2020年3月8日日曜日

ウイルス診断キットについての雑感集 ②

インフルエンザ感染診断キットの思い出

 僕は、1991年から2016年まで有床診療所で活動していて、外来診療は昔の話となってしまったので「思い出」という感じです。 
 ネットを調べると、日本では1999年(平成11年)にインフルエンザの診断キットが利用されるようになりました。その頃はA型対応のみでしたが、直ぐにA型・B型対応になりました。そうすると、僕は7年ほど診療所でこの検査をしていたのだと思います。検査の方法は免疫酵素抗体法(ペーパークロマトグラフィを利用)というものです。

 なお、この検査は粘膜におけるウイルスの存在自体あるいはその一部の構造の存在を検出するというものと思われます。この表現の意味するところは、微妙な状況のことを含んでいるのですが、詳しく説明することが出来る態勢が今の僕には整っていません。ただ、感度のことを考えると、この検査が陽性であればウイルスの存在自体を検出していることの蓋然性は高いと僕は思います。また、他人に感染する程度であることを意味しているのかどうかも僕には判りませんが、やはり感度のことを考えると、この検査が陽性であれば感染のリスクがある程度と思ってもよいのかもしれないと思います。
 何故こういうややこしい言い回し方をするのかと言いますと、新型コロナウイルス検査で問題になっているPCR検査はウイルスの核酸構造を大幅に増幅して検出するという検査法なので、陽性が出てもウイルスの一部の構造を拾っただけかもしれない可能性が大きくなるからです。そのウイルスが粘膜に引っ付いたということは確かでも、もう今は問題がないという可能性があるからです(実質上の偽陽性)。

 さて、僕は鼻腔の粘膜を専用綿棒で擦過してくる方法(鼻腔ぬぐい液とする)を利用していました。文献上は咽頭粘膜よりは鼻腔粘膜の方が総合的によいとのことらしいですが、僕自身は直観的に鼻腔の方がよいと思いました。
 僕の診療所では、このサンプル採取の手順はナースには任さずに自分ですることにしていました。実際にしてみると、十分鼻腔の奥にまで綿棒を突っ込んで粘膜を擦る必要性を感じたので、検者による個人差が出るのを嫌い自分ですることにしたのです。そして、検査の時には予めベッドに臥床して待っていただき、そこに自分が出向いて綿棒で擦ってくるのです。これを坐位で行うと、患者が頭部を反射的によけたりして粘膜損傷をしかねないので、逃げられないように臥床していただいていました。そして、僕の左手で額を抑えて右手で綿棒を突っ込むと安全に奥まで突っ込むことが出来ました。どうせするなら偽陰性になる因子を避けないと失礼に当たると考えましたので、予め、「一寸痛いかもしれませんが我慢お願いします」と言って行いましたが、優しく擦るようにしていました。

 「昨日ここに来て陰性だったが、次の日も発熱したのでもう一度他所の医院にったら陽性だった」という話は後でよく聞きました。その逆もよくありました。検者のしつこさにも多少影響されるかもしれませんが、症状が出てからの受診の時間が結果的に早過ぎたら陰性で、その次の日には陽性という流れが多いのだろうと思いました。
 検査キット製造会社の情報では、「24時間以内でも陽性が出ます」というメッセージがありますが、「それはそうだと」僕も同意します。そもそも症状が出てからというタイミング自体が曖昧なのです。ただ、症状が出てから直ぐに来れば来るほど陰性率が高くなるのは間違いがないはずです。やはり、特に理由がなければ、1日以内に検査をしに来るのは控えた方がよいと誘導していました。

 検査陽性の場合はタミフル錠の処方をするのですが(検査結果を知りたいだけで、タミフル錠を希望されない場合もありますが、それは当然のことながら尊重していました)、「症状が治まったら、いつから登校・出勤したらよいか」という質問をよく受けました。行政からのチラシに「平熱になってからさらに24時間は家にいてください」というのがあったので、それを参考にしていただくことが多かったと思います。
 「私がいないと会社がやっていけないので、なるだけ早く出勤したい」という話であれば、「行こうとする直前にもう一度診断キットの検査をしに来てください」といっておきました。その時に陰性であれば、最初から1~2日しか経っていなくても出勤の許可を出していました。許可というか勧告というか。僕の判断というか。国を挙げてのパニックの様相はないので、その人の判断によると思いました。やっぱり、勧告とかアドバイスだったと思います。

 「この人は全然インフルエンザらしくない」と思った人が「是非、検査をして欲しい」としつこく言うので仕方なしに検査をしたら陽性であったことも一度や二度ではありませんでした。逆に、医者の僕が「これはきっとインフルエンザだから検査をしましょう」と無理やりしたら陰性であったこともありました。症状でインフルエンザかどうかは判りません。せいぜい、「それらしい」とか「非常にそれらしい」とかくらいしか判りません。健康本で、さも判るようなことを書いている先生がいるけれど、僕はそんな決定論的なことは言えないと思います。こういう種類のものの診断は後で判ってくるものです。しかし、検査自体にも偽陽性や偽陰性があるので、実は、判らない部分は残るのです。

 診療所を退職して、2年ほど民間の総合病院の半日外来勤務をさせてもらいました。そうすると、そこの外来では、ナースがカルテを持ってきて、「インフルエンザの検査の結果が出ましたので診察お願いします」でした。それで、医師の仕事が減って楽をしました。僕は診療所で活動している時も「風の噂」で、自分のところ以外ではどうやらナースが検査をしているようだと伝わっていましたので、「やっぱり、そうだった」と思いました。それでも、実際は、問題はないのだと思いました。ナースに「どういう方法でやっているのか」という質問もしませんでした。その病院での長らく定番となった方法を踏襲しているので、OKと思いました。あくまでも簡易キット検査であるので、もともと確定的なことはないとも思っていました。まあ、僕は、自分の管理下で運営していた診療所では自分の方針でしたかっただけということです。
 ただ、個々の被検者の検査結果が出た時は、この結果がその方に対して役に立っているという気持ちにはなっていました。個々においては、例えば感度90%・特異度80%というのであれば、それは8~9割の信憑性があるということだから、そうなのでしょう。

