2020年12月7日月曜日

意味論的国語辞典 「極左」と「極右」

 「意味論的国語辞典」というパターンは、本ブログの柱に位置付けて始めたが、「辞典」という以上は、それなりの水準の記載が求められるべきと自覚すれば、相当のエネルギーがないと書くことが難しいことに気付いた。それで、最初の5号を投稿した後は、2年以上もの間、このパターンでは書けなかった。しかし、左翼・右翼とか極左・極右とかの言葉をニュース媒体やネット媒体で見たりするごとに、一般意味論者の僕には引っ掛かりすぎていた。感情に訴えるためだけの使い方で、実際の内容の裏付けが伴っていない。次に、このパターンで書くならば、このテーマだと思っていた。

昨日3カ月ぶりにブログ(「日出づる国考M」)を書くことが出来る程度のエネルギーがでたので、勢いで書いてみようと思いたった。ただ、持続可能のために、以前よりはかなりなラフな記述の省エネで再開することにした。

 先ず、ウィキペディアで、左翼・右翼・極左・極右の4つのテーマについて閲覧して、知識の整理をさせてもらった。このウィキペディアや国語辞典やネット検索をすれば、今や誰にでもおおよその解説を読むことが出来るので、基本的な解説は繰り返さないことにした。このウィキペディアでは、もっともな理由で、説明が総覧的(いろんな説が羅列してある)で終わっている。国語辞典は役立たなかった。ネット検索の場合は、一般的に、飛んでいったサイト次第で、非常に密度の濃い解説や資料が得られることがある。ここでは、「極左」と「極右」だけに絞って述べてみたい。なお、ウィキベキアには非常に少額ながら数回寄付をさせてもらっていることを書いておきます。

 僕は、マスコミやネットや書籍の多くで、日本において、せいぜい、単に左翼・右翼と言っておけばよいものを、極左・極右と過激な言い方をすることを是としない。よく目見にするのは、「安倍政権は極右だ」「産経新聞は極右だ」というものだ。逆に「〇〇は極左だ」というのは、「〇〇は極右だ」というのに比べては少ないように思える。日本のマスコミ主導の言論界が「左寄り」だから、そういうことになっているように思っている。

 日本文化チャンネル桜を主宰している水島総のユーチューブを時々見ているが、安倍政権については、最初は期待していたのであるが最近の1~2年には相当の不満を募らせるようになった。左翼的な政策と思われる政策を結構採用しているという点だ。水島グループが極右かというと(そのように言及しているものがいることは承知しているが)、僕は至極まともなことを言っていると思うのである。じゃあ、僕も極右かということになる。形式的には、確かに、水掛け論の様相があるかに受け取られるかもしれないが、僕のこの数十年以上に変わりなく拠って立つところは「一般意味論的思考」と「生理学的知見に基づく思考」なので、このことは、必然的に「中庸」「中道」「そこそこ」「まあまあ」が正しい着地点だと,自分ではそのように任じている

 そういうことから、安倍政権はせいぜい「中道」なのです。水島グループの主張も、普通の「愛国者」なら至極まともな意見だろうと思う。余談だが、左巻きの人たちは「愛国」というのが右翼的だと定義しているようだ。愛国という重要な定義は別の機会に述べる必要性を感じる。

 大手新聞(朝日・毎日・読売・産経)の産経を極右という声も実によく聞く。僕は、最近はずっと地方新聞と産経新聞を購読してみて、内容の比較をしている。地方新聞は政治経済を担当する能力が乏しいので共同通信(左翼傾向が明確だ)などからの配信をそのまま垂れ流しているだけである。僕が2つの新聞を選んでいるのが、片や右寄りで片や左寄りだからだ。自然科学ではないので、議論の証拠提出というのは難しいが、結論的にいえば、上記の4新聞は列記した順に左翼から右翼の傾向になっている。しかし、日本以外の人間がこれらの新聞を読めば、朝日・毎日は明確に左翼で産経は中道と認定するであろう。日本には右翼の大手新聞など存在しないというのが真実なのだ。共同通信や東京新聞および中日新聞は朝日と良い勝負をしている左翼傾向の強いものだ。つまり、大方の地方新聞の政治欄は左翼の朝日新聞と良い勝負をしているくらいに左翼的だ。多くの住民はその認識がない。

 以上は、今回のテーマについての「まえがき」です。ここで述べたいのは「極」の意味であります。広辞苑では「極端な右(または左)翼思想(またはその人)と、いたって簡単だ。ウィキペディアを見ても、それぞれが「過激に」とか「急進的に」とかで説明してある。じゃあ、極端や過激とは何のことか?となる。過激ということを単純に考えると、一つには暴力行為や殺人行為まで辞さないということだと考えられる。これはその通りだと思われるが、これは解りやすすぎるし、本質的ではないと判断するので、これ以上の議論は止めておく。この行動様態と、根幹の理念やイデオロギー自身の過激性とは乖離している場合があるのだ。ここでは、根幹の理念における極端的な「極」について日頃考えてきたことを述べてみる。

 「右」であっても「左」であっても、歴史的に連綿と続いてきた自分たちの国(政権のことではなくて、国や国家、或いは民族の集団というほどのことである)というまとまりを「解消してしまおう」とか「破壊してしまおう」という考えがあれば、それは「極右」であり「極左」である、そういう定義付けをするのが本質を述べていることになると僕は考える。ウィキペディアにはこういう考えの紹介はなかったように思う。

やはり、国家を転覆させることがイデオロギー上で避けて通れない考えの集団は間違いなく「極右」か「極左」である。特に、政治的定義というものを仮に想定すると、この定義が最も本質に迫っていると思うのだ。しかるに、今の日本には「極右」はほぼ存在しない。左翼の人間が事実でもないのにマインドコントロールしやすいために用いる用語(悪態)に過ぎない。右翼の人間も同じように悪態として「極左」という用語を使いたがる。

歴史的には、ロシア革命に始まる社会主義革命は、最初は帝政ロシアを倒す行動であったかもしれないが、自然発生的か必然的か、革命の成果を世界に広げる運動につながっていった。もともと一部のユダヤ活動が黒幕(その考えでは、現在のディープステイトにつながっている)だということを考えると、その場合は必然的に個々の国家を転覆するという運動で、「極」認定である。まあ。常識的には「極左」の根本だ。この運動は「国民」という概念を拒否し、「世界市民」という概念を宣伝した。

しかるに、現在においては、超資本家の仲間内(金融・コンピューター関連・ネット関連・巨大産業など)で、国家の制限なしに、自分たちの利益追求だけが欲望化して結びついている集団がグローバリズム・世界標準などという方向を先導しようとしている。これは上述の社会主義運動という「極左」と比べて判りにくいが、僕には、同根であると思われる。国家を離れたい~国家を破壊したいからだ。これは、既に資本で世界を牛切っている連中が主導しているので「極右」というのか? しかし、今回の米大統領選でのバイデン陣営の大規模の不正事件(日本のマスコミではほとんど報道されていないが、この記事を書いている時点では、重層的な不正行為自体は客観的に証明されてしまった)は国際金融機関(ディープステイト)と中国共産党との共同作戦であることが大きい確率で認定された大事件である。「極左」と「極右」とは 対極ではないのである。すなわち、この本質は「極左」でも「極右」でもなく「極」なのである。この「極」の所以はイデオロギーそのものよりも、性格の「極」だと思うべきだとの議論は次節で触れてみる。この、集団の黒幕はユダヤ系のグローバリストだと指摘されている。ロシア革命の時も今回の選挙クデーターの時にもユダヤ民族の影が見えてくるのであるが、ユダヤ民族が全部そのような人たちと受け取るのは大きな間違いのようだ。たとえば、現在、イスラエルの国を経営していこうという国民の多くはグローバリストではないと思われる。そして、米国などに暮らしているユダヤ系の人々の多くはそういうことに関係はあまりないのだと僕は思う。

興味深いことには、ウィキペディアには、期せずして、「極左と極右の共通点」という項目を作ってあって、かなり詳しい記事が書いてあった。その最初の部分だけを引用させてもらう。・・・・・「極右と極左は、国家や社会が個人の権利に優越するという全体主義の面で、思想的・行動的に共通点が存在する。極左から極右への転向例もみられた」・・・・・

  僕は、以前から極左と極右は親和性があるという実例を複数見てきた。実は、普通程度の「左翼」や普通程度の「右翼」でもそういう相互転向は構造的になりやすい点があることも見てきたのだが、特に、極左と極右の相互転向は根源的にあることになるのだと思う。

