし、諮問委員会に召集された科学者であるのだと思うのですが、しばしば、ポピュリズムに迎合して逆をいっているように思います。
 
 最近の僕もマスクを着用する場合があります。マスクを着用せずに店に入ると、他の客が明らかに嫌な顔をすることが予想される場合です。「嫌な顔をする人の方が合理的ではない」と僕は思う場合であっても、鬱陶しい事態は避けようということを優先することにしています。ただ、昨今の状況から、高齢者の診察などの時は、マスクをしておくこともケースバイケースであります。 

 つまり、大体のところ、マスクなどは徐々にやめる方向を考え出すべきだと思います。インフルエンザが流行っている時に人々はどの程度の注意を払っているかということを思い出して、せいぜい、その程度のマスク対応をするのでよいと思います。過度の対応は、結果的に精神の劣化をももたらすと思うのです。ただ、比較的にリスクの大きい地方や時期においては、マスクでの防衛が基本である場合はあるとは思っています。

 香港の騒動でも、中共当局はマスクでデモ行進されることを嫌がっていました。最近見た「水戸黄門」のドラマでも、2組の侍同士が刀で斬り合っていた時に、善人の方を助けて悪者を成敗した後で、善人の方から「あっちの方が悪者とよく判りましたね?」という質問に、「覆面している方が悪いと思ったのです」という遣り取りがありました。マスクや覆面は相手に自分の素性を隠すという大きい一面が現にあるのです。マスク着用は、個々に応対する相手に対しては非常に失礼な態度です。
 また、以前、米国の首都ワシントンの郊外にある国立衛生研究所(NIH)に留学していた時のことですが、街の中のひとけの少ない道を歩いている時に前から知らない人がすれ違う場合、しばしば、「ヤア」という声を掛けあったり、手だけで挨拶しあったりすることが多いことを経験しました。僕も、そういう真似をするようにしていました。「僕はお前に危害を与える者ではない」とか「好意的な者だ」というサインを交わしていると教わったことがありました。単一文化の日本との極にある国だなあと思ったものです。こういう米国だから、やはりマスクはなかなか難しいのだと僕は思っています。マスクをしている者は警戒すべき相手なのです。
 香港の話は、僕は中共当局の方をそもそも支持してはいないことを表明しておくことに留どめておきます。一般的には、マスクとか覆面とかいうものは、人間生活の中で特別な対応である」という認識を持ってほしいと僕は思います。合理的に意味のある時以外はマスクをすべきではないと思います。
 特に、昨今、戸外や歩道でほとんどの人々がマスクをして歩いている光景は「異様」です。今回のコロナ騒動で、こういう事態が日常的になってしまうことが、人間の精神を劣化させていることでもあるのです。もともと、例えば西欧の旅行者が東京に来ると、マスクをして道を歩いている日本人が多いことにインプレッションを受けるようです。東洋の中でも特に日本人だけの特徴のようです。
 既に、日本人は、ホモ・サピエンスからホモ・マスクスに進化(退化?)しつつあったのですが、今回のコロナ後にその進化の固定化が進み、異様な民族になっていく危惧を感じるのです。

 ところで、やっと最近になって、西欧諸国が「何故、日本ではコロナ重症者が少なくて済んだか?」と気付き始めています。この話の前に強調しておきたいことは、いろんな識者や専門家や巷間の人々や僕自身が、その理由を列挙するにしても、そのいずれもが早々に科学的に証明される可能性は少ないと思います。もちろん、僕も含めて、真面目にその理由を考えるのですが、「言いたい放題」の状態に留どまっているのです。個々の断片的なデーターでもって多くのことを語って、早々に政策に反映することは賢明ではないと思います。
 この中で、一つの説は東洋人説ですね。日本だけでなく、台湾も韓国も被害は少ないからということです。その中でも、遺伝子説もあり、また、変異前のコロナウイルスとの遭遇が日頃から多いのだろうということからの交差免疫機序による集団免疫説もあるようです。その他、BCGワクチン効果説もありました。