 (注)その後、亀田感染症ガイドライン(2018年8月改訂)などの情報を見る機会がありましたが(次のブロブを書くために、改めて調べようと思った)、インフルエンザの簡易キット検査には偽陰性が非常に多い(50~30%)ことを知りました(感度が50~70%で、特異度が90%以上)。こんなに偽陰性が多いとは勉強不足で知らなかったです。なお、2014年11月のラジオNIKKEIの記事では、偽陽性も偽陰性も5~15%(小児ではどちらも5%以下)というのがあったのですが(複数の論文のメタアナリシス)・・・・・。そうすると、インフルエンザにおいて臨床診断と検査結果とが一致しない場合においては、検査結果よりも経験ある医師の判断の方が真実に近い蓋然性がありえます。いづれにしても実地臨床の場では、当面の決着を一応付けないといけないので、「総合的に」とか「多分」ということにならざるをえないでしょう(2020.05.06)



 

ウイルス診断キットについての雑感集 ①

ネット情報による僕の考え方の整理
 
 先に、「新型コロナウイルス(新型風邪)に対する迅速診断キットは政府が資金援助をすれば、企業が短時間に開発するはずだ」という意見を書きました(本ブログ(#15)手洗いについての雑感集)。この意見はそうだと思うのですが、実際に、3月5日の新聞記事に「島津製作所が短時間で判る感染診断キットの提供を開発中で、3月中を目処に月間5万件以上を目指している」というのがありました。なお、3月6日の新聞記事にはワクチン開発も今秋の臨床試験を目指す動きが既に始まっているというのがありました。自力でも日本の民間は早急に開発できるようです。
 しかし、「どんどん検査した方がよい」という主張では決してないということを強調しておく必要があると思い、このブログを書き足しました。この件については、ネットの情報を参考にしたところ、自分の考えの整理が出来たように思います。

 ●3月3日のユーチューブ(海外の反応:日本人 久住医師「検査するだけでは意味が無い」「特別な治療法はありません」: https://www.youtube.com/watch?v=3f0wlNhppwM)を見ました。これはフジテレビでアナウンサーの質問に応じた発言をネットに載せて、これを見た韓国からと日本からのネット書き込みを並べた内容でした。この多数の「書き込み」には巷間のありうる意見がほぼ出尽くしていて参考になりましたが、現実を理解できていない意見と理解が進んでいる意見が含まれていると思いました。その書き込みのことよりも、久住医師の表記の短い意見が現実的には妥当なものだと僕は思いました。
 この時期に発熱や風邪症状が出だしたら、直ぐに検査などせずに先ずは数日の自宅待機をするのがよいと思われます。症状がしんどかったら、僕は対症薬を買って服用することを勧めるものです。確率的にはほとんどは新型風邪ではないはずだからです。長引いたら、電話を利用して次の対応の相談をすることになるのでしょうか。僕にも、それから先のことについては、具体的なことを一般論として言うほどのことを知りません。

 ●2月28日のヤフーニュースで在英国際ジャーナリスト・木村正人氏の記事(新型肺炎「日本は感染症と公衆衛生のリテラシーを高めよう」免疫学の大家がPCR論争に苦言: https://news.yahoo.co.jp/byline/kimuramasato/20200228-00165104/)をその後に偶然見ました。回答者は宮坂昌之阪大教授だったので僕は驚いたのです。彼は大学の同級生で、昨年同窓会で会った後で新著「免疫と「病」の科学」(ブルーバックス)という一般向けの教養書を送ってくれたばかりだったからです。
 このヤフー記事にはPCR検査自体に関わる実際上の詳しい知識、韓国のPCRベンチャー企業の状況、厚労省の体質の問題点など書かれていました。資料が多いので、僕は記事をA4用紙にて8枚のプリントアウトにしてから、熟読しました。大変参考になったという他はなかったのですが、読み手によっては間違った受け取り方をすることもないともいえないという危惧を抱いたので、その部分だけ僕はコメントしておきたいと思います。つまり、無暗に感染診断の検査をしないのが正解であるという積極的な前提が別にあるということです。宮坂先生も、インタビューを受けた趣旨がPCR検査自体のことなので、このことをそれ程は強調しなかったと僕は受け取っていますが、彼は文中において、国民が無暗に検査を受けない方がよいと述べています。

 さて、宮坂先生の記事によりますと、韓国では以前にMARS騒動もあったこともあり、検査関連のベンチャー企業が育っているようで、確かに日本と比べて検査の対応力が桁違いに強いのだそうです。しかし、どうも韓国の社会経済構造の方がイビツのように僕には思われますので、日本の対応力が低過ぎるという非難は当たらないと思います。さらに、国家の方針とは無関係に利益追求の企業が先導して自由に検査を行う路線を誘導することは問題であると僕は思います。検査費が「自費」扱いであってもそうなのです。何故かといいますと、この新型風邪は既に国家や国際的なイッシューになっているからです。実際に韓国では、無症状者にまで自由に検査をし過ぎて、検査陽性者が早い者勝ちで病院のベッドを占拠してしまっていて、医療に支障がみられているという情報があります。必要に応じて国家の方針がなければなりません。
 日本でも言われ始めていますが、これを近い将来に「保険」扱いに格上げするという方針も気を付けた方がよいと僕は思うのです。それは、韓国のような医療への支障の他にも、高価な検査費で一般医療財政が圧迫されるという問題があるからです。
 宮坂先生も日本における現状のインフルエンザ感染検査キットの年間使用数(約2千万件)を参考に試算していますが、新型風邪の当面の検査費は一人1万円という辺りとすると、そのまま計算すると1兆円ということになってしまいます。このことからも自由にするような検査ではありません。
 厚労省の官僚には宮坂先生が具体的に指摘しているような不出来があることは、僕もこのブログで書いている通りで同感ですが、僕の場合は基本的に「国家を守る」という心構えがないことから派生することに根本的な問題があると思っています。僕は、その一方で、中央官僚も知能指数的には優秀な人々なのだから、資料を前にしての潜在的な判断能力は優秀であるはずです。だから、厚労省の方も現在、「無暗に検査をしない方がよい」という判断をしていると期待的に思うのです。新聞記事によると、最近の厚労省関係のコメントでも個人が自由に希望できる検査ではないことを明言していますが、この意見がこうした高度の判断に基づいていることを期待しています。ただ、検査をこなす能力がないという理由でそう言っているだけであるのなら寂しい限りです。
 なお、この英国在住のジャーナリストがこの領域に関しては英国の方が日本より全て優れているとでもいうような考えのように思われるのでありますが、僕はそうは思わないのです。どの国にも良いところと良くないところがあるはずだと思うのであります。木村氏の発言からもうかがえるのですが、西欧社会では良くも悪くもセクショナリズム(専門家意識)が日本より強烈だと思われます。
 とにかく、僕がこういう考えをしていたところに、僕にとって決定的だと思う記事が先に出ていたのを見付けました。