 彼らに共通することは、ことは政治だけでなく、あらゆることにおいて、考え方(行動は過激とは限らない)が「過激」だということだ。本質的には「極」なのであり、別の言葉を使うと「短絡的」「独断的」「いろんな考え方があるということに考えがいかない」、それゆえ、「中庸や」、「そこそこ」という考えができないということだと僕は随分以前から気付いていた。すなわち、イデオロギー以前の問題が先にあり、これは本質的には「性格的事案」である。すなわち、個における「生理的基盤」の産物であると受け取ることが出来る。僕の拠って立つところの「一般意味論的思考」と「生理学的知見に基づく思考」の後者から導き出される結論である。

 

(まとめ)

「極左」「極右」の「極」は定義上、「国家転覆や国家消滅を辞さないことを内在または可能性を否定しないことを含む場合である」。そうでない場合は、極左とか極右とかの表現を軽々に使わないほうがよろしい。行動のことを指摘する場合は「過激集団」とか「暴力集団」との表現でよいと思われる。「極左」だけでなく、「極右」も、連綿とつながってきた民族の一員という意識から醸成されてくる「愛国心」とは相容れないものである。

 考え方が中庸であれば「いろんな考え方がありうる」という風な、ある種の内省的な性向があれば出てくるような考え方になるだろう、中庸な性格に乏しい人格はイデオロギーの内容如何にかかわらず(多少以上の相関関係はあるとしても)「極」に向いやすい。キャラクターの問題だと思われる。それ故、極左から極右が生じるのである。極右から極左も同じことだが、なんらかの理由でこちらの数は少ないようである。日本においての「極右」のイメージは、戦前における軍国主義・全体主義に係る言論や集団のことであり、戦後しばらくは暴力団ないし過激任侠が政治的領域に進出してくる場合のことであったように思われる。

しかしながら、冷静に受け取ると、戦後この半世紀においては、両方の勢力はほぼ完全に無力になっており、古典的な「極右」などの勢力は現在の日本には存在しないのだ。「極右」というラベル付けは、左翼の自己防御のための上手な修辞学なのである。

 

(付記)

現在の日本においては、GHQの戦後介入から始まって(米国からやってきたGHQ職員の過半数は社会主義シンパだったということだ。米国本国の民主党政権自体ががそういう状況だった。この風潮が酷すぎたので、その後、米国において議会の議員や職員に対する「赤狩り」が行われたのである。日本の政治文化において、この揺り戻しが行えなかったことが、今日の「世界の非常識の日本」につながっているのである)、東京大学(文化系)や大手の新聞社とNHK、彼らに教育や影響をうけた官僚・政治家、そしてそれ故、子供の教科書の内容に左翼的な偏向状態がもう半世紀以上も続いており、そのことが、世間の常識を左に偏向せしめているので、今の日本には、極右どころか右翼そのものが数的にほとんど存在しなくなったというのが、本当のところであろう。 日本は、伝統的に「お天道さま」(もちろん、それは、天皇ではない)をいただいている精神的には「中庸」に親和性の強い民族として続いてきたのであるから、イデオロギー一般には親和性のない民族のはずである。きれいごとの修辞学がとても優秀な左翼イデオロギーというスーパーエゴを伝道する「裸の王様」の欺瞞性は、自分の五感と自分の脳みそを信じて自己判断する癖を付ければ、大多数の民衆でも見抜くことができると思われる。

2020年8月24日月曜日

上久保靖彦論文「日本では新型コロナ集団免疫が成立している」の紹介

 なお、僕が入手した実際の上久保先生たちの論文(英文)のタイトルは「集団免疫と抗体依存性ウイルス増殖促進による新型コロナウイルスの逆説的な動態(自訳)」だった。

 この論文は豊富な図表とともに無料でネットからダウンロードできる。この論文は、編集サイトの掲載査定のタイムラグを避けるべくか(査定できる研究者を探すことが困難か)、査定前の論文として、ケンブリッジ大学のオープン論文のところに掲載されている。そこでの記録には、5月2日に初版を、7月20日に改訂版が発表されたことになっている。 

 僕は、ウィキペディアで「上久保靖彦」の検索を行って、そこの参考文献のところからこのオープン論文に辿り着いてダウンロードした。ただ、これは図表を合わせて60頁の大論文だったし、読み切る力もないので、僕の資料入手のソースはほとんどが、下記に示してあるユーチューブからのものであることを白状しておく。

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  7月16日の参議院における社民党議員側の参考人として登場した、児玉龍彦氏(東大名誉教授)は抗体大規模測定プロジェクトリーダーであるとのことだった。抗原の構造や抗体の作成において非常に専門性の高い研究者のようで、その発言にはなるほどという部分が多いのだと思う。実際に、日本記者クラブでのコロナ検査を詳しく解説しているユーチューブを見ると、図表を示しながら詳細なデーターを示されていた。 

  しかし、最初から国会での発言のトーンは高目であり、最後の「今日の勢いでいったら・・・来月は目を覆うようなことになります」と国会や政府の対応の不十分さをハイトーンで非難されている。要するに東京や大阪においては莫大な数のPCR検査を直ちに体制的にすべきだということだ。無症状の保菌者がこの地方には数多くて(エピセンター)、これを徹底的に囲い込むことだということらしい。こんなことをすれば、彼の述べている危惧(多くの商売人が営業できなくて気の毒だから、何とかしたいと述べられている)が逆にもっとひどくなることが予想できないのか不思議だ。東京都や政府が彼のこうした考えを直ちに適用することは流石にないだろうと僕は思う。野党も自分が政権を取っていたら、こういう現実的でない施策は採れないと思うのだけれど。

  この人の肩書を読むと、立場上は、この検査についての我田引水を行っていると指摘される危惧がある構造だ。現時点の日本において、この専門家の主張する対策が社会全体から見て正解であることを証することはどだい無理なことなのに、発言のトーンがそもそも冷静な科学者のようではない気がする。 

  最近は、京大ウイルス・再生医科学研究所准教授であるウイルス研究者の宮沢孝幸氏のユーチューブでの発言についてはこのブログの前号で既に述べている。宮沢氏は4月29日や7月21日その他のユーチューブで「ゼロリスクを求めることを止めるべきだ」「自粛しない感染予防」などの論点を述べておられる。僕は、これは妥当な感覚の話だと思うことは既に述べている。ただ、生活上の具体的な事柄、たとえば飛沫感染と空気感染や接触感染の実態からマスク着用、物品への接触、手洗いのこと、などに次第にありふれた話になっているけれど、その筋の話は他の発言者と同じく、なんだか常識的な話の受け売りのようであるし、ウイルス学者だからこそ判るのだというような話ばかりでもないように感じることもあるようになってきた。 

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 ところが、7月19日のユーチューブ(松田政策研究所チャンネル)に出演された上久保靖彦氏(京大特定教授)が詳しいデーターを示しながら、新型コロナ感染の実態についての解説をされていた。僕はこれを見てインパクトを受けた。これが本当なら、僕が20回くらいのブログで、経験的および意味論的観点から「集団介入をやめるべきだ」と言い続けてきたことの妥当性があるからだ。たとえ、結果論的にであっても。

 先ず、日本におけるインフルエンザ流行のタイムコースと新型コロナ流行のタイムコースとの連関が明らかになっているという知見だ。彼らの解析結果から、日本はじめ中国周辺の諸国での死亡者数が少ない理由も説明されている。

 上久保氏は前述の児玉氏と同じように抗原構造や抗体産生に関する技術的な専門家ということだ。ただ、上久保氏は世界中のこのウイルスの変異構造の登録サイト(GSAID)に集積されたデーターバンクにアクセスして莫大なマスデーターを利用するという戦略を集中的に採用して、見事に解析した結果を示しているように思われた。山中伸也氏がiPS細胞を作ってやろうと考えた時に、アクセス可能な遺伝子バンクからの膨大なデーターを利用したらしいが(多分、格安に)、そのことを思い出す。

その内容を僕は以下のように理解したつもりだ。

  武漢地方から出現した新型コロナウイルスは、抗原変異からS型 ➞ K型 ➞ G型(グローバル:武漢型と欧米型が含まれる)に変異していった。最初のS型は昨年11月頃に武漢で生じたものらしい。S型は抗原刺激が少なく僅かな抗体産生を誘発するものの、それは有効な中和抗体ではない。K型は主にT細胞主導の有効性の強い細胞性免疫を誘発するというものだが、抗体産生は誘発しない。ただ、先にS型に感染していた場合は、最終的にはT細胞のヘルパー作用によって有効な抗体の産生に転化するとされている。

