2018年9月19日水曜日

180919意味論的国語辞典「国際」


国際: ①国と国との際(きわ)とか縁(ふち)のことで、外国との情報のやりとりが行
     れる界面のこと

    ②国際的ということは(比較的まともな国の)国内的なことにに比べて面倒な
     ことが基本であり、倫理的にはより価値が低い事態になるのが一般的である

 広辞苑には「国際」という箇所には膨大な記述をしているが、その定義は「諸国家・諸国民に関係すること」という非常に短いものだった。「international」を明治時代の賢人が「国際」と和訳したのだろう。「world」は「世界」と訳すが、world expositionは万国博覧会と訳している。同じものを universal exposition とされることがあるが、この場合は国際博覧会と訳している。「universal」自体の意味が幅広くあいまいだ。
その後(戦後の比較的最近)に「国際性」「国際化」とかいう言葉がよく使われるようになった。なかでも「国際性のある人」と「国際性のない人」などの言葉から感じるように、「国際性」という言葉は価値の高い方の概念であるように受け取られることが普通になっているように思われる。そのためかどうか判らないが、「国際」という言葉自体が価値の高い方の言葉のように受け取られることが普通の現代日本の状況と僕には思われる。
結論を先に述べると、こういう大いなる誤謬を我が国の似非知識人やマスコミがしていることが、今の日本国が対外的に幼稚な対応しかできない原因だと、僕が気付いてからすでに長い。「国際」という界面において、良い文化が隣の国から入ってくることもあるし、援助があることもある。しかし、依って立つ歴史も価値観その他も異なる主権国家同士のやり取りは面倒なことが圧倒的に多い。すなわち、「国際的」ということは「国内的」に比べてうんと「面倒な関係」が基本ということだ。以下にの述べるように、国際的(international)は国内的(domestic)に比べて倫理的には価値が低くなる構造になっていることを忘れてはならないと思われる。

成員の少ない順に階層を並べてみると、個人<家族<隣近所<地方公共団体<国家<世界となる。家族<親戚とか、個人<会社の同僚とか、個人<知り合いとか、国家<同盟国・経済共同体とかの別筋や中間階層もあるだろうが、まあ、上記の6つの階層でよいことにしよう。「個人」でもジキルとハイドが同居することもあるが、ここでは個人の話はしない。
「家族」でも紛争がないとは言えない。表面化する紛争(喧嘩・葛藤)の頻度は一番多いかもしれない。その原因は、密に接している時間が多いことが根本原因だろうが、もともと家族の絆があることが多いから(功利的に考えても、かなりの面でその時点での運命共同体でもある)、大喧嘩の翌日でも元の鞘に戻っていることが多い(何時もそうではないが)。そういうことから、紛争を遠慮なく言動に表してしまうので、その頻度が多いのでもあろう。
「隣近所」になると、早速、土地の境界線の紛争がありうる。これがあれば実際かなり面倒になる。夜間うるさい・犬がうるさい・隣組の遂行のやり方やゴミ出しの不満など、いろいろ出てくる。なるだけ表立った紛争は避けたいので、かなりの部分で慢性の我慢があったりする。稀には怒鳴り込みに来られたり、もっと稀には殺傷行為に来られたりすることもある(家族でもあるけれど)。ただ、「家族」から「国家」までの国内問題においては、基本的には国家権力が存在するので、比較的まともな国家では最終的には法律に則っての紛争への介入がなされる。介入可能な国家権力には優勢なphysical power(物理的腕力あるいは武力、これを暴力装置と訳して悪いものと決めつけてはいけない)があるので、強制的に始末を付けることが可能になる。この強制力が肝要点だ。

こうした「国内」とはまるで異なり、「国際」の方は「国家」という成員に対する優勢なphysical powerがない。だから、一部の成員はしたい放題が可能になる。先ず、「世界政府」というのが存在しない。国際連合というのは「寄合組織」であるし、拒否権を持っている5大国の恣意次第である。つまり、国家の階層の真の上位階層がない。仮に「国連軍」という軍隊が作られても、それは一国の今の米軍より優勢ではない。また、国連という代物は、現実には、現時点での唯一ともいえる軍事超大国の米国や、軍事大国の中華人民共和国や、ロシア、英、仏などが世界を牛耳っている。これは第二次世界大戦戦勝国の権力を維持する体制なのだ。加えて、国連の中での賄賂や利益相反の取引が横行している。国連にかかわる多くの会合や交渉はこういう力学の中で行われるので、戦後出来上がっている国際的な取り決めは、比較的まともな国の国内法に比べては、法制上も倫理上も不十分過ぎる代物でしかない。ユニセフも我が国に対して理不尽な議論がなされること久しい。これに対して、外交的に幼稚な我が国は負担金を出さないとか脱退するかもしれないという駆け引きが全くできていない(脱退しない意向の時こそ、こういうアドバルーンを上げないといけない)。「国際的」な地平から見れば、これは「世界基準」とは大きくかけ離れており、我が国の精神の幼児性を露呈している。そして他国から軽く見られていることから、さらにチョッカイを出し続けられて国益を損なっている。「国際なんとか」の多くは実はいい加減であることに何故思いがいかないのだろう。「国連第一主義」を主張するような人物は国際政治家の資質がないと思われる。