 ●2月26日のユーチューブ(医師解説: 全員にコロナウイルス検査をしても意味が無い理由: https://www.youtube.com/watch?v=cmI_6UGHXRI&t=173s)と
いう記事です。現役医師の「プロポ先生」による記事です。彼が説明されているデーターは「医師国家試験の問題」がたたき台になっています。「これは医者ならば全員当然のように知っていることです」と述べておられますが、僕は、久しぶりにプロポ先生の説明を受けて「ああ、そうだったのか」と思ったのでした。検査における感度や特異度という専門用語があるのですが、いろんな臨床検査についての疫学関連の仕事をしていなければ、こういう用語はもう忘れてしまっている医者は多少はいると僕は思います。
 この国家試験問題の図表を提示しながら説明されています。前提条件は,①1万人の集団があり、実際の感染者は0.1%(10人)、②検査法の感度は90%、③検査法の特異度は80%、ということで、この表を数字で埋めてみようということです。感度とは実際に感染している人に陽性がでる率です。感度90%は偽陰性10%ということです。特異度とは実際には感染していない人に陰性がでる率です。特異度80%は偽陽性20%ということです。感度90%・特異度80%の検査というと普通の領域(腫瘍マーカーなどの非感染性疾患におけるもの)においては非常に優秀な判別検査ということです。100%を期待するのは通常無理なのです。➡そうすると、この1万人の検査の結果で、陽性者は2007人で陰性者は7993人となるのです。本当は10人しかいないはずなのに、検査では2007人が陽性になるのです。ここにおける前提条件は新型風邪の現況とそれ程の乖離がないとすると、絞り込みなしで検査だけするとこういう混乱必死の結末になるのです。➡無症状者や従来からの風邪(と思われる)ような人たちに無暗に検査をすることは「意味が無い」どころか、「社会混乱のもと」なのです。
 以上の理屈は何ら突っ込みどころがない素晴らしいものだけど、本当だろうね?と考え直したくなるほど、ものすごい程度の偽陽性の値だというのが、正直な感想です。「本当かな」。
 そこで、もっと理解できるように、前提条件のうちで実際の感染者が1万人のうちの1%(百人)の場合を計算しました。すると、検査陽性者は2070人で陰性者は7930人でした。本当は百人しかいないはずなのに、検査では2070人が陽性になるのです。次に、実際の感染者が10%(千人)というかなりの高い感染率で試算しますと陽性者は2700人で陰性者は7300人でした。本当は千人しかいないはずなのに、検査では2700人が陽性になるのです。実際の感染者が非常に稀な程、えげつない程の偽陽性が出てしまうのです。
 面白がってというのではありませんが、前提条件が全員非感染者であった場合では、陽性者2000人(全員偽陽性)で陰性者8000人となります。逆に、全員感染者であった場合では、陽性者9000人で陰性者1000人(全員偽陰性)となります。

 つまり、新型風邪には適切な医師が振り分けして必要と認めた症例に対してだけ行うのが正解だと思われるのです。振り返ってみれば、日本での(成り行き上のやり方かもしれませんが)現行の新型風邪への対応が正解に近いのだと思われるのです。
 しかし、僕自身どうも「本当かな」という直観をまだ捨て切れないので、前提条件を1万人の集団があり、実際の感染者は1%(百人)で、②検査法の感度は90%と同じだが、③検査法の特異度は99.9%と非常に優秀な検査として計算し直してみました。そうすると、検査陽性者は100人で、陰性者は9900人となります。数字上ピッタリだったのです。しかし、実は偽陽性10人と偽陰性10人があったので、20人は誤診断となっています。とはいえ、検査特異度が99.9%ともなると、1万人からは20人の誤診断があっただけでした。ことのついでに、実際の感染者を最初のように0.1%(10人)として、同じ感度と特異度でもって計算してみると、検査陽性者は19人で、陰性者は9981人になりました。つまり、実際の感染者は10人なのに検査上では19人が陽性に出たということでした。それでもかなり優秀な結果であったと思います。ただ、集団が2千万人とした場合では(年間のインフルエンザ検査はこのくらい実施している)、実際の感染者は2万人なのに検査上では3万8千人が陽性に出るということです。
 
 結局、この検査自体のことを考えますと、特異度が80%と99.9%では状況が大きく変わることとなります。いずれにせよ、2千万人の多数にこの検査を実施するととんでもない多数の偽陽性者がでてしまうことには変わりはありません。 もちろん感度にも問題がありますが、特異度におけるこの問題の方がより印象的に思われます。最近のPCRの特異度は80%のような低いことではないような印象がありますが、非選択的に多数の検査をすることの不都合さは変わらないのです。
 また、検査陽性のケースの中には、ウイルスの一部の構造しか残っていない場合や、ウイルスが存在しても少数過ぎて感染能力が既に残っていない場合もあると考えられますので、実質上の偽陽性はもっと多いことも考えられるように思います。
 以上のように不明な部分が僕には残っているのですが、それでも、僕は責任ある医師が必要と認めた場合に限りこの検査をするという方針を支持します。その根拠は庶民に任せておくとどんどん不必要なパニック対応になっていくからです。
 
 では、何故現行のインフルエンザ検査の場合には、しばしばフリーアクセスのように自由に実施されている現状でも問題にならないのか?
 その理由は僕には明確のように思われます。既に何度もブログで述べていますように、陽性と出ようが陰性と出ようが、「パニック」にならないからです。これが最大の理由だと思います。民衆の心の切り替えの方が大事なのです。「病は気から」の特殊バージョンです。インフルエンザの検査でも偽陽性や偽陰性はかなりあるはずです。
 他のそれなりの理由は、検査キットがPCR法ではなくて免疫酵素抗体法という簡易検査キットであり、安価であるし普通の診療所でも安全で直ぐに結果が出て熟練検査機関が要らないからです。
 