 その流れで話は脱線しますが、コロナのウイルスが大便に非常に多く検出されているというデーターを示して、コロナにおいてもマスクよりも手洗いの方が重要であると主張する学者が国外にいるようです。僕がすぐに思ったことは以下のことです。このウイルスとの遭遇や感染の場が腸管経路の方がたとえ優勢だとしても、発病の仕方も重症化の臓器も気管支や肺が中心のようなので、僕は、手洗いの方がマスクより重要だとは思わないのです。発病臓器が腸管であるノロウイルスやブドウ球菌とは違うと思うのです。コロナウイルスの腸管への侵入は、かえって発病をバイパスした感染(つまり適当な免疫)という形になる場合を考えるのです。もちろん、僕のこのストーリーは単なる思い付き以上のものではありません。専門的な証拠の切り売りをしても結論はなかなか出るものではないということを、こじつけ的な物語で示したかったのです。証拠を得るにはしばしば時間を要することを念頭に置かなくてはなりません。
 なお、手指、口腔粘膜、気道粘膜、肺、というウイルスの侵入経路は、僕もあると思います。しかし、飛沫から気流に乗って気道粘膜の深部にまで侵入するウイルス量と比べると非常に少ないことは間違いがないと思います。なお、冒頭に示した「ヘルスコラムM}の中で書いていますが、ウイルスがたとえば10匹くらい入っても感染自体さえ成立しなくて、まして発病などしないのです。

 閑話休題。日本のコロナの重症化が少ないことへの理由の話に戻りますが、その中でも、この日本に特徴的なマスクの効用を挙げることが、内外の論評の中で多くなっています。いかにもそれらしいように思われます。しかし、僕は、マスクという限定的なことよりも、日本人の貧富の差が非常に少ないこと、日本人の栄養状態が良い意味で均一的であり超肥満もるい痩も少ないこと、特に衛生面での貧富の差が極めて少なく、受けられる医療レベルが貧乏な人でも外国に比べて高い水準であること、特に、現実的には高齢者にも十分な対応がなされている国柄である、などにその真の理由があると思われます。僕は、深く想像力を働かせても、マスク自体の効能は状況によっては重要だと思いますが、全般的には皆さんが思うほどはないものと思います。
 「狭い室内でのこの状況では気持ち悪いからマスクをしておこう」とか、「高齢者や全身状態の悪い人のところではマスクをしておいてあげよう」とか、「感染症で治療中の人に近づく必要のある時はマスクをしておこう」という判断をする時以外はマスクや覆面のような「おかしなもの」はやめておこうかなという知性を持つべきだと思います。別の言い方をしますと、「マスクをするという自己選択をした」時にだけマスクをするのであって、「普通にマスクをしておきましょう」というのは、見た面も精神の内面も、素晴らしいものではないと思います。

 今の時点の日本におけるマスク現状の批判を付け加えておきます。先ずは、識者・医学者・政府などが、それなりの、あるいは多少の、根拠に基づいてマスクを勧めているのであります(その根拠も確定的なものでは決してない)。しかし、その後の状態は、むしろ一般国民の多くが、「マスクをすることが良いのに決まっている」と無批判ないし無分別に思い込んでいると思われますし、いわゆる「監視国家」的にマスクをしない他人を批判する雰囲気も広まっているように思われます。「監視」をしている側の人の判断力の方がおかしい場合もあるかも知れないという考えは全くないようです。
 日本では、年間数千人の交通事故死亡者が出ます。僕たちの若い頃は1万人を超していました。人々は毎日外出するときに「今日は交通事故に遭うかもしれない」と思って出かける人は少ないでしょう。1万人でもそれが自分に当たることは1億人の日本では稀なのです。戸外でコロナウイルスが気道内に入ってきて発病するなどということは稀過ぎることが判らない程度の知性なのだということです。
 「稀過ぎるとしても、ゼロでなければ納得しない」という人がいたとしたら、「そもそも、人生でゼロか百かというのはないのだ」ということを教えたいのですが、そういう人の耳には入らないでしょう。そして、これは個人の考えの自由であるから、僕も仕方がないことは判っています。ただ、こういう理性の乏しい考えを行政の指針に反映させてはいけないと思います。
 「完全に安全でいたい」というような、どうしても「勝ち組」の方に入りたいという感じが、昭和が去って次第に増えてきたように感じます。まあ、日本も実際は貧乏生活ではなくなり過ぎてきたことや「しなければならないことが自分ではわからなくなった」ことと裏腹なのだと僕は感じています。「明日の生活のためには今日を働いておかないと」というような、考えによっては至極当たり前の人々にはありえない考えだと思うのです。考え方が贅沢になり過ぎるように洗脳されてしまっているように感じます。

