2020年12月7日月曜日

意味論的国語辞典 「極左」と「極右」

 「意味論的国語辞典」というパターンは、本ブログの柱に位置付けて始めたが、「辞典」という以上は、それなりの水準の記載が求められるべきと自覚すれば、相当のエネルギーがないと書くことが難しいことに気付いた。それで、最初の5号を投稿した後は、2年以上もの間、このパターンでは書けなかった。しかし、左翼・右翼とか極左・極右とかの言葉をニュース媒体やネット媒体で見たりするごとに、一般意味論者の僕には引っ掛かりすぎていた。感情に訴えるためだけの使い方で、実際の内容の裏付けが伴っていない。次に、このパターンで書くならば、このテーマだと思っていた。

昨日3カ月ぶりにブログ(「日出づる国考M」)を書くことが出来る程度のエネルギーがでたので、勢いで書いてみようと思いたった。ただ、持続可能のために、以前よりはかなりなラフな記述の省エネで再開することにした。

 先ず、ウィキペディアで、左翼・右翼・極左・極右の4つのテーマについて閲覧して、知識の整理をさせてもらった。このウィキペディアや国語辞典やネット検索をすれば、今や誰にでもおおよその解説を読むことが出来るので、基本的な解説は繰り返さないことにした。このウィキペディアでは、もっともな理由で、説明が総覧的(いろんな説が羅列してある)で終わっている。国語辞典は役立たなかった。ネット検索の場合は、一般的に、飛んでいったサイト次第で、非常に密度の濃い解説や資料が得られることがある。ここでは、「極左」と「極右」だけに絞って述べてみたい。なお、ウィキベキアには非常に少額ながら数回寄付をさせてもらっていることを書いておきます。

 僕は、マスコミやネットや書籍の多くで、日本において、せいぜい、単に左翼・右翼と言っておけばよいものを、極左・極右と過激な言い方をすることを是としない。よく目見にするのは、「安倍政権は極右だ」「産経新聞は極右だ」というものだ。逆に「〇〇は極左だ」というのは、「〇〇は極右だ」というのに比べては少ないように思える。日本のマスコミ主導の言論界が「左寄り」だから、そういうことになっているように思っている。

 日本文化チャンネル桜を主宰している水島総のユーチューブを時々見ているが、安倍政権については、最初は期待していたのであるが最近の1~2年には相当の不満を募らせるようになった。左翼的な政策と思われる政策を結構採用しているという点だ。水島グループが極右かというと(そのように言及しているものがいることは承知しているが)、僕は至極まともなことを言っていると思うのである。じゃあ、僕も極右かということになる。形式的には、確かに、水掛け論の様相があるかに受け取られるかもしれないが、僕のこの数十年以上に変わりなく拠って立つところは「一般意味論的思考」と「生理学的知見に基づく思考」なので、このことは、必然的に「中庸」「中道」「そこそこ」「まあまあ」が正しい着地点だと,自分ではそのように任じている

 そういうことから、安倍政権はせいぜい「中道」なのです。水島グループの主張も、普通の「愛国者」なら至極まともな意見だろうと思う。余談だが、左巻きの人たちは「愛国」というのが右翼的だと定義しているようだ。愛国という重要な定義は別の機会に述べる必要性を感じる。

 大手新聞(朝日・毎日・読売・産経)の産経を極右という声も実によく聞く。僕は、最近はずっと地方新聞と産経新聞を購読してみて、内容の比較をしている。地方新聞は政治経済を担当する能力が乏しいので共同通信(左翼傾向が明確だ)などからの配信をそのまま垂れ流しているだけである。僕が2つの新聞を選んでいるのが、片や右寄りで片や左寄りだからだ。自然科学ではないので、議論の証拠提出というのは難しいが、結論的にいえば、上記の4新聞は列記した順に左翼から右翼の傾向になっている。しかし、日本以外の人間がこれらの新聞を読めば、朝日・毎日は明確に左翼で産経は中道と認定するであろう。日本には右翼の大手新聞など存在しないというのが真実なのだ。共同通信や東京新聞および中日新聞は朝日と良い勝負をしている左翼傾向の強いものだ。つまり、大方の地方新聞の政治欄は左翼の朝日新聞と良い勝負をしているくらいに左翼的だ。多くの住民はその認識がない。