 なお、ウイルスに対する検査法の種類を写し書きておきます。①ウイルス分離検査、②血清抗体検査、③PCR検査、④免疫酵素抗体法の4種類があります。①と②につきましては、通常の市内の病医院で判るものではありません。そして、この新型風邪についいてのブログで取り上げられているものは③でした。この疾患に対しての④が開発された時点では、インフルエンザと同じような感触で用いることが出来そうですが、「パニック」を伴う社会現象の要因が残っている間は、検査制限をするべきだと思われるのです。

2020年3月1日日曜日

手洗いについての雑感集

(手洗い1)外科医のイロハは手洗いからだった
 僕は自分のことについては衛生に関して神経質ではありません。しかし、手術前の手洗いは本当に一所懸命するのです。自分の手で帽子とマスクを着用してから手洗い場所に行くのです。そこには滅菌した手洗い用の温湯シャワー装置とイソジン消毒薬液があります。それを用いて数分~5分以上かけて手から前腕にかけてブラシで擦っていくのです。ブラシは指先から肘の方へ次第に移動していくのが作法です。この作業を繰り返し行い、自分が納得すれば滅菌乾ガーゼで拭き取るのですが、この場合も指先から肘の方向に拭き取るのです。
 手洗いが終わると、手術場のナースの助けをもらって、滅菌した術衣を着用します。執刀を始める時よりも、手洗いから滅菌術衣を着用するまでの一連の動作が一番緊張する時間でした。

 (手洗い2)水での手洗いがイロハのイだろう
 砂漠で生活している人々が食器や手を洗おうとすれば、砂をつまんでゴシゴシするのでしょう。僕も自然の中に出掛けた時には、海岸の砂や原野の砂で洗った経験があります。それでも日常の生活の多くは不都合なくやっていけます。一般的には砂よりも水の方が手洗いに適切なのでしょう。しかし、脂物が手指に付着して洗剤がなければ先に砂で擦り取ってから最後に水洗というのがよいのかもしれません。
 今述べた手洗い法は物理的に汚れを取り去る方法ですが、充分に水洗するだけで細菌やウイルスも一億個が百個に減る(たとえばの話)ことになり、充分有効だろうと思われます。病原菌は必ずしもゼロにする必要はないのです。十分減ればよいのです。しかし、何匹までが大丈夫なのかは誰も直ぐに答えることが出来ないので、ゼロを目指してということになるのでしょう。
 手洗い用の洗剤などを用いると、油脂に絡まった汚れや病原菌をさらに除去してくれます。また、感染対策における手指の消毒の場にはアルコールやその類似物質が用意してあることが普通のようになっています。アルコールで指に付着した病原体の殺菌をするのですが、先に水洗いをしをしておく方が望ましいと思います。僕はアルコール消毒の効果については詳しくありませんが、ただ、アルコールは最適な消毒効果のために、純アルコールを蒸留水で希釈して70%にしたものを用いるのが普通だと思います。

 (手洗い3)手洗いが非常に重要なのは消化管感染症だろう
 僕にはよく判らないのですが、インフルエンザのような気道~呼吸器感染症の部類の疾患における、手指を通じての発病は実際どの程度なのかなと思うのです。だから手洗いを適当にというのではないのですが、やはりマスク着用が一番だと思うわけです。
 ところが、ブドウ球菌感染による食中毒の防止のためには調理人が厳重な手指の消毒をしておかないといけないのです。調理の時に付着ていた菌がその後増殖してしまうからです。調理人の手指に怪我があったりするとよくありません。その場合は休職してもらうことがあります。
 また、最近知られるようになったノロウイルス感染症は極めて感染性が強くて、しばしば激しい下痢を伴う腸炎を起こして施設内集団発症をきたすのです。この疾患は病院や施設にとって要注意の感染症です。下痢や嘔吐の汚物が付着した衣服や敷物から職員の手指を介しての感染が非常に起こりやすいのです。このウイルス感染に対する診断キットはインフルエンザ感染に対する簡易診断キットと似たようなものが商品化されていて、広く利用されるようになっています。これらは、最近の新型コロナウイルス感染症において有名になったPCR法とは違って、免疫酵素抗体法を用いており、15分もあれば現場で結果が出ます。

 話のついでに書いておきますが、これらの検査キットを作る会社にとっては、器具はほぼすべてお互いに同じものを利用できるのでして、肝腎の試薬だけが違う抗体を用いるのです。
 参考のために治療キットの具体例を書いておきます。随分以前からノバルティスという製薬会社が喘息治療薬のフルタイドというパウダー薬の吸入キットを流通させていますが、僕はこの薬剤を喘息治療の基本に利用してきました。その後、この会社からインフルエンザ治療薬として、リレンザというパウダー薬の吸入キットが発売されることになりました(2000年発売)。タミフル内服薬(2001年発売)の次によく使われてきたように思います。このリレンザの吸入キットはフルタイドの吸入キットと見た目は全く同じなのです。キットの器具の模様と色が違うだけです。
 以上の治療薬の吸入キットでの話が、そのままウイルスの検査キットでの話になると思います。


 だから、新しいウイルスに対する抗体が新たに作成されて安定利用出来る態勢になっていたら、検査キットの製造はかなり簡単だろうと思うのです。つまり、新型コロナウイルスの検査キットは、政府が製造会社に「今、緊急事態だから、早いこと作ってくれ、この件で無理を言うからもうけさせてやるよ」と言えば、早々に可能になると僕は思うのです。しかし、日本では、その会社に便宜を図った経緯は如何にとか、その費用はどういう経緯で決めたのかとかいって、マスコミや野党が騒ぐから、臨機応変が難しいのだと僕は思います。こういう場合は、政府の独断専行で良いと僕は思います。今のような潜在的に多額の経済ロスを導くような国難の事態において、この検査キットの開発を超短期間で製造にもってくることに出費する何億・何十億円の国の金などをゴチャゴチャ言わなければよいのに、必ずゴチャゴチャいう「野党」と「マスコミ」に同調する「世間」が問題だと僕は思うのです。
 (注)もともと、僕は、今回の新型風邪に対しては「国民は普通の生活でよろしい」「日本ではせいぜいインフルエンザ程度のものだろう」「主な感染は部屋の中で生じるのでそれに気を付けよう」の対応で宜しいと思うと言っているのでした。ところが、ここの部分の記事を読み返してみると、如何にも「新型コロナウイルス感染の検査をどんどんした方がよい」ことが前提のように受け取られると思われましたので、そういうことを主張しているのではないことを書いておかないといけないと思いました。それで、次の号に書くことにしました(2020.03.08)。