 日本のマスコミをほぼ信用していない僕はユーチューブをよく見ます。対談や数名の発言者がいる場面で、昨今ではみんなマスクを着用しています。マスコミの似非文化を批判しているまさにそういう番組でもマスクをしたり、透明プラスチックで出席者同士を隔離しているのが普通のようです。不特定多数ではないこういう状況で、一体全体誰から誰に感染することを想定しているのだろうと不思議です。こういうポピュリズム的な対応はケースバイケースでやめていって欲しいと思います。
 その無思考さが端的に判るのは、家族同士のようなのが2人で車に乗っている時に、二人ともマスクを付けているのです。対向車にそういうのを高頻度で見ます。「誰から誰に感染することを想定しているのか」と問いたいです。僕には「間抜け」にしか見えません。しかも、車は窓を締め切ったままです。やはり、「間抜け」なのです。マスコミ・似非文化人、精神の劣化、間抜けな行動、となり、そして、無意識的ではありますが、「個人主義的」パターンになっています。「夫か妻かどちらかが助かろう」という極限の難事の状況でもあるまいし、やはり、「間抜け」だと思います。 

 さて、人が病原菌と出会う場合のカテゴリーにおける医学上のイロハとして、「感染」と「発病」とは違うのです。ここで説明することは僕には難しいのですが、皆さんは、ウィキペディアなどで「感染」と「発病」を検索してください。単に人が病原菌と「遭遇」の程度はしたけれど、「感染」までは至っていないという場合もあります。
 「感染」の段階では、ある程度の病原菌の数があり、多少は当初の粘膜での増殖があったりで、生体側も多少の防御反応の発動があったりした相互作用が多少ともあるということでしょう。その結果、早々に排除してしまった場合は「感染」だけで終わってしまいます。その結果で得られる免疫能については、「免疫はほとんど得られなかった」から「強力な免疫が残った」までのいろんなパターになるでしょう。これも決定論ではないのです(個人差や状況の差がある)。
 そして、「感染者数」(実は、PCR検査の陽性者数)だけを新聞紙上やテレビ画面で示しても、その意味するところが曖昧過ぎるのではないかと思われるのです。「軽症発病者数」も結果的には通常の風邪のようなことで大したことではありません。「重症発病者数」や「関連死亡者数」を重点的に表示することにとどめるべきだと思います。「PCR検査の陽性者数」だけを載せてポピュリズムを煽るべきではありません。マスコミとそれに引きずられた行政がパニックを作っているのです。
 感染者数が急激に爆発することを阻止したいということは「まあ」妥当な判断のようにも思いますが、徐々に少しずつ感染者が増えていくことは自然の成り行きで、それは望まれる方向なのです。大多数の国民をそのウイルスから永続的に隔離し続けるということは無理でもあり、いつまでも免疫の得られない大きい集団を抱えるということで、それ自身大きいリスクなのです。この方針を続けることが結果的に正解である場合は、そうこうして時間稼ぎをしている間に優秀なワクチンが利用できるようになる場合か、そうこうしている間に日本国内のウイルスが消失した場合だと思います。前者は実質上今年中では解決しないだろうし、後者は長期間にわたって鎖国しておかないと大きいリスクを抱え続けていることになります。
 だから、半年も経過した現在では、感染者は少しずつ増えた方が自然だし望まれることなのだと思います。しかし、最近でも、「東京で百人を超す感染者が増えた」と言って騒いでいるのです。東京で数百人というのは「少ない」と思わないといけない。しかも、陽性数が増えたと言っておきながら、ロックダウン以前の検査実施者の母集団の数とは同じではなくて、比較ができない初歩的な間違いの報道をおこなっているのです。