 以上は、今回のテーマについての「まえがき」です。ここで述べたいのは「極」の意味であります。広辞苑では「極端な右(または左)翼思想(またはその人)と、いたって簡単だ。ウィキペディアを見ても、それぞれが「過激に」とか「急進的に」とかで説明してある。じゃあ、極端や過激とは何のことか?となる。過激ということを単純に考えると、一つには暴力行為や殺人行為まで辞さないということだと考えられる。これはその通りだと思われるが、これは解りやすすぎるし、本質的ではないと判断するので、これ以上の議論は止めておく。この行動様態と、根幹の理念やイデオロギー自身の過激性とは乖離している場合があるのだ。ここでは、根幹の理念における極端的な「極」について日頃考えてきたことを述べてみる。

 「右」であっても「左」であっても、歴史的に連綿と続いてきた自分たちの国(政権のことではなくて、国や国家、或いは民族の集団というほどのことである)というまとまりを「解消してしまおう」とか「破壊してしまおう」という考えがあれば、それは「極右」であり「極左」である、そういう定義付けをするのが本質を述べていることになると僕は考える。ウィキペディアにはこういう考えの紹介はなかったように思う。

やはり、国家を転覆させることがイデオロギー上で避けて通れない考えの集団は間違いなく「極右」か「極左」である。特に、政治的定義というものを仮に想定すると、この定義が最も本質に迫っていると思うのだ。しかるに、今の日本には「極右」はほぼ存在しない。左翼の人間が事実でもないのにマインドコントロールしやすいために用いる用語(悪態)に過ぎない。右翼の人間も同じように悪態として「極左」という用語を使いたがる。

歴史的には、ロシア革命に始まる社会主義革命は、最初は帝政ロシアを倒す行動であったかもしれないが、自然発生的か必然的か、革命の成果を世界に広げる運動につながっていった。もともと一部のユダヤ活動が黒幕(その考えでは、現在のディープステイトにつながっている)だということを考えると、その場合は必然的に個々の国家を転覆するという運動で、「極」認定である。まあ。常識的には「極左」の根本だ。この運動は「国民」という概念を拒否し、「世界市民」という概念を宣伝した。

しかるに、現在においては、超資本家の仲間内(金融・コンピューター関連・ネット関連・巨大産業など)で、国家の制限なしに、自分たちの利益追求だけが欲望化して結びついている集団がグローバリズム・世界標準などという方向を先導しようとしている。これは上述の社会主義運動という「極左」と比べて判りにくいが、僕には、同根であると思われる。国家を離れたい~国家を破壊したいからだ。これは、既に資本で世界を牛切っている連中が主導しているので「極右」というのか? しかし、今回の米大統領選でのバイデン陣営の大規模の不正事件(日本のマスコミではほとんど報道されていないが、この記事を書いている時点では、重層的な不正行為自体は客観的に証明されてしまった)は国際金融機関(ディープステイト)と中国共産党との共同作戦であることが大きい確率で認定された大事件である。「極左」と「極右」とは 対極ではないのである。すなわち、この本質は「極左」でも「極右」でもなく「極」なのである。この「極」の所以はイデオロギーそのものよりも、性格の「極」だと思うべきだとの議論は次節で触れてみる。この、集団の黒幕はユダヤ系のグローバリストだと指摘されている。ロシア革命の時も今回の選挙クデーターの時にもユダヤ民族の影が見えてくるのであるが、ユダヤ民族が全部そのような人たちと受け取るのは大きな間違いのようだ。たとえば、現在、イスラエルの国を経営していこうという国民の多くはグローバリストではないと思われる。そして、米国などに暮らしているユダヤ系の人々の多くはそういうことに関係はあまりないのだと僕は思う。