 (手洗い4)手洗いは1分間でも長く感じる
 以前、診療所を経営していた時に、厨房に関わる診療報酬における加点算定を得るために施設改造をしました。この時の査察に保健所の職員が来られてチェックをされました。その時に「手洗い所の前にこの注意書きを貼っておいてください」と紙を渡されました。「手洗いは1分しましょう」だったか「数分しましょう」だったかは忘れましたが、そういう内容でした。僕は「はい」と言って預かりました。それを貼って目標ないし努力目標にしておくことになったのですが、僕は内心「それは長いなあ」と思いましたが、口には出しませんでした。普通なら、これで終わりの話です。
 ところが、その職員は事務長をしていた僕の妻の昔の知り合いだったのです。その人はそうした気安さのためだろうと思うのですが、僕の「それは長いなあ」という気持ちを察したのか、「1分でも、実際、長いですよねえ」と言ってくれたのです。保健所や厚労省で提示する指示内容は現実からかけ離れた「優等生的なこと」であることが少なくないと思うのです。それと、こういう職員に知り合いがいると有難いなあと思ったということです。





 

「うがい」についての雑感集

 この号を含む前後の3つの号はブログ「ヘルスコラムM」の続きでもあり、ブログ「日出づる国考M」の最近のテーマ(新型ウイルス疾患)と共通性が多いのですが、「ものの考え方の実践例」として、この「意味論コラムM」のところに書くことにしました。「ヘルスコラムM」では文章が「です」「ます」を通しましたので、ここではそれを踏襲しておきます。 

(うがい1)感染防止の意義としての「うがい」は疑問だ
 僕は、「ヘルスコラムM」(#24.2003,4)において、マスクは意味がある場合が多いが、「うがい」は怪しいと思うと表明しました。もう17年前のことですが、考えは今も変っていません。
 結論を先に言いますと、日中に10回も20回もうがいをするというなら、その意味はそれなりにあると思いますが、「帰宅したらうがいしましょうね」という感覚なら無意味だと思います。理由は簡単で、「対応が時間的に遅すぎる」ということです。こういうアドバイスには「本気度」があるようには思えません。教科書的というか他人の言ったことをオウム返しに述べているという気がします。「何だか良さそうな雰囲気の発言なので自分も言っておこう」という感じに僕には思われます。これでお仕舞いです。
 簡単に判る話なのにどうしてそんなアドバイスをするのだろうと不思議に思います。医療専門家として意見を発するのなら、自分の頭の中で実際のシミュレーションをして本気度の高い意見を発して欲しいと思います。
 しかも、問題は時間的なことだけではありません。部位的な問題点もあります。「うがい」によって粘膜を水分で洗う範囲を「本気」で想像してください。口腔粘膜の辺りまでしかできないのです。深い咽頭や、喉頭・気管より先の方は「うがい」ができません。しかも、「うがい」だけでは広範な鼻腔粘膜も全く手つかずです。これで仕舞いです。
 「うがい」よりは「マスク」の方が一般的には意味が大きいと思う根拠です。
 
 (うがい2)「うがい」指示への疑問は他にもあった
 喘息治療は大凡でいえば、20年以上前に既に目途が立っていました。(注)「ヘルスコラムM」(#10. 2002.7)(#90.2016.7 
 「基本的には、副腎皮質ステロイド(副ス)の吸入薬の毎日(通常)の使用によりコントロール可能になりました。もちろん、良くなり過ぎたらこういう治療もいったん中止ということもしばしばです。再燃したらまた再開をすればよいのです。「副ス」吸入だけでは管理できないような難治の場合には、一定期間の「副ス」内服投与を第一選択とすることが正しいのですが、実際は「副ス」の吸入薬による管理で多くの症例の管理が可能となります。
 「副ス」の長期使用では種々の副作用が出現する可能性があるといわれています。比較的多量での長期の内服の場合にこれがよく問題になりうるのですが、局所投与の吸入治療でもこの副作用が多少ともありうるという話です。

 このうちで、吸入流が当たる粘膜においては真菌(カビ)に対する防御反応が低下するために粘膜に真菌症が生じる可能性があると言われています。僕の扱った症例にも現実にこれが生じた場合を1例経験しています。他は気付かなかったのかもしれません。これが生じた場合は、「副ス」吸入薬の減量や休薬を考えたりしますが、原疾患の管理が問題になる場合はこれがかなわずに抗真菌薬の服用をします。
 自分ではしませんでしたが、予防投与する場合もあるのかもしれません。

 以上ですが、一般的には、「副ス」吸入薬による粘膜真菌症を防止するためにも、吸入をしたら直ぐに「うがい」をしましょうという指導をします。これには製薬会社から始まり主治医からも薬剤師からもこの点を重点的に指導することになっているのが現状であります。
 しかし、結局、「うがい」は咽頭の一部までしかできないので、咽頭下部や喉頭・気管・気管支は手つかずなのです。「本気度」の話をしますと、「うがい」が咽頭粘膜における副作用防止に実際に有効であって意味があったという症例の場合を思考実験すると、喉頭・気管・気管支のいずれかには粘膜の真菌症が発症しているという確率は大変高いはずです。「うがい」により手前の咽頭の真菌症が防止できたので、喉頭以遠の病変は生じても発見は困難であります。
 かえって「うがい」をしない場合の方では、手前の咽頭粘膜の病変が先ず発見された際に診断が可能になるということになります。
 以上のことから、真菌症の副作用についての認識は持っておきながら、むしろ「うがい」をしないという選択もありと思われます。