 感染陽性とか陰性とか言ってはいますが、その実際のことはそんなに単純ではないのです。日本では、PCR検査をしている大部分は、風邪ないし肺炎に相当する可能性がある有症状の人の一部が対象者です(陽性者と接触した無症状の人も検査の対象になっているらしいことは別として)。そうすると、陽性と判定された人は「単なる感染者」ではなく、直ちに「発病者」ということになります。ところが真実はさらに別にあることもあります。こういう有症状の人々が沢山いますと、確率的にはコロナではない人がもともと多いはずです。毎年、風邪症候群は多いからです。そこで、コロナ陽性の判定が出ても、実は「その人のコロナ陽性は単に感染した最近の歴史を語っているだけで、実は、別の病原菌の発病か、あるいは普通の風邪症候群なのである」ということも、実際は少なくないことが考えられます。もともと、細菌同士やウイルス同士の混合感染やウイルスと細菌の混合感染ということはしばしば存在することは知られたことです。
 しかも、現在のPCR検査の感度がせいぜい7~8割で特異度が9割強であり、当然のごとく十割の信頼度ではないし、さらに、「陽性」であっても、それは「発病」を起こす程度のものか「感染」で終わる程度のものかまでは判りません。しかし、このことは適切な免疫が成立するかどうかに関係することであり、「陽性」が困ったことと限ったことでもないはずです。このことは、抗体検査においても同じような曖昧さが残ります。
 さらに、先週は「陰性」でも今週は「陽性」のこともあるはずだし、じゃあ、検査を何度すればよいのかとか、・・・・・、曖昧なことが非常に多いのです。
 ついでに言えば、「新型コロナでは無症状の人でも他人に感染させる能力がある」ということを報道からよく聞きますが、僕は、これはそうであることに疑問を持つのではありません。「だから、気を付けなくてはならない」というのも疑問はありません。しかし、読者を怖がらせていることに重点が行き過ぎていると思います。「感染しても発病しない人が多い」という別の側面の事実をもって多少の安心を持たせる報道は決してしないのです。「不安を煽ってなんぼ」の姿勢を貫いています。

 もう少し経ったら、良い検査が開発されて、有効な治療薬が出てくることを期待させる記事が多いですが、これは特に、ユーチューブでも多いです。そういう開発への適切な努力は期待されるべきでしょうが、せいぜいは十数年の間に成立しているインフルエンザに対するものの程度であることが僕には予想されるのです。その検査や治療薬の精度や有効性は、実は大したことではないと僕は思うのです。期待させる記事を提供するのは、提供する研究所や会社なのだということを認識しないといけないと思います。ただ、そういう施設が必ずしも誇大宣伝をしようとしているとも限らないと思います。マスコミがそういう誇大宣伝的な書き方をしている場合が多いと思います。これは、僕の経験からの確信めいたものです。
 