興味深いことには、ウィキペディアには、期せずして、「極左と極右の共通点」という項目を作ってあって、かなり詳しい記事が書いてあった。その最初の部分だけを引用させてもらう。・・・・・「極右と極左は、国家や社会が個人の権利に優越するという全体主義の面で、思想的・行動的に共通点が存在する。極左から極右への転向例もみられた」・・・・・

  僕は、以前から極左と極右は親和性があるという実例を複数見てきた。実は、普通程度の「左翼」や普通程度の「右翼」でもそういう相互転向は構造的になりやすい点があることも見てきたのだが、特に、極左と極右の相互転向は根源的にあることになるのだと思う。

 彼らに共通することは、ことは政治だけでなく、あらゆることにおいて、考え方(行動は過激とは限らない)が「過激」だということだ。本質的には「極」なのであり、別の言葉を使うと「短絡的」「独断的」「いろんな考え方があるということに考えがいかない」、それゆえ、「中庸や」、「そこそこ」という考えができないということだと僕は随分以前から気付いていた。すなわち、イデオロギー以前の問題が先にあり、これは本質的には「性格的事案」である。すなわち、個における「生理的基盤」の産物であると受け取ることが出来る。僕の拠って立つところの「一般意味論的思考」と「生理学的知見に基づく思考」の後者から導き出される結論である。

 

(まとめ)

「極左」「極右」の「極」は定義上、「国家転覆や国家消滅を辞さないことを内在または可能性を否定しないことを含む場合である」。そうでない場合は、極左とか極右とかの表現を軽々に使わないほうがよろしい。行動のことを指摘する場合は「過激集団」とか「暴力集団」との表現でよいと思われる。「極左」だけでなく、「極右」も、連綿とつながってきた民族の一員という意識から醸成されてくる「愛国心」とは相容れないものである。

 考え方が中庸であれば「いろんな考え方がありうる」という風な、ある種の内省的な性向があれば出てくるような考え方になるだろう、中庸な性格に乏しい人格はイデオロギーの内容如何にかかわらず(多少以上の相関関係はあるとしても)「極」に向いやすい。キャラクターの問題だと思われる。それ故、極左から極右が生じるのである。極右から極左も同じことだが、なんらかの理由でこちらの数は少ないようである。日本においての「極右」のイメージは、戦前における軍国主義・全体主義に係る言論や集団のことであり、戦後しばらくは暴力団ないし過激任侠が政治的領域に進出してくる場合のことであったように思われる。

しかしながら、冷静に受け取ると、戦後この半世紀においては、両方の勢力はほぼ完全に無力になっており、古典的な「極右」などの勢力は現在の日本には存在しないのだ。「極右」というラベル付けは、左翼の自己防御のための上手な修辞学なのである。

 

(付記)

現在の日本においては、GHQの戦後介入から始まって(米国からやってきたGHQ職員の過半数は社会主義シンパだったということだ。米国本国の民主党政権自体ががそういう状況だった。この風潮が酷すぎたので、その後、米国において議会の議員や職員に対する「赤狩り」が行われたのである。日本の政治文化において、この揺り戻しが行えなかったことが、今日の「世界の非常識の日本」につながっているのである)、東京大学(文化系)や大手の新聞社とNHK、彼らに教育や影響をうけた官僚・政治家、そしてそれ故、子供の教科書の内容に左翼的な偏向状態がもう半世紀以上も続いており、そのことが、世間の常識を左に偏向せしめているので、今の日本には、極右どころか右翼そのものが数的にほとんど存在しなくなったというのが、本当のところであろう。 日本は、伝統的に「お天道さま」(もちろん、それは、天皇ではない)をいただいている精神的には「中庸」に親和性の強い民族として続いてきたのであるから、イデオロギー一般には親和性のない民族のはずである。きれいごとの修辞学がとても優秀な左翼イデオロギーというスーパーエゴを伝道する「裸の王様」の欺瞞性は、自分の五感と自分の脳みそを信じて自己判断する癖を付ければ、大多数の民衆でも見抜くことができると思われる。