 もう一つ、長期吸入「副ス」療法の場合に、多少とも気道粘膜から血液に吸収された「副ス」の全身への影響を考えるのです。これについては内服の場合による多くの副作用の可能性と同じことになります。前述したように、「うがい」によってもほんの一部の部分しか対応できないので、製薬会社はこの吸収に関する資料を持っているでしょうが、現実的には言うほどの「うがい」の効果はないと僕は判断しています。
 そして、もともとこの「副ス」吸入療法が大変すばらしいのは、内服などの全身投与と異なり、粘膜からの体内への吸収の影響が極めて僅かであるということに拠っているのです。
 僕は、2年前から自分も喘息(咳喘息)が発症して、1年中の数か月以上は「副ス」の吸入を利用しています。自分の吸入体験によりますと、上手に吸入が出来た場合は、吸入の薬剤は気管以遠に充分量が到達するので咽頭粘膜に引っかかる割合は非常に少なくなります。吸入が非常に下手な場合(私は初めから上手ですが)にこそ咽頭粘膜に留まってしまうことが実感のように理解できるのです。僕自身は、吸入後に「うがい」をしたことがありません。しかし、保険医として、患者さんには「うがい」をするように指導をしています。
 ところで、院外処方箋の場合は(大きい病院で処方箋を書く場合も同じ)、どのみち薬局の窓口で薬剤師が処方医の僕と力点の異なる吸入指導をすることは判っています。僕自身は、薬剤師やナースとチームを組んで、意見調整をする場があればよいと思っていますが、忙しいこともあり難しいのです。

ことのついでに書いておきますが、「うがい」指導を医師や薬剤師が一所懸命にし過ぎる弊害が別にあります。こちらの方が大問題です。この吸入薬は当たり前のことですが、「吸入の仕方が下手」だと喘息が上手く管理できないのです。だから、僕は、患者さんに吸入の仕方を自分で実演をして、かつ、患者さんに目の前で「本気で吸入してください」とチェックすることにしているのです(そのうちにナースにこれを仕込んで、僕の代わりにしてもらっていました)

 ところが、どうも他の医師の一部や薬剤師の多くがこのことへの取り組みが不十分で、「うがい」指導ばかりを一所懸命にするので、患者さんの多くは「うがい」のことだけを気にかけて、吸入の仕方がかなり下手か全然ダメ(喘息は少ししか良くならないか全然良くならない)というケースがかなり多いのです。これは、他の医療機関から転医してこられた患者さんにしばしば見られているのです。本末転倒の典型だと僕は思っています。



マスク着用についての雑感集

 僕は、以前、ブログ「ヘルスコラムM」(#24.2003.4)で、マスクなどに関する記事を書きました(マスクや手洗いの意義は場合によると思います)。
今般の、新型コロナウイルス感染症という社会現象に遭遇して、1週間前にブログ「日出づる国考M」に「今回の新型コロナウイルス感染症についての考え方」と「日本の新型ウイルス感染症対応の拙さの「戦後日本の構造的必然性」」の記事を書きました。その流れで、このブログにマスク着用・うがい・手洗いにつての意味論的雑感とでもいうようなことを順次書き足しておこうと思いました。

 (前置き)
 僕は自分自身の衛生のことにそれほど神経質ではありません。こういうことを書くと「医師であるのにどうも怪しい」と思われるかもしれません。そこで、先ず「このことで他人や患者に迷惑を掛けたことは多分ない」と思います、という言い訳をしておきます。
 僕は、4歳の時に近くの療養生活をしている小父さんの家を何度か訪れている間に肺結核をうつされて(僕の両親はそういうことを知らなかった)、両側の上肺野に病変が生じました。直ちに療養生活を強いられ、高校生までは体育禁止を指示されたので、思春期頃までの人生が惨めなものになってしまいました。僕が発病して間もなくその小父さんが亡くなって、結核にかかっていたことを周囲に隠していたことが判ったのです。しかし、戦後の混乱期だったこともあり、自分の家も文句を言うような感じの家ではなかったので、運が悪かったことで終わっています。僕も時代が時代なので仕方がなかったと思っています。
 医学部を卒業して基礎免疫の研究と並行して肺外科の研修を開始しました。臨床医としては、呼吸器外科の医師であり、その後は一般開業医として活動しました。こうしたバックグラウンドですが、自分の衛生のことは「一般常識」以上のものではありません。必要以上に神経質になることは意味がないと感じていたからです。
 呼吸器外科手術は足掛け23年しました。それには手術前の「帽子とマスクの着用」「手洗い」「無菌的術衣着用」と「無菌的作法」ということが要求されます。この期間に、術野感染の合併症が生じたことは幸いありませんでした。
 後半、有床診療所の一般開業医になってからも呼吸器科・循環器科・アレルギー科を主に標榜していましたが、この25年間の間には、外来や病棟での集団感染は幸いにも起こりませんでした。

(マスク1)戸外ではマスクは不要だと思う
 開業医になってから産業医の講習を受けて現在も産業医の資格を持っています。この講義の中に「煙草」の話題がありました。「職場環境の改善」という観点が主でした。今でこそ「禁煙対策」が基本であるように進化しましたが、二十年前はまだ「分煙対策」が主流でした。この領域には産業医大の大和 浩先生という第一人者がおられて、僕は彼の講義を3~4回聴きました。講義の中で、煙草の呼気が部屋の中でどういう拡散をするのかについて、呼気の録画映像を示されました。そうすると、広い部屋の片隅からの呼気であっても、それが部屋中に広がっていく映像を見ました。特に、咳をした時にはアッという間に拡散しました。その実験から、どういう分煙対策がよいのかを考えて実行するという話でした。
 これを感染症の話に適用すると、部屋の中や狭い建物の中では、インフルエンザなどは直ぐに他人にうつってしまうように思われました(広さにもよるし、咳の有無にもよる)。
 昨年だったか、「加熱式タバコ」の呼気がどういう拡散をしているかがよく判る映像をTV番組で見ました。米国のさる街角である若者が吸って歩いている映像でした。この番組のテーマは正確には忘れましたが、僕にはその映像が非常に役立ちました。呼気を吐いた途端にびっくりする程の多量の呼気気流が出てくるのでしたが、1秒もするかしないかの間に、拡散希釈して周囲に消えていくのです。完全に無風でもかなりはそういう感じだろうし、僅かでも風があればアッという間に希釈されて消えていくということが判りました。本人に「タバコの煙を吐く」という意識があるから、普通の呼気よりは勢いも強いことではあるでしょう。
 僕は戸外ではインフルエンザに感染する可能性は「ほぼゼロ」だと思っていたのですが、この映像を見てこの考えを強くしました。なお、人生や臨床においては「ゼロ」とか「絶対」とかという観点で考えることは、人生観としても正しいことではありません。せいぜい「かなりの確率で」という観点での話です。それでしかないのです。生活全般や人生とはそういうものでしょう。その人生の不確定さにおける不安や感謝というところに、古くからの日本人には「お天道さま」という概念があるように思うのです。