 いまだに、マスクをしている人が多過ぎるのは、「規制を緩めたら、また感染者数が増えるだろう、とか、増えた」という報道が影響していると考えられ、人々がこの報道を無批判に受け入れているからです。
 ところでこのコロナ感染症においても、初期の頃、何かの音楽ライブ会場で感染が証明されたという報道がありました。以来、ライブなどの密集は避けようという流れが出来ました。その当初は、まあ妥当な考えだったとは思います。しかし、その当時でも、僕は「オヤッ」と思いました。そのライブでの認定感染者は一人でした。一人でも世間のインパクトは強かったようですが、あの密集した空間に汗や唾液が飛び交うライブで一人、あるいは数人程度であれば、感染力は非常に低いという見方もないとおかしいではないかということです。
 結局、普通の若者や壮年者ではせいぜいインフルエンザ程度の感染力しかなかったという想定もできたのです。高齢者や病人に対しては慎重な対応が妥当であったのでしょうが、学校の閉鎖もおかしな話だったと思います。(ただし、スウェーデンでは、高齢者の死亡が多いことは仕方がないということが一応のフォーマルな考えだという記事を読みました。そういう考えもあるいは成立するのです)。なお、子供の感染を抑えると、老人の発病者の抑制につながるという疫学データーが複数あるようですが、そうであっても、数か所の大都市圏の他には適用すべきではなかったと思います。
 
 今度のコロナ禍は全地球的には大問題の一つになったことは確かなようです。世界の多くの諸国は、貧富の差が非常に大きくて、生活環境や医療環境の悪い部分が大きいので、そういうことになっっているのだと、僕は思います。そうであれば、このことからも、日本は良きにせよ悪しきにせよ、もの凄く特殊な国であることを自分たちの頭で理解する必要があると思います。常に不安を募らせて成立している日本のマスコミ論調に騙されては間違うと思います。
 日本国内においてのコロナはインフルエンザに比較しうる程度の「悪性度」ですので、インフル並みの対応にすべきだったのではないかと、この3カ月の間思っていました。今後のいろんな領域での組織活動の破綻や経済の停滞は、マスコミ・政府・民衆による「人災」だと思います。民衆の責任性については戦後長らく似非文化人やマスコミに洗脳されて、精神が劣化して相互監視の雰囲気を作っている当事者の一員でもあるということです。これにより、罪もないはずの飲食店の経営者や店員をはじめ、多くの職種に不幸を与えたのに等しいのではないでしょうか。

 スポーツの大会もほとんどが延期ないし中止となっています。オリンピックは他国の問題があるので延期は仕方がないところでしょうが、国内のスポーツは開催してもよかったのではないかと僕は思います。甲子園野球の大会も中止になりました。最悪でも、応援団だけ、または部員だけが球場に入るパターンで開催もできたはずです(僕個人は、大手マスコミが高校野球だけをエコひいきするので、子供の頃には大好きだった甲子園大会は今では絶対に見ません)。そして、テレビ放映をしておくという選択があったように思います。他のスポーツも右になれで中止となりました。最近、プロ野球とプロサッカーが無観客試合で始まりましたが、これなら開幕を延期することもなかったはずです。前述の音楽ライブでも大した集団感染がなかったともいえますので、スポーツ大会も観客の定員を多少減らしての通常の開催もありえたと僕は思っています。世界の強豪になったバドミントンは今年の試合は中止だということですが、やはり「人災」のように思います。ひとの人生をどう思っているのかと僕は言いたいです。

 開催されたプロ野球を数日前にテレビでチラッと見ました。ベンチの選手や監督はマスクを着用していました。やはり、僕には、異様に見えました。本気なら、ベンチの前に椅子を並べてそこに坐り、(そこは戸外であるので)マスク着用はやめたらよいと僕は思いました。僕なら、その時点でその集団にウイルス陽性の者が明らかでなければ、ベンチでもマスクはしないでよいと思います。
 僕が理解できることとして、何故、こういう厳しすぎる自己規制をするのかと言えば、それは、今のコロナ感染においては、一人でもウイルス陽性者が検出されると、その集団がロックアウト的状態にさせられてしまうという、大きい影響が及ぶからでしょう。インフルエンザの場合は、その陽性者だけを退去してもらって、残りの集団はそのままというマイルドな対応をしているのです。僕は、ずっと、基本的にはこういうマイルだな対応をしておけばよかったのにと思っているのです。多少は、コロナによる犠牲者が増えたことは推定できますが、社会全体の被害はこちらの方が遥かに少なかったことを想像するのであり、加えていえば、1年間という長いスパンでのコロナ被害者数の収支決算ではどうなっていたかは断定できないかもしれないと思うからです。