S型もK型のどちらも通常の風邪症候群と区別がつきにくい程度の軽い症状が多く、G型が発生する前には中国当局さえも新型コロナの存在には気付いていないようだということだ。重症肺炎でおかしいということに気付いた多くのものはG型に変異してからで(G型の後にもさらに変異はあるらしい)、現在はこのG型感染が現実的には一番の問題となっている。

 ●G型に感染する前にS型にのみ感染していた者は、攻撃力のない抗体だけができているので、以後の感染においては、かえって細胞性免疫の攻撃をブロックしてしまい、免疫反応が無感染の場合よりかえって脆弱になっていることが考えられる(これは欧州のパターンと米国のパターン)。この現象は以前から、「抗体依存性促進現象(ADE)」(腫瘍免疫においては、ブロッキング抗体による腫瘍促進現象)として知られていた。私事だが、自分の免疫生物学的研究の議論にも大きい関連があった現象だが、ウイルス感染において現実的に影響を及ぼしている事実があることは、このユーチューブを視聴して初めて知った。デング熱の場合には既に明らかになっているとのことだった。

 ●G型に感染する前にK型のみに感染していた者は、細胞性免疫による抵抗力が生じている(これはどの地域に特徴的かわからないが、次群の地域と重なるのかもしれない)。

 ●S型➞K型➞G型の順に感染した場合は、G型に感染した時点では強力な細胞性免疫が作動し、また、有効な抗体産生もできようになるらしい(これが日本をはじめ中国の多くの周辺国、そして中国自体の主要状況らしい)。

 ●G型感染の前に先行感染がない場合は免疫が出来ていない(西欧諸国の一部などがそうなのだろう)。

なお、この分類は各国全体の様相を確率的に概観したもので、各国内での個々の住民については、上記のあらゆる区分の場合があると思われる。しかし、各国全体の様相を考えると、結論的な議論が可能な知見だろうと思われる。 

  この解析によると、日本や中国周辺の国においては、K型ウイルスの感染によって既に集団免疫がある程度生じているので、欧州と違って死亡者数が少ないということだ。欧州は2月1日頃の早期に海外からの渡航をブロックしたために、K型のウイルスが入ってこなかった。米国は前年のインフルエンザ流行が非常に大きかったので、これによるコロナウイルスに対するウイルス干渉現象として、K型の先行感染がブロックされて少なかったということも一因だとのことだ。  

 この論文から説明可能なことは以下のことだ。①各国における重症度の差は僕が前号までのブログで述べたような各国の生活水準、あるいは、他の人が述べているような人種差や政府の対応の稚拙さなどで説明しなくても、その国における変異型の感染の順序で説明できうる、②日本においては、もう集団免疫が5月の頃には既に成立している可能性が大きい、ということだろう。

 補足すると、台湾も西欧と同様に2月1日という早期に中国からの人々の流入の阻止を政府が決定したということであるが、実際は、その閉鎖の「うわさ」を聞いた多数の中国在住の人々が急いで台湾に帰国流入したので、他の周辺の諸国と同様に(S型➞K型➞G型)パターンの恩恵を得ていたということが考えられるらしい。つまり、日本を含め中国周辺国においては、免疫成立に重要なK型ウイルスの国内侵入が多かったということだ。

 日本において、S型の侵入は12月23日頃で、K型の侵入は1月13日頃ということが、コロナウイルスによるインフルエンザウイルスに対するウイルス干渉という現象を示すグラフで特定されている。

  この上久保氏の論文の内容のうち、意味論者の僕にとって特に興味深く思えたことがある。それは、日本政府が中国からの渡航を禁止したのは、欧州に遅れること1か月以上も経った3月9日だった。僕も、この政府の対応は失政だと思っているし、そのように先のブログで書いている。ところが、この政府の失政が結果的にK型ウイルスの流入がどんどん入ってきて、集団免疫がより十分に成立した可能性があるらしい。上久保先生はそういう認識をはっきりと表明されている。

 僕は以前のブログで書いたのだが、一国全体の施策は一個人の病気に対する治療と似たところがあって、ファジーな面が多いと思う。ある政策方針が確定的に正しいなどと主張する人々は「世の中がわかっちゃいない」と言いたいのだ。たとえば、不景気な時に消費税率を上げ続けようとする財務省などは、理論倒れの「裸の王様」だと思われる。「理論的には正しい治療をしたはずがかえって裏目に出た」とか、逆に、「考えが間違っていたところがあったが、運よくそれが良い方向に導いた」とかいう場合が結構あるのだ。真面目に対処していてもそういうことがある。理論はどの時点でも「論」なのであって、「真実」と限らない。

 それだから、ブログの前号で書いたように、「その目的としている効果が不確実なのに強力な副作用こそが確実だと思われる薬を敢えて用いる」というような政策を希望的観測だけに頼って採用してはいけないと思う。効果が確実であれば悩むべきところもあるだろうが、その効果が良い方向に導くかどうかは、本当は、誰にも明確なことが判らないのに、副作用だけは激烈と判っている生活介入を、今のこの日本において、まだ続けるのか?と問いたいのだ。そして、前号で述べたように、「ホモ・マスクス(Homo maskus)」というべき精神的退化人間を無暗に増やしてはいけないと思う。この半年間の官民・マスコミを合わせてのポピュリズム蔓延の結果、個人の生活上の不幸が明らかともなるし、国力の低下の歯止めの見通しもたっていない。

 上久保氏も指摘しているように、PCR検査陽性者数の増加のデーターそのものが悪いことと決まったわけではない。PCR検査陽性というのは、「そこの粘膜にそのウイルスの断片が検出された」ということしか言っていないのだ。当該ウイルスとのその時点での遭遇があることしか言っていないのだ(かつ、集団介入などする場合には、この検査の偽陰性や偽陽性の不都合さがより増大する)。上久保氏は、もう、このウイルスは日本中に広がったので、免疫が出来ている人にもまた遭遇することはあるということだと指摘されている。つまり、PCR検査陽性=感染陽性と短絡してはいけないと指摘されている。上久保氏は、「最近の数か月では、もう死者はどんどん増えてはいない」と指摘している。「重症例がほとんどでなくなっている」という事実が大切であるのに、PCR陽性数しかマスコミや行政が報じないのは「犯罪的」と言えるのではないだろうかと僕は思う。こういう考えはユーチューブでは多くの人々が既に数か月前から語っている。

 上久保氏のこのデーターは安倍首相や関係閣僚にも伝えてあるそうだ。僕の推測として、安倍首相たちはこの意見を個人的には十分考慮しているのだろうと思っている。しかし、現在の日本の政治の仕組み(諮問員会のメンバーの決め方や、その答申結果の尊重性など)やマスコミの姿勢(何でもかんでも政府を攻撃するし、自分たちの意見に合う専門家の意見しか載せないなど)によって、日本においては総理大臣でも物事が思うようには決められないのだと思う。新型コロナ病ではなく、日本の政治・文化構造が病み過ぎていると僕は思っている。この中でもキーポイントはポピュリズムを煽る「マスコミ」だろうと思われる。そして、政権にこれに立ち向かう力がないのだろうと思う。

 スウェーデン方式が正解かどうかについては敢えてここでは述べないが(上久保先生は、この国では多少の制限をしていた方がよかったと述べている)、とにかく民主的制度に従って選ばれた政府が、自分たちの信じる政策を採ることが出来るということを僕は評価したい。しかも、彼らの方針においては規制の少ないパターンなので、「冷静に事態を注視しながら」という「消エネ」姿勢を重んじていることを推察する。つまり、この件に関しては、日本よりはポピュリズム性が少なくて、より理性的であるように思えることを評価したい。理性的とは、そんなに立派なことでもなく、ただ、「ないものねだりをしない」ということだと思う。実は、このことこそが大事なことだと僕は思う。


追記(8月28日):スウェーデン在住の日本人のユーチューブを最近みさせてもらった。それによると、この国では、政府は経済や政治以外の国民衛生のことに関しては介入しないことが通常とのことだ。医療・医学の専門家の方針を尊重する法体系らしい。この国では、疫学を専門にしている一人の研究者が長らく指導的な立場にいるのだそうだ。もう一つの話として、欧州全体の疫学専門家のコンセンサスらしいものとして、「集団介入の是非につては否定的であった」らしいが、スウェーデン以外は、そのコンセンサスにもかかわらず、各国の政府が集団介入を実行したということだった。そして、スウェーデンでも全く放置していたのではなく、個別での重点的介入はしていたということだった。