 上述の「ヘルスコラムM」で知らせたいと思ったことは、ウイルスも細菌も数匹や数十匹くらい体内に入っても感染という事態にはならないが(発病にもならない)、多数入ってくると感染や発病になりやすいということです。この境界的な数はある程度はウイルスの種類などの側によるでしょうし、人間の側の体調や状況にもよるのでしょう。このことを考え合わせると、流行期であっても戸外でウイルスに感染するリスクは一応考えなくてもよいと思った方がよいだろうということです。物事はゼロか百ではないのですが。

 (マスク2)人前でマスクをする人が多くなったことの違和感
 今、たまたま新型ウイルス感染が大きい社会問題になっていますが、表記のことは、この時期での感想ではなく、この数年の日常における感想の話です。
 僕自身は、以前から街中でマスクをして歩く人々がかなり多いことに違和感を感じています。上述のように戸外では感染防止の目的でマスクをかける意味はあまりないと思っていたからでもあります。アレルギーや感冒で咽喉が荒れているとか、咳が多くてマナーのためとか、花粉よけの意味では有意義だと思われますが、それ以外ではしない方がよいと思います。そもそもマスクが普通というような生活は人間らしい生活ではないし、身体的にも精神的にも抵抗力の弱い人間になるのがおちだと思われます。
 特に、受付や店員のような立場の人が平気でマスクをすることはマナーにもとると思います。病気などの場合は仕方がないにせよ、「失礼なことである」という気持ちがどこかに現れていなければならないと思います。
 今日観たユーチューブにイタリア在住の若い女性からの投稿がありました。やはり、欧州一般では日常マスクなどしている人がほとんどいないので、街中でマスクをして歩くことが、この段になっても難しいということです。この段というのは、数日前からイタリアの国における新型ウイルス感染症の拡大のリスクが出てきたので、何らかの対処が国として必要になってきているということです。もともと街中でマスクをしている人が珍しいので、今、この時期にマスクをして歩くと、「この人はヤバイ」という印象を与えるのです。しかも、自分のような東洋人種がマスクをして街中を歩くと「とんでもなくヤバイ」とされる可能性があり、マスクをし難いとのことでした。
 とにかく、西欧で平時にマスクをしている人は「その人が感染しているのだろう」と認定される程に、誰もマスクをしていないということです。
 日本に旅行に来た西欧人は東京の町を歩く日本人の少なくない人々がマスクをしていることに違和感を感じたり、「日本人は物凄く清潔好きだ」と感じたりするという書き込みがユーチュブでよく見かけます。
 普段からマスク着用が多いのは、ほぼ日本人に限られるようでもあるし、平時にはあまり意味もないので、こういう風俗のようなものは止めた方がよいと僕は思います。花粉症の季節に該当する人々がマスを着用することはお勧めですが、そういう体質でもない人々までがマスクをしているのではないかと疑うほどのマスク着用者の頻度に思えるのです。西欧人には花粉症が少なすぎるのかな? 西欧人の場合には、花粉症に対するマスク指導が疎かすぎるのか?

 (マスク3)マスクの種類についてなど
 マスクはもともと、家庭用、医療用、産業用があります。医療用マスクによく用いられていた不織布は粒子捕集性や通気性に優れて使い捨てといろいろ便利のために、最近の家庭用のマスクも以前のようなガーゼベースのものから9割が不織布ベースのものにかわってきているようです。
 化学工場その他の産業用の防塵マスクや防化学物質マスクにつては産業医や健康管理責任者の指定するマスクを用いなければなりませんので、これは別格です。
 家庭用のマスクの種類や着用の仕方に細かい留意点を挙げているアドバイスをよく見掛けますが、神経質になり過ぎない方がよいと僕は思います。
 ウイルス感染を考えると、目の前の感染者からの呼気の気流が直接入ってくる場合や、感染者の咳嗽の際に喀痰や唾液や鼻水に伴って入ってくる場合は、大変感染リスクが高いと思わなくてはなりません。前者については「あまり相手と距離を密着し過ぎないこと」であり、後者については「たとえ薄めの布でも防御効果はあるだろう」ということだと僕は思います。戸外だけでなく、室内でも通常の呼気気流は直ぐにそれなりに拡散希釈されるので、呼出気流がそのまま自分の口や鼻の中に流入してくることは少し距離が離れておればあまりないと思われます。「マスクと頬との隙間を気を付けましょう」は本当に意味があるのかなと疑っております。
 リスクのある室内では、頻繁に窓の開閉をして内気と外気とを入れ替えることが大変重要だと思われます。直接に感染の気流を吸入しなくても、その室内のウイルス濃度が次第に濃くなっていく可能性があるので、空気の入れ替えが実際的には意味があると思われるからです。