 スポーツで思い出しましたが、僕の生活圏にはみんながランニングをしたり、子供を遊ばせている広い多機能運動公園があるのですが、ランニングしている人も親子で遊びに来ている人たちも、大半がマスクをしているのです。「異様」な景色です。こんな広い野外でマスクしている人に至っては「間抜け」という他はありません。走っている人に至っては信じ難い光景です。

 ところで、インフルエンザでも年間1千万人以上の感染者とされている人が検出されています。そして、時々は学級閉鎖や職場閉鎖くらいの対応がなされています。そういうシーズンの最中であっても超過密の山手線が稼働し続けています。この事実は、他のユーチューブの記事で教えてもらいました。僕も「ああ、そうか」と気付きました。物凄い状況とは思いませんか。それでも昨年までは全員が車内でマスクをしていたわけでもなかったはずです。インフルエンザの感染力はかなりの強さと認識されているのです。この山手線はインフルエンザのワクチンがまだ整っていなかった時にも同じように超過密でした。
 あるウイルス研究者(宮沢孝幸・京大准教授)の意見では、車内で大声でしゃべったり咳をしたりでなく、普通の呼吸だけではそんなに感染しないだろうということでした。ただ、マスクはしておいた方がよい前提の考えのようでしたが、ドアが数分ごとに開閉するので、基本的にはそんなに感染するものではないということでした。ただ、百パーセントの保証を求めるのであれば、それはないということでした。百パーセントを要求する方が現実的でないことは自明だと僕も思います。僕は、この先生の考えは妥当なものだと思っています。基礎学問における知見に加えて、実際の社会の実態への的確な想像力を兼ね備えている方の人だと思いました。多分、マスコミにおいては厄介な発言者の扱いになるでしょう。

 以上のことをつらつら書いていますと、今の日本におけるコロナ対応におけるパニクリ方は、ホモ・サピエンスから判断力などの精神が退化しつつある現象を示しているように僕には思えるのです。ホモ・マスクスにならんとしています。
 そういえば、日本民族においては、昭和の後期からか、もともとの「清潔好き過ぎオタク」に加えて「抗菌繊維」という物も出回ったりしました。僕は、二つのことを思うのです。一つには精神的に贅沢になり過ぎたことです。そして、実際に、多数の平均的な日本人の生活は贅沢が許されるようになってきたのだなあということです。二つには細菌やウイルスとの共生で僕たちのエコロジーが保たれているのに、清潔好きになり過ぎると、それが壊れたり、抵抗力が弱体化したりするという想像力が欠如しているということです。他の領域とのバランスがとれた対応を模索する考え方が適切だと思うのです。
 「健康オタク」や「清潔好きオタク」から脱却した方がよいと思います。この点においては、まあ、日本人と米国人を足して2で割ったくらいでよいのではないでしょうか。

(7月8日に全体を読み直して、多少の訂正・加筆をしました)
 (このブログ内容は、7月18日にユーチューブにあげました)https://www.youtube.com/watch?v=V4MyhM3N50E

 追記(8月29日:最近の新聞記事に韓国在住の日本人の報告のようなものが載っていた。現在の韓国では、マスクをしていないと知らない人に殴られてしまうこともありうるらしい。歴史的に韓国は周囲の人々との関係が日本以上に濃厚らしい。ホモ・マスクスへの進化(退化)につては、日本は韓国に勝てないようだ。また、日本とは進化の経路が多少違うと思う。