 とにかく、僕は、以前のこのブログで述べたように、スウェーデンは周辺国に比べて、移民を入国させ過ぎたために(これは、ポピュリズム的失政?)、生活環境の良くない地域が増えているらしいことも、当初のコロナの影響が大きかった可能性があるのかもしれないという気がする。集団介入をなるだけしないというこの国の方針は、生活レベルが安定していて医療インフラが巨大な日本では上手くいったのではないかということは既に述べた。例年のインフルエンザ禍と比較しても実害が多くはないからだ。ただ、パニック対応すると、日本の巨大インフラも機能的に使いこなせないことになってしまうということも先に述べておいた。

追記(8月29日:日本政府が中国からの入国制限を遅らせてしまったことについて。台湾やイタリアの2月1日から1カ月遅れの3月9日であったのだが、ただ、もし台湾と同じような時期に入国制限をしていても、台湾と同じような人々の動きであったことの方が考えやすい。つまり、中国近辺の諸国は中国との直接あるいは周辺のアセアン諸国とを介しての人的・経済的の流入・流出が頻繁で密なので、K型ウイルスの侵入は止まらなかったのだろうということだ。これがオセアニアの国の死亡数も少なかった理由だろうと説明できる。上久保先生はそこまでのことを述べられていた。それよりも、日本にはK型コロナが1月13日に既にかなりの量が入ってきているので、2月1日頃に入国制限をしていても同じだと僕は思う。台湾でもそうだろう。ということは、政府の「怪我の功名」でもなかったということだ。

当該ウイルスがかなり短期間(1カ月前後)の間に広まってしまうということに関連して、公共の場で病的な程に厳格にマスクを着用するということの問題点が明らかになるということに気付かなければならないと思う。人類は、本来「数多くのウイルスとの遭遇が生活において普通のことで、それによって、大方の抵抗力が維持されている」というパターンで進化して現在に至るのである。K型ウイルスとの遭遇があったらこその恩恵であったということも、その生態上の自然の流れであったということになる。

この一連のブログで何度も述べているが、「マスクをする」という行為はマナー的にも特殊なことであるだけでなく、今述べたような自然抵抗力を獲得する機会を自ら捨て去る愚行をしていると思われる。ウイルスとの遮断の必要性が特に明確である場合や、判断が付かない場合は別にして、「マスクをしておくことは良いことだ」という判断は間違っていると思う。今回の日本におけるコロナ騒動においては、まだ「悪性度」につての状況の判らなかった2~3月は結果的に過剰防衛があっても仕方がないと思われるが、4~5月以後はコロナ禍が例年のインフルエンザ禍を凌駕する可能性は非常に低くなったことを認識する判断は可能であったはずだ。それだから、例年のインフルエンザ対応と同じことでよかったと思うのだ。

政府の方針を誤らせた諮問委員会(正式な名称は調べていないが)の指導的な医学研究者を強く非難したいと思う。ところで、ユーチューブでの露出が著しい武田邦彦先生は、「学者は自分の意見を言うだけでその責任はない。その意見を聞いて政策を選択する政治家や政府に責任がある」とユーチューブで語っていた。僕は、武田先生のことは前にも触れたが、ポピュリズムに決然と対峙した立派なことを沢山教えてくれるのだが、どこか性格的に独善的で我田引水的なところを感じる。この場合の学者は「政策決定のための重要な意見としての諮問であり、政府の方も健康や病気のことは素人で苦手だという場での意見発表をするのである」から、「責任がないはずはないだろう」と僕は言いたい。道義的な責任は大いにあると思う。事態の結果次第では進退を考えることもあるのではないか。それ程の影響力を与えたということだ。

構造的な経済破壊政策を実施(ロックダウン的な集団介入政策)して、刹那的な慰労金や補助金を一律に補給するなどは形態的に最低の政治ではないか。しかし、このことに対して、マスコミも国民も批判をしないのだ。国民は長年のマスコミ言論に汚染されて、公共の場でマスクをしない人に白い眼を向けがちである。おかしな国になってしまった。

追記(8月30日:専門家の意見の責任について。一般的には、政治家も官僚も失政については刑法上の責任はなく道義上の責任しかないので、科学者の意見展開に刑法上の責任はないことは明らかだ(ただし、ソ連体制ではあったことは有名だし=進化論と理論物理などにおいて科学者は投獄されたり獄死したりした。中共は現在でもそれがある体制だということを忘れてはならないと思う。古くは、キリスト教会は科学者に宗教裁判を行った)。さて、道義的責任はどうか。ケースバイケースのような点があると僕は思う。上久保氏はユーチューブでかなり断定的な姿勢でデーターを示して、これを政策に反映すべきだと述べている。「断定的」は「自信をもって」という方がよいのかもしれない。ただ、「反論があれば受け付ける」「間違いが判れば認める」と大人の対応をしている。一方の、児玉氏の国会での発言や記者クラブでの発言の仕方を見ると、武田氏の言うような「学者は学問の成果を述べるだけであって、責任はない」というような発言様態ではないと僕は思う。ただ、道義的責任というのは、本人の責任感の強さによって変わるものだ。いい加減な性格の人は道義的責任をあまり感じないだろうと思う。




2020年7月5日日曜日

Homo Maskus:日本人は「ホモ・マスクス」に変異している

僕は、ブログ「ヘルスコラムM」で、2003年に#24「マスクや手洗いの意義は場合によると思います」という記事を書いています。今読んでも、自分の中では通用する内容だと思っています。
 今度のコロナ禍に触発されて、このブログ「意味論コラムM」で、3月1日に「マスク着用についての雑感集」・「うがいについての雑感集」・「手洗いについての雑感集」の記事をまとめて書きました。
 これらの記事を書いてから、もう4カ月も経ちました。現在の7月上旬の日本の時点での考えを書いておこうと思いました。

 僕は、ウイルス研究の専門家でもないし、感染症の研究者でもなく、遺伝子工学や抗体産生に関わる研究者でもありません。僕は意味論の実践者として、とりあえず「それがどうした」と言わせてもらおうと思います。今のコロナウイルス禍は疾病や医療のことであるとはいえ、当初から社会現象でもあります。こういう状況で一番困るのは、実地医療の経験の乏しい医学研究者ではないかと思います。限られた研究システムの中で一定標準のレベル以上の研究成果を発表されている研究者だったら、現在のコロナ禍への対処を正しく指南できるかといえば、そう単純ではないと思います。研究の多くはあくまでも「限られた研究システム」の条件の中で得られているものです。それがシステムの外の社会事象の中でストレートに適用できるとは限っていません。
 行政の諮問機関は、基礎研究者以外にも、実地医家や社会現象について熟知している人たちの意見をもっと参考にしないといけなかったと思います。 
 特に、日頃は一般の人々に馴染みのない領域の医学研究をしている人々は、自分の研究関連のことが世間の話題になりますと、自分の研究の意義を思い切り主張するというパターンがどうしても突出してくるように思われます。マスコミがこういう記事を不安や期待感を煽りながら書きまくるので、一般の人々は「話、百分の一」の心構えで対処する必要があると思います。「マスコミの医学記事のいい加減さ」については、別の機会に書いてみたいものですが、既に2004年に「ヘルスコラムM」#41「ガンの免疫療法も泥沼です」で少し書いています。

 さて、そういう僕は、来年は後期高齢者になる老いぼれであることを白状しておきます。昔から馬鹿なところが多いのですが、老化によるそれ以上の馬鹿の進行はまだないと思っています。
 大学時代の最初の7年くらいは、マウスを用いての基礎免疫の研究をしていました。「細胞性免疫における免疫調節機構」と「それにおよぼす免疫抑制剤の逆説的な免疫増強効果の解析」というのが研究内容でした。以前から、がん免疫などの領域においては、「免疫処置をすると、かえって免疫反応が抑制される」という現象が知られていました。それと裏腹に、「動物を免疫抑制剤で処置すると、かえって免疫反応が増強する場合があることが知られるようになっていました。こういう現象は、「意味論的思考」と親和性があり、「言葉」に単純に「騙されてはいけない」ということを示唆しています。今のコロナ騒動において、人間の作った「言葉」に目くらましを食らっているところがあるのだと思います。僕の仕事は、英国の「Nature」や米国の「the Journal of Experimental Medicine」という最上級の研究雑誌に数編掲載されました。
 その後は、肺・縦郭・胸壁の外科の専門医の生活になりました。20年近くは主に大学で肺外科医として活動しましたが、いろんな種類の肺炎や肺感染症の実地医療も担当しました。また、当時の自分たちの大学では開胸術の麻酔は肺外科医の中でローテーションだったので、麻酔や人工呼吸のエキスパートでもありました。
 そして、最後の有床診療所は数年前に辞めましたが、20数年間はその責任者として、呼吸器疾患や循環器疾患を含む民間の実地医療を頑張ってきました。「風邪や感冒」「インフルエンザ」「気道アレルギー」「喘息」「肺炎」などを広く受け持ちました、この診療所時代でも開胸術や人工呼吸器の使用もおこない、ニーズに応えることを心掛けてきました。
そして、なによりも、20歳代の後半に身につけた意味論的思考を行動や研究や医療の指針に置いてきました。
 この「ブログ」はこういうバックグラウンドのもとで書いています。

 さて、本題の「マスク」の話です。
 
 前から近付いてきた人が咳やくしゃみをしたら、僕の場合は(毎回ではありませんが)10数秒の間「息こらえ」をしてやり過ごしながら歩くことがあります。相手にはそうと判らない程度です。これは、咥え煙草をしながら歩いくる人への対応も同じことです。別に目くじらを立てなくても、自分の簡単な対応で対処できると思います。
 発病を引き起こす程度のウイルス量が、戸外で気道内に入ってくることは、高額の宝くじを引き当てるより稀に違いないと思われます。単に感染が生じる程度のウイルス量としてもあまり考えられないと思います。
 誰かの呼気気流をほぼそのままに近いパターンで吸入してしまうことは、戸外ではまずありえません。アッという間に拡散・希釈されてしまいます。放射線汚染物質を海洋投棄しても妥当であるという根拠と同じです。外海や外気のボリュームは無限大に近似しうるからです。愚劣な「安全より安心」ではなく、冷静な「安心より安全」であるべきです。それを導く立場であるべきなのが、行政の長であるし、諮問委員会に召集された科学者であるのだと思うのですが、しばしば、ポピュリズムに迎合して逆をいっているように思います。
 
 最近の僕もマスクを着用する場合があります。マスクを着用せずに店に入ると、他の客が明らかに嫌な顔をすることが予想される場合です。「嫌な顔をする人の方が合理的ではない」と僕は思う場合であっても、鬱陶しい事態は避けようということを優先することにしています。ただ、昨今の状況から、高齢者の診察などの時は、マスクをしておくこともケースバイケースであります。 

 つまり、大体のところ、マスクなどは徐々にやめる方向を考え出すべきだと思います。インフルエンザが流行っている時に人々はどの程度の注意を払っているかということを思い出して、せいぜい、その程度のマスク対応をするのでよいと思います。過度の対応は、結果的に精神の劣化をももたらすと思うのです。ただ、比較的にリスクの大きい地方や時期においては、マスクでの防衛が基本である場合はあるとは思っています。

 香港の騒動でも、中共当局はマスクでデモ行進されることを嫌がっていました。最近見た「水戸黄門」のドラマでも、2組の侍同士が刀で斬り合っていた時に、善人の方を助けて悪者を成敗した後で、善人の方から「あっちの方が悪者とよく判りましたね?」という質問に、「覆面している方が悪いと思ったのです」という遣り取りがありました。マスクや覆面は相手に自分の素性を隠すという大きい一面が現にあるのです。マスク着用は、個々に応対する相手に対しては非常に失礼な態度です。
 また、以前、米国の首都ワシントンの郊外にある国立衛生研究所(NIH)に留学していた時のことですが、街の中のひとけの少ない道を歩いている時に前から知らない人がすれ違う場合、しばしば、「ヤア」という声を掛けあったり、手だけで挨拶しあったりすることが多いことを経験しました。僕も、そういう真似をするようにしていました。「僕はお前に危害を与える者ではない」とか「好意的な者だ」というサインを交わしていると教わったことがありました。単一文化の日本との極にある国だなあと思ったものです。こういう米国だから、やはりマスクはなかなか難しいのだと僕は思っています。マスクをしている者は警戒すべき相手なのです。
 香港の話は、僕は中共当局の方をそもそも支持してはいないことを表明しておくことに留どめておきます。一般的には、マスクとか覆面とかいうものは、人間生活の中で特別な対応である」という認識を持ってほしいと僕は思います。合理的に意味のある時以外はマスクをすべきではないと思います。
 特に、昨今、戸外や歩道でほとんどの人々がマスクをして歩いている光景は「異様」です。今回のコロナ騒動で、こういう事態が日常的になってしまうことが、人間の精神を劣化させていることでもあるのです。もともと、例えば西欧の旅行者が東京に来ると、マスクをして道を歩いている日本人が多いことにインプレッションを受けるようです。東洋の中でも特に日本人だけの特徴のようです。
 既に、日本人は、ホモ・サピエンスからホモ・マスクスに進化(退化?)しつつあったのですが、今回のコロナ後にその進化の固定化が進み、異様な民族になっていく危惧を感じるのです。

 ところで、やっと最近になって、西欧諸国が「何故、日本ではコロナ重症者が少なくて済んだか?」と気付き始めています。この話の前に強調しておきたいことは、いろんな識者や専門家や巷間の人々や僕自身が、その理由を列挙するにしても、そのいずれもが早々に科学的に証明される可能性は少ないと思います。もちろん、僕も含めて、真面目にその理由を考えるのですが、「言いたい放題」の状態に留どまっているのです。個々の断片的なデーターでもって多くのことを語って、早々に政策に反映することは賢明ではないと思います。
 この中で、一つの説は東洋人説ですね。日本だけでなく、台湾も韓国も被害は少ないからということです。その中でも、遺伝子説もあり、また、変異前のコロナウイルスとの遭遇が日頃から多いのだろうということからの交差免疫機序による集団免疫説もあるようです。その他、BCGワクチン効果説もありました。

 その流れで話は脱線しますが、コロナのウイルスが大便に非常に多く検出されているというデーターを示して、コロナにおいてもマスクよりも手洗いの方が重要であると主張する学者が国外にいるようです。僕がすぐに思ったことは以下のことです。このウイルスとの遭遇や感染の場が腸管経路の方がたとえ優勢だとしても、発病の仕方も重症化の臓器も気管支や肺が中心のようなので、僕は、手洗いの方がマスクより重要だとは思わないのです。発病臓器が腸管であるノロウイルスやブドウ球菌とは違うと思うのです。コロナウイルスの腸管への侵入は、かえって発病をバイパスした感染(つまり適当な免疫)という形になる場合を考えるのです。もちろん、僕のこのストーリーは単なる思い付き以上のものではありません。専門的な証拠の切り売りをしても結論はなかなか出るものではないということを、こじつけ的な物語で示したかったのです。証拠を得るにはしばしば時間を要することを念頭に置かなくてはなりません。
 なお、手指、口腔粘膜、気道粘膜、肺、というウイルスの侵入経路は、僕もあると思います。しかし、飛沫から気流に乗って気道粘膜の深部にまで侵入するウイルス量と比べると非常に少ないことは間違いがないと思います。なお、冒頭に示した「ヘルスコラムM}の中で書いていますが、ウイルスがたとえば10匹くらい入っても感染自体さえ成立しなくて、まして発病などしないのです。

 閑話休題。日本のコロナの重症化が少ないことへの理由の話に戻りますが、その中でも、この日本に特徴的なマスクの効用を挙げることが、内外の論評の中で多くなっています。いかにもそれらしいように思われます。しかし、僕は、マスクという限定的なことよりも、日本人の貧富の差が非常に少ないこと、日本人の栄養状態が良い意味で均一的であり超肥満もるい痩も少ないこと、特に衛生面での貧富の差が極めて少なく、受けられる医療レベルが貧乏な人でも外国に比べて高い水準であること、特に、現実的には高齢者にも十分な対応がなされている国柄である、などにその真の理由があると思われます。僕は、深く想像力を働かせても、マスク自体の効能は状況によっては重要だと思いますが、全般的には皆さんが思うほどはないものと思います。
 「狭い室内でのこの状況では気持ち悪いからマスクをしておこう」とか、「高齢者や全身状態の悪い人のところではマスクをしておいてあげよう」とか、「感染症で治療中の人に近づく必要のある時はマスクをしておこう」という判断をする時以外はマスクや覆面のような「おかしなもの」はやめておこうかなという知性を持つべきだと思います。別の言い方をしますと、「マスクをするという自己選択をした」時にだけマスクをするのであって、「普通にマスクをしておきましょう」というのは、見た面も精神の内面も、素晴らしいものではないと思います。

 今の時点の日本におけるマスク現状の批判を付け加えておきます。先ずは、識者・医学者・政府などが、それなりの、あるいは多少の、根拠に基づいてマスクを勧めているのであります(その根拠も確定的なものでは決してない)。しかし、その後の状態は、むしろ一般国民の多くが、「マスクをすることが良いのに決まっている」と無批判ないし無分別に思い込んでいると思われますし、いわゆる「監視国家」的にマスクをしない他人を批判する雰囲気も広まっているように思われます。「監視」をしている側の人の判断力の方がおかしい場合もあるかも知れないという考えは全くないようです。
 日本では、年間数千人の交通事故死亡者が出ます。僕たちの若い頃は1万人を超していました。人々は毎日外出するときに「今日は交通事故に遭うかもしれない」と思って出かける人は少ないでしょう。1万人でもそれが自分に当たることは1億人の日本では稀なのです。戸外でコロナウイルスが気道内に入ってきて発病するなどということは稀過ぎることが判らない程度の知性なのだということです。
 「稀過ぎるとしても、ゼロでなければ納得しない」という人がいたとしたら、「そもそも、人生でゼロか百かというのはないのだ」ということを教えたいのですが、そういう人の耳には入らないでしょう。そして、これは個人の考えの自由であるから、僕も仕方がないことは判っています。ただ、こういう理性の乏しい考えを行政の指針に反映させてはいけないと思います。
 「完全に安全でいたい」というような、どうしても「勝ち組」の方に入りたいという感じが、昭和が去って次第に増えてきたように感じます。まあ、日本も実際は貧乏生活ではなくなり過ぎてきたことや「しなければならないことが自分ではわからなくなった」ことと裏腹なのだと僕は感じています。「明日の生活のためには今日を働いておかないと」というような、考えによっては至極当たり前の人々にはありえない考えだと思うのです。考え方が贅沢になり過ぎるように洗脳されてしまっているように感じます。

 日本のマスコミをほぼ信用していない僕はユーチューブをよく見ます。対談や数名の発言者がいる場面で、昨今ではみんなマスクを着用しています。マスコミの似非文化を批判しているまさにそういう番組でもマスクをしたり、透明プラスチックで出席者同士を隔離しているのが普通のようです。不特定多数ではないこういう状況で、一体全体誰から誰に感染することを想定しているのだろうと不思議です。こういうポピュリズム的な対応はケースバイケースでやめていって欲しいと思います。
 その無思考さが端的に判るのは、家族同士のようなのが2人で車に乗っている時に、二人ともマスクを付けているのです。対向車にそういうのを高頻度で見ます。「誰から誰に感染することを想定しているのか」と問いたいです。僕には「間抜け」にしか見えません。しかも、車は窓を締め切ったままです。やはり、「間抜け」なのです。マスコミ・似非文化人、精神の劣化、間抜けな行動、となり、そして、無意識的ではありますが、「個人主義的」パターンになっています。「夫か妻かどちらかが助かろう」という極限の難事の状況でもあるまいし、やはり、「間抜け」だと思います。 

 さて、人が病原菌と出会う場合のカテゴリーにおける医学上のイロハとして、「感染」と「発病」とは違うのです。ここで説明することは僕には難しいのですが、皆さんは、ウィキペディアなどで「感染」と「発病」を検索してください。単に人が病原菌と「遭遇」の程度はしたけれど、「感染」までは至っていないという場合もあります。
 「感染」の段階では、ある程度の病原菌の数があり、多少は当初の粘膜での増殖があったりで、生体側も多少の防御反応の発動があったりした相互作用が多少ともあるということでしょう。その結果、早々に排除してしまった場合は「感染」だけで終わってしまいます。その結果で得られる免疫能については、「免疫はほとんど得られなかった」から「強力な免疫が残った」までのいろんなパターになるでしょう。これも決定論ではないのです(個人差や状況の差がある)。
 そして、「感染者数」(実は、PCR検査の陽性者数)だけを新聞紙上やテレビ画面で示しても、その意味するところが曖昧過ぎるのではないかと思われるのです。「軽症発病者数」も結果的には通常の風邪のようなことで大したことではありません。「重症発病者数」や「関連死亡者数」を重点的に表示することにとどめるべきだと思います。「PCR検査の陽性者数」だけを載せてポピュリズムを煽るべきではありません。マスコミとそれに引きずられた行政がパニックを作っているのです。
 感染者数が急激に爆発することを阻止したいということは「まあ」妥当な判断のようにも思いますが、徐々に少しずつ感染者が増えていくことは自然の成り行きで、それは望まれる方向なのです。大多数の国民をそのウイルスから永続的に隔離し続けるということは無理でもあり、いつまでも免疫の得られない大きい集団を抱えるということで、それ自身大きいリスクなのです。この方針を続けることが結果的に正解である場合は、そうこうして時間稼ぎをしている間に優秀なワクチンが利用できるようになる場合か、そうこうしている間に日本国内のウイルスが消失した場合だと思います。前者は実質上今年中では解決しないだろうし、後者は長期間にわたって鎖国しておかないと大きいリスクを抱え続けていることになります。
 だから、半年も経過した現在では、感染者は少しずつ増えた方が自然だし望まれることなのだと思います。しかし、最近でも、「東京で百人を超す感染者が増えた」と言って騒いでいるのです。東京で数百人というのは「少ない」と思わないといけない。しかも、陽性数が増えたと言っておきながら、ロックダウン以前の検査実施者の母集団の数とは同じではなくて、比較ができない初歩的な間違いの報道をおこなっているのです。

 感染陽性とか陰性とか言ってはいますが、その実際のことはそんなに単純ではないのです。日本では、PCR検査をしている大部分は、風邪ないし肺炎に相当する可能性がある有症状の人の一部が対象者です(陽性者と接触した無症状の人も検査の対象になっているらしいことは別として)。そうすると、陽性と判定された人は「単なる感染者」ではなく、直ちに「発病者」ということになります。ところが真実はさらに別にあることもあります。こういう有症状の人々が沢山いますと、確率的にはコロナではない人がもともと多いはずです。毎年、風邪症候群は多いからです。そこで、コロナ陽性の判定が出ても、実は「その人のコロナ陽性は単に感染した最近の歴史を語っているだけで、実は、別の病原菌の発病か、あるいは普通の風邪症候群なのである」ということも、実際は少なくないことが考えられます。もともと、細菌同士やウイルス同士の混合感染やウイルスと細菌の混合感染ということはしばしば存在することは知られたことです。
 しかも、現在のPCR検査の感度がせいぜい7~8割で特異度が9割強であり、当然のごとく十割の信頼度ではないし、さらに、「陽性」であっても、それは「発病」を起こす程度のものか「感染」で終わる程度のものかまでは判りません。しかし、このことは適切な免疫が成立するかどうかに関係することであり、「陽性」が困ったことと限ったことでもないはずです。このことは、抗体検査においても同じような曖昧さが残ります。
 さらに、先週は「陰性」でも今週は「陽性」のこともあるはずだし、じゃあ、検査を何度すればよいのかとか、・・・・・、曖昧なことが非常に多いのです。
 ついでに言えば、「新型コロナでは無症状の人でも他人に感染させる能力がある」ということを報道からよく聞きますが、僕は、これはそうであることに疑問を持つのではありません。「だから、気を付けなくてはならない」というのも疑問はありません。しかし、読者を怖がらせていることに重点が行き過ぎていると思います。「感染しても発病しない人が多い」という別の側面の事実をもって多少の安心を持たせる報道は決してしないのです。「不安を煽ってなんぼ」の姿勢を貫いています。

 もう少し経ったら、良い検査が開発されて、有効な治療薬が出てくることを期待させる記事が多いですが、これは特に、ユーチューブでも多いです。そういう開発への適切な努力は期待されるべきでしょうが、せいぜいは十数年の間に成立しているインフルエンザに対するものの程度であることが僕には予想されるのです。その検査や治療薬の精度や有効性は、実は大したことではないと僕は思うのです。期待させる記事を提供するのは、提供する研究所や会社なのだということを認識しないといけないと思います。ただ、そういう施設が必ずしも誇大宣伝をしようとしているとも限らないと思います。マスコミがそういう誇大宣伝的な書き方をしている場合が多いと思います。これは、僕の経験からの確信めいたものです。
 
 いまだに、マスクをしている人が多過ぎるのは、「規制を緩めたら、また感染者数が増えるだろう、とか、増えた」という報道が影響していると考えられ、人々がこの報道を無批判に受け入れているからです。
 ところでこのコロナ感染症においても、初期の頃、何かの音楽ライブ会場で感染が証明されたという報道がありました。以来、ライブなどの密集は避けようという流れが出来ました。その当初は、まあ妥当な考えだったとは思います。しかし、その当時でも、僕は「オヤッ」と思いました。そのライブでの認定感染者は一人でした。一人でも世間のインパクトは強かったようですが、あの密集した空間に汗や唾液が飛び交うライブで一人、あるいは数人程度であれば、感染力は非常に低いという見方もないとおかしいではないかということです。
 結局、普通の若者や壮年者ではせいぜいインフルエンザ程度の感染力しかなかったという想定もできたのです。高齢者や病人に対しては慎重な対応が妥当であったのでしょうが、学校の閉鎖もおかしな話だったと思います。(ただし、スウェーデンでは、高齢者の死亡が多いことは仕方がないということが一応のフォーマルな考えだという記事を読みました。そういう考えもあるいは成立するのです)。なお、子供の感染を抑えると、老人の発病者の抑制につながるという疫学データーが複数あるようですが、そうであっても、数か所の大都市圏の他には適用すべきではなかったと思います。
 
 今度のコロナ禍は全地球的には大問題の一つになったことは確かなようです。世界の多くの諸国は、貧富の差が非常に大きくて、生活環境や医療環境の悪い部分が大きいので、そういうことになっっているのだと、僕は思います。そうであれば、このことからも、日本は良きにせよ悪しきにせよ、もの凄く特殊な国であることを自分たちの頭で理解する必要があると思います。常に不安を募らせて成立している日本のマスコミ論調に騙されては間違うと思います。
 日本国内においてのコロナはインフルエンザに比較しうる程度の「悪性度」ですので、インフル並みの対応にすべきだったのではないかと、この3カ月の間思っていました。今後のいろんな領域での組織活動の破綻や経済の停滞は、マスコミ・政府・民衆による「人災」だと思います。民衆の責任性については戦後長らく似非文化人やマスコミに洗脳されて、精神が劣化して相互監視の雰囲気を作っている当事者の一員でもあるということです。これにより、罪もないはずの飲食店の経営者や店員をはじめ、多くの職種に不幸を与えたのに等しいのではないでしょうか。

 スポーツの大会もほとんどが延期ないし中止となっています。オリンピックは他国の問題があるので延期は仕方がないところでしょうが、国内のスポーツは開催してもよかったのではないかと僕は思います。甲子園野球の大会も中止になりました。最悪でも、応援団だけ、または部員だけが球場に入るパターンで開催もできたはずです(僕個人は、大手マスコミが高校野球だけをエコひいきするので、子供の頃には大好きだった甲子園大会は今では絶対に見ません)。そして、テレビ放映をしておくという選択があったように思います。他のスポーツも右になれで中止となりました。最近、プロ野球とプロサッカーが無観客試合で始まりましたが、これなら開幕を延期することもなかったはずです。前述の音楽ライブでも大した集団感染がなかったともいえますので、スポーツ大会も観客の定員を多少減らしての通常の開催もありえたと僕は思っています。世界の強豪になったバドミントンは今年の試合は中止だということですが、やはり「人災」のように思います。ひとの人生をどう思っているのかと僕は言いたいです。

 開催されたプロ野球を数日前にテレビでチラッと見ました。ベンチの選手や監督はマスクを着用していました。やはり、僕には、異様に見えました。本気なら、ベンチの前に椅子を並べてそこに坐り、(そこは戸外であるので)マスク着用はやめたらよいと僕は思いました。僕なら、その時点でその集団にウイルス陽性の者が明らかでなければ、ベンチでもマスクはしないでよいと思います。
 僕が理解できることとして、何故、こういう厳しすぎる自己規制をするのかと言えば、それは、今のコロナ感染においては、一人でもウイルス陽性者が検出されると、その集団がロックアウト的状態にさせられてしまうという、大きい影響が及ぶからでしょう。インフルエンザの場合は、その陽性者だけを退去してもらって、残りの集団はそのままというマイルドな対応をしているのです。僕は、ずっと、基本的にはこういうマイルだな対応をしておけばよかったのにと思っているのです。多少は、コロナによる犠牲者が増えたことは推定できますが、社会全体の被害はこちらの方が遥かに少なかったことを想像するのであり、加えていえば、1年間という長いスパンでのコロナ被害者数の収支決算ではどうなっていたかは断定できないかもしれないと思うからです。

 スポーツで思い出しましたが、僕の生活圏にはみんながランニングをしたり、子供を遊ばせている広い多機能運動公園があるのですが、ランニングしている人も親子で遊びに来ている人たちも、大半がマスクをしているのです。「異様」な景色です。こんな広い野外でマスクしている人に至っては「間抜け」という他はありません。走っている人に至っては信じ難い光景です。

 ところで、インフルエンザでも年間1千万人以上の感染者とされている人が検出されています。そして、時々は学級閉鎖や職場閉鎖くらいの対応がなされています。そういうシーズンの最中であっても超過密の山手線が稼働し続けています。この事実は、他のユーチューブの記事で教えてもらいました。僕も「ああ、そうか」と気付きました。物凄い状況とは思いませんか。それでも昨年までは全員が車内でマスクをしていたわけでもなかったはずです。インフルエンザの感染力はかなりの強さと認識されているのです。この山手線はインフルエンザのワクチンがまだ整っていなかった時にも同じように超過密でした。
 あるウイルス研究者(宮沢孝幸・京大准教授)の意見では、車内で大声でしゃべったり咳をしたりでなく、普通の呼吸だけではそんなに感染しないだろうということでした。ただ、マスクはしておいた方がよい前提の考えのようでしたが、ドアが数分ごとに開閉するので、基本的にはそんなに感染するものではないということでした。ただ、百パーセントの保証を求めるのであれば、それはないということでした。百パーセントを要求する方が現実的でないことは自明だと僕も思います。僕は、この先生の考えは妥当なものだと思っています。基礎学問における知見に加えて、実際の社会の実態への的確な想像力を兼ね備えている方の人だと思いました。多分、マスコミにおいては厄介な発言者の扱いになるでしょう。

 以上のことをつらつら書いていますと、今の日本におけるコロナ対応におけるパニクリ方は、ホモ・サピエンスから判断力などの精神が退化しつつある現象を示しているように僕には思えるのです。ホモ・マスクスにならんとしています。
 そういえば、日本民族においては、昭和の後期からか、もともとの「清潔好き過ぎオタク」に加えて「抗菌繊維」という物も出回ったりしました。僕は、二つのことを思うのです。一つには精神的に贅沢になり過ぎたことです。そして、実際に、多数の平均的な日本人の生活は贅沢が許されるようになってきたのだなあということです。二つには細菌やウイルスとの共生で僕たちのエコロジーが保たれているのに、清潔好きになり過ぎると、それが壊れたり、抵抗力が弱体化したりするという想像力が欠如しているということです。他の領域とのバランスがとれた対応を模索する考え方が適切だと思うのです。
 「健康オタク」や「清潔好きオタク」から脱却した方がよいと思います。この点においては、まあ、日本人と米国人を足して2で割ったくらいでよいのではないでしょうか。

(7月8日に全体を読み直して、多少の訂正・加筆をしました)
 (このブログ内容は、7月18日にユーチューブにあげました)https://www.youtube.com/watch?v=V4MyhM3N50E

 追記(8月29日:最近の新聞記事に韓国在住の日本人の報告のようなものが載っていた。現在の韓国では、マスクをしていないと知らない人に殴られてしまうこともありうるらしい。歴史的に韓国は周囲の人々との関係が日本以上に濃厚らしい。ホモ・マスクスへの進化(退化)につては、日本は韓国に勝てないようだ。また、日本とは進化の経路が多少違うと思う。

 

2020年6月17日水曜日

コロナPCR検査を集団対策に用いる不都合さの根拠

前号において、現行のインフルエンザ(インフル)や今回の新型コロナ(コロナ)についての感染の有無を判定するための検査における検査自体の信頼度についての概要をデーターで示しました。繰り返しますと、例えば、1千万人の集団にこれらの検査をした場合、仮定陽性率が1%の場合(本当の陽性者は10万人)では、2万5千人の偽陰性と49万5千人の偽陽性が出てしまい、仮定陽性率が10%の場合(本当の陽性者は百万人)では、25万人の偽陰性と45万人の偽陽性が出てしまいます。それぞれ、50万人と70万人の誤判定が出ているという言い方もできます。誤判定率としては約5%(20分の1)です。
 誤判定率が5%程度であるということは一般的な臨床検査の精度としては非常に優秀であると思われます。それならば、「この検査結果の集積を集団への介入の直接的な参考にしてよいではないか」という話になるかといえば、僕はそうではないと思います。集団への介入の程度が「そこそこ」とか「市民の生活を破壊しない範囲内の可能なこと」であればそういう話になることもありますが、集団への介入策の程度を可及的に厳しくする(ウイルス感染の拡大を完全を目指して防止する)ということであれば、「この検査は20件に1件の誤判定が出るようないい加減な検査」という位置づけになってしまい、そういう検査の結果で厳格な対策の適用が左右されるということは完全な「自己矛盾」に陥っているからです。

 もう4~5カ月も経過しているのにもかかわらず、今回のコロナにおける感染防止の対策は非常に厳格であり続けています。先ず個々の現場での対応が厳格であります。いかにも日本らしいです。個々の現場では、一人でもコロナ感染者がいると判定されると、その施設は自主的に閉鎖されてしまうのです。第三者からの非難の目を気にせざるをえない雰囲気のためにそうなってしまうのです。マスコミが先ず感染者が判定された施設を同定して広く報道してしまうから自主規制をするほかはないのであります。それだけでは済まずに、さらにその後、政府や自治体が市民への実質上の生活介入を厳しい条件で示してしまいました。

 別の言い方をしますと、このウイルス感染を真面目な意味で「そこそこ」の程度に抑制するというのであれば、この検査の結果の集積は現在や将来のためのなにがしかの参考になると思いますが、ウイルス感染の蔓延をできれば完全に防止するという方針であれば、この検査での偽陽性者には「本人にとっては大変に気の毒な生活の制限」を強要するし、偽陰性においては「感染防止の目的からは多数の見逃しが野放しになっており抜け穴だらけの状態」になっています。

 つまるところ、「ウイルス蔓延を完全に防止する」という方針が実際上では無理なのであって、「妄念」でもあり「ないものねだりをしている」ということであります。中身を伴わない「きれいごと」を言っていると思われます。どうも歴史的には欧州各国が先導しているようなイデオロギー的な感じも僕には感じられます。このブログの一貫したテーマである「似非文化人」的な「きれいごと」の言論が今や実地医学領域にまで席捲しているという受け取り方もできます。
 まあ、サプリメントのような怪しい効果しかない商品に大手の化学系のメーカーが参入して世の中を席巻しているし、「安全より安心だ」という為政者が主張する言葉としては信じ難い暴言を吐いてもリコールされない日本であるから不思議でも何でもないのかもしれません。
 なお、開業医などの実地医療関係者は僕の考えに似たような意見を持っている人々が比較的多いような巷間の情報を僕は伝え聞いています。社会上の立場は立派でも実地の医療の実態の経験のない学者はかえって訳の分からないことを発信してしまう人々が目立つように思われます。メディアで目立つだけで実際に多いとも限りませんが、そういう意見の医学者をマスコミや行政が選択的に採り上げているようにも思われます。

 一旦水際遮断作戦がうまくいかなかった後に、全国的に感染者の存在がパラパラ見つかるような状況ということは、そのウイルスがある程度は国内にひろく散在していると受け取らなくてはいけません。その多数は幸いにも発症しなかったり非顕性の発症をしたり軽症発症した保菌者の体内に存在するものであろうと推定されます。
 ウイルスは感染した宿主細胞のタンパク製造装置がないと自己増殖できないので、絨毯爆撃で検査しまくって保菌者を発見して、感染陽性の人々を完全に隔離すれば万全な対策のように思うかもしれません。しかし、先ずは二つの問題点に直ぐに気付くではありませんか。一つ目は、ウイルス感染を判定する検査そのものが5%くらいの誤判定をする程度のもので、ある意味ではいい加減な代物である。二つ目は、相当期間を完全に隔離されるべき人たちの全国の総数を考えると、こういう政策は直ちに国内の活動を機能不全にしてしまう。

 僕がお勧めすることはダブルスタンダードを適応することです。全国に散在すると想定される保菌者からのウイルス暴露が周囲に生じても、確率的には軽症者を再生産する場合が多いと思うのです。こういう集団についてはコミュニティや政府が生活に介入しないでおくことが実際上の正解だと思うのです。これにより国内の生活や経済の機能が維持できます。
 なお、高齢者やある程度以上の全身疾患の持ち主については、状況により、妥当な範囲での感染防止策をすることが推奨されるでしょうが、そのことにおいても、その人たちにおける日常の治療を制限せざるを得ない程度まで考えるかどうかはケースバイケースであるべきだと僕は思います。
 一方、臨床的にコロナ関連の重症感染者と判断された患者からのウイルス暴露は次の重症感染者を再生産する確率が高いと想定されます。その理由は、一つにはその個体からのウイルス飛散量の多いことで、一つにはその個体のウイルスにおける変異の程度が重症化に寄与していることが想定されます。これは現時点で証明されているとは言い難いのではありますが、事態は動いているのだからこれくらいの作業仮説は許されてもよいと思います。コロナ感染による重症患者だけは慎重な感染防止対策を適用しながらの治療を行うということです。

 そもそも、現実の疾病の診断というものの多くは、全てではないにしても、診察や聞き取りや諸検査結果などからの総合判断なのです。純粋科学の証明などが適用できるような世界ではないのです。そのことは診療所であろうが基幹病院であろうが臨床医が皮膚感覚で知っていることです。その診断の大きい戦力の一つの参考資料として、ウイルスPCR検査というのを有効に利用しようという認識であるべきです。そうしますと、誤判定率が5%であるような検査も治療の確率的正解に向けてそれなりに役立つことが期待されるのです。
 臨床診断や治療はそもそも真面目に対応してもアバウトな部分があります。臨床医はそもそも目の前の一人の患者における診断と治療について(治療しないのも一つの対応ですが)真面目に対応するということが出発点です。そういう場においてもアバウトな部分があるのです。この曖昧な部分をなるだけ減らさないように工夫しなければならないことは明らかです。
 ところが、この話を集団の話(疫学といいましょうか)に持ってくると、話が難しくなります。集団における統計処理のデーターの方が個人個人に対応していることよりも、真実が見えてくることがあるということで、大きい意義があります。しかし、こういう個別性を消したデーターを再度個人の世界に戻す作業になりますと、現に個別性を有している患者においてはそのまま適用できないことも生じてくる可能性があります。
 そういうことなので、診断や治療のガイドラインというものは、全部の医師が機械的に従うべきものではなく、また、全部の患者に適用すべきものと決まったことでもないのです。特に、専門医の方が、真面目な理由があって、しばしば「ガイドライン破り」をしていることがあるように思われます。

 医療や生活のことについてはなるだけ個人個人の指針の参考になるデーターを示す程度にしておいて、地域や政府が個人に対する身体的または心理的な強制力を行使することはできるだけ避けた方が宜しいと思われます。
 そこで、今のコロナ騒動が「政府が認識する国家非常事態」に相当するかどうかが国民に対する強制という是非の分岐点だということは多くの人が思っていることでしょうし、僕もそう思います。僕たちは、否が応でも、現実的に、国家単位で生活しているので、それは仕方がないことです。 
 僕からしますと、日本政府が東京五輪を延期するという判断をした頃からその後には冷静に考えることができて、日本における今回のコロナ感染症の「悪性度」は例年のインフルのそれと比較しうる(comparable)程度であろうことが判ろうと思えば判ったはずだと思います。そうしますと、その後の国家非常事態的な表明は、僕には犯罪的な政府の失政だと思っています(結局、多数の国民の生命や健康や生活を確実に損なったに違いがないと思うからです。効果が不確実なのに強力な副作用の薬を用いたに等しいと思うからです)戦後の日本政府は、綺麗ごとを言い募るマスコミやいわゆる有識者の圧力により大いに劣化してしまったと僕は思っています。

 さて、ウイルス感染➞発病➞重症化➞死亡という各段階を考えてみますと、理論的には、「先ずは微量のウイルスの暴露を受け、そして次第に何回か少しずつウイルスの暴露が増えていく」というパターンが免疫防御的には安全にやり過ごすパターンだと思われます。予防ワクチンもそういう意図のものです。もちろん、こんなパターンを生活の中で意図的に実践することはまあ無理です。しかし、思考実験的にはこれが正解の一つだというしっかりとした認識だけでも持っておくべきだと思います。
 この観点から導き出されることは、厳重なロックダウン対策や政策はかえって愚策だったかもしれないという疑念が湧くということです。早い話が、日本はスウェーデン政府が考えたような「集団免疫を時間をかけて強化していく」方針が正解であったという言い方に落ち着くのです。
 これこそ、この数十年にわたる日本のインフル禍における日本人の対応であったのです。ワクチンの効果については判断する根拠を僕はあまり勉強できていませんでしたが、タミフルなどの治療薬の効果は世間が確信しているほどにはないように思っています。つまり、個人への防疫の指針を示したうえで、個人の自主性に委ねることが主な対応であったのです。一般的には、マスクや手洗いの推奨であったし、度を越した集団発生に対してはその集団だけの短期間の学級閉鎖や職場閉鎖を求めただけです。