「国際的」ということの現在的な実態の肝要点を一国内の比喩でもって例えると、警察の物理的な武力より、ある暴力団の武力のほうが優勢である状態となる。今の日本ではそうではないが、ある時期の中南米の国の麻薬組織などはそうであって、そういう国では混乱と不安の中で住民は生きている。そういう状況と、現在の国際状況は異なることなどない。
「国際的」な事案には人権のことやいろいろな重要な事柄があるのだが、古代から現代に至るまで変わらずに一番重要なことは領土問題である(衣食住という生存権の観点からすると、領土と食料や水)。これは民族にとって簡単に譲れることではないので、しばしば戦争に直結してきた。僕は今までに隣人同士の間の土地境界係争の卑近な例を複数知っているが、お互いにそれなりに普通の市民であっても、通常は一センチメーターでも簡単には譲りはしない。土地境界問題は正当な自己主張のイロハのイなのだ。国内では、こういう係争は最終的には個人より上位階層の司法による解決に委ねることが可能だ。

「竹島問題」や「尖閣諸島問題」を起こしている韓国や中共に対して、少なくとも言論において厳しい批判をしないマスコミはどこの国のマスコミかと問いたい。そういうマスコミは日本の現体制から法的な目に余る優遇処遇を受けておきながら、その代表する政府に対して多少の貢献をするどころか、政府を貶めて相手国の付け入る機会を意図していると思えるほど与えている。最近の経団連の動きを見ていると、我が国の歴史上の特異時点だと思われる現時点においてさえ新たな中共への資本提携や韓国への投資を進めようとする勢力があるらしい。戦後の長い間にわたって内外の人権無視をあからさまにしてきた全体主義の中共がいよいよ息詰まってきた可能性のある時に、その体制維持を手助けしようとする経団連には倫理などないのだろう。また、国益より企業レベルの刹那の金儲けが大事なのだろう。連綿と築き上げている貴重な我が国の科学・生産技術のノウハウをどれくらい盗まれたら反省するのだろう。政府や官僚はマスコミ攻撃に対して正論を展開する勇気を持たず、経団連への指導もできずにこれまた国益を損ねている。いや、永らく幼稚なイデオロギー教育を受けた官僚や自民党議員の多くは、いまだに親中共が席捲しているらしい。一部はそうでもなくて、ハニートラップのようなことで雁字搦めになっているらしいという意見もある。
 韓国とのスワップはしてはならないと思われる。その理由は、幾重に及ぶ韓国からの理不尽な攻撃を受けている最中のそれは外交上の幼児性の表明だからであり、国民として恥ずかしくて耐えられない。韓国については、基本的に付き合わない(実際は、必要最低限度に付き合う)ことが我が国にとって生理的に正しいことだと僕は思う。韓国にとっても精神の変調(本当は異常と言いたいが、抑制しておく)から「我に返る」機会が得られるかもしれない。それを期待したい。

 市民生活においても、隣人との間にはいろいろ事が起こりうるが、百軒先の住民との事は起こりにくい。直ぐ近くだから紛争が起こりやすい。「隣国だから仲良くしましょう」は素晴らしいが、実際は「隣国だからいろいろ起こる」のが現実だ。そこで肝要なのは、「仲良くすることを優先する」と表明してはならないということだ。内心、「仲良したい」と思っている時こそ、そう表明してはならない。逆に、「絶対に仲良くしないぞ」と思っている時にこそ、時々は「友好第一だ」などと言っておく。これこそ、国際的に成熟した対応なのだ。中共は以前我が国にそういうことをよく表明していた。この点からすると、中共は国際外交的にはある種の常識国家だが、戦後の日本は非常識国家であり続けてきた。
 「絶対に仲良くしたい」を最優先する側が政治的には負けるに決まっているということは、卑近な日常生活での係争を具体的にシミュレーションすると子供でも分かるような話だ。日常で車同士が衝突事故を起こした場合に、「先に謝るな」というのが「イロハのイ」になっているようだ。権利・義務の生じる案件では、自身の正当な主張は一応は貫徹しようということは必要だと思われている。ただ僕自身は、交通事故の際のこういう態度はよろしくないと思っている。自分が悪いと思った時は、それを述べておくことは道徳的には良いことだと思うし、日本国内ではそれで構わない(国際的ではないから)と思っている。