 (マスク4)マスクの先買いや買い占めについて
 買い占めして高値で売り抜けようという人の場合は、ここでコメントするものではありません。ガメツイ人がいるのだなあと思うしかないですが、高価になった品物を皆が買わなかったらそういう人は損をしますので、是非買わないでほしいと思います。
 必要な時に商品がなくなって困ることを避けようとして買う人についてをどう評価するかです。そもそも、県内に感染症が出た場合でも普通生活でよいのです。集会への参加や医療機関をなるだけ訪れないようにしたらよいだけでしょう。仕方がなく訪れる場合には、室内・施設内だけでマスクをすればよいと思います。
 まだ感染症の発生のない県ではマスクなど要らないと思います。多過ぎる枚数を先買いする人は、他人に対する思いやりのない人でであり、その前に愚かな人であるということを他人に示していることであり、恥ずかしいことと思っていただきたい。
 しかし、商品がなくなっても心配はないのです。適当な布を用いてミシンなどで自家製のマスクを作れば済むことです。その場合は、「使い捨て」にしないで、立派な自分のファッションのマスクでも作って、それを再利用すれば、面白いし、一人5枚以内でも十分かもしれません。再生には熱湯を通したらよろしいのだと思います。
 実際に、自分の地域で当該感染症が流行り出した時に心配な人はどうすればよいか? マスクをポケットに数枚ほど入れて外出し、戸外では用いないで、狭い建物や室内に入ると着用する。その際には、小さいビニール袋もポケットに入れておくとよい。室内から出てマスクを外すときには、マスクの外側をどこにも触れずにビニール袋に入れておく。室内と戸外とを繰り返す場合は着用のままということになるのだろうか。ビニール袋に入れたものは使い捨てならばそのまま捨てるし、再利用ならば帰宅して熱湯に通せばよい。こういう「本気度」のある予めのシミュレーションの方が実際には重要だと思います。

 (マスク5)私の妻は実際に従業員用のマスクを作成依頼した
 僕の妻は高齢者専用住宅の経営者です。数日前に洋服の仕立て業の友人にマスク作成を依頼したとのことです。従業員に配布するためです。種々のデザインの布を用いたマスクを依頼したということですが、これについては僕の考えとは無関係で、行動力のある彼女が自主的に作ろうと思ったということでした。再利用のマスクです。来週早々に配布できることになっています。

 (マスク6)診療時のマスク着用について ①
 僕自身は、自分が感冒に罹患して症状が出ている時以外に診察時にマスクをしたことはありません。まあ、邪魔くさいからです。そもそも、患者・医者が双方で顔を見ながらコミュニケーションをすることが非常に重要だとも思うのです。僕は滅多に風邪を引かなかったので、実際には一般診療中にマスクしたことは滅多にありません。
 特に、25年間の開業医生活では1回もインフルエンザにかかりませんでした。毎年、予防接種は職員全員が行っていました。職員は40名ほどおりましたが、院長の僕がマスクをしないので、ナースなどもあまりマスクをしていませんでした。職員はたまにインフルエンザに罹患しましたが、僕はかからなかったのです。患者にインフルエンザ検査陽性と出ても、こちらがマスクをすることはありませんでした。これは事実をそのまま書いているだけで、医師はマスクをしなくて良いと言っているのではありません。僕も、もしインフルエンザにかかっていたら、その後は用心してマスクを用いたのかもしれません。もちろん、医療関係者からの感染があってはならないことは心得ていたつもりです。毎年、それなりのインフルエンザウイルスが閾値以下の数で僕の口腔内や鼻腔に入ってきたので、免疫が強化され続けたのかもしれないと思うこともあります。
 なお、僕のような呼吸循環に関心を持って診察させてもらっている医師にとって、最も重要なことは体重の変動・顔貌の所見・下腿の所見だと自分なりに思うようになりました。脈拍・血圧や心肺の聴診はもちろん重要ですが、しばしば上記3項目の方が実際上で重要だと思うことが多いのです。つまり、患者の方がマスクをしていると、診察のイロハのイが疎かになるのです。しかも、患者も医者もマスクをしながら会話するというのはお互いに失礼だと僕は思うのです。しかし、僕のような意見の人間でも、やってきた患者さんが初めからマスクを着用している場合に「外してください」というのは言い難くて、そのままのことが増えてきていました。こちらは多少ストレスでしたが。
 理由がそれぞれあってマスクをしておく場合でも、診察の最初の時だけでもマスクを一寸外し合ってお互いの挨拶から始めたいと僕は思うのです。あるいは「マスクで失礼します」とか。

 (マスク7)診療時のマスク着用について ②
 ところが、インフルエンザ流行期に医療機関を受診する場合には、やはり医療機関にいる間のほとんどの時間にマスクを着用しておくことは正しいことだと思います。僕のようにマスクをしなくてもかからない人も多いのかもしれませんが、自分がどっちなのかが(かかりやすいかそうでないのか)判らない以上、マスクをしておこうとなるのは自然のことだと僕も思います。
 僕は、それよりも「風邪」にかかったからといって受診するのが不適切だと思います。この文脈から言えば、わざわざ流行風邪にかかるために受診しに行くようなものだからです。こういう風潮は他国に比べると医療費がタダのように安価い日本に多いのです。日本人は受診し過ぎるのです。要するに、発熱や咽喉痛や頭痛があり、それが風邪のようだったら(医者の方でも、最初は風邪と思うことからことを始めるのです。現実的にはそれしかないじゃないですか)、手持ちの普通の消炎鎮痛解熱剤(NSAID)の1種類の薬で全部対応できるのです。薬局で買って在庫にしておけばよろしいです。
 「風邪に安易にこういう薬を使わない方がよい」という意見の医者が多いことは承知していますが、こういう人々は実際の有用性を見ようとせず、教科書を鵜呑みにしていたり生理機序イデオロギーに侵されていると僕は信じています。僕からしますと、その考えは本当の機序の実際にもたらす「程度」という因子を理解できていないと思うのです。米国などは医療費も高いので、各自こういう薬剤をドラッグストアで買って自分で確保しております。僕は自分が医者であるメリットを生かして、自宅に対症薬と抗生物質の臨時薬の在庫をある程度持っています。症状が出たら遅延なく対症薬を服用することにしています。使用するのなら早目の使用がより有効であるからです。
 (参考)「ヘルスコラムM」
 僕は、政治だけでなく医学医療においても一般生活面においても「似非知識人」的考え方が跋扈していると思います。前世紀の後半から今世紀にかけての日本はそういう特徴の文化にはまり込んでしまったと僕には思えるのです。こういう点について、今後も書いていきたいと思います。そもそも「ヘルスコラムM」という健康・医療に関するブログもそういう観点から書いてきました。➞2021年2月にこれらをまとめて、「ドクターMのヘルスコラム」という単行本を発行しました。ネット本として発行の後で流通本としても発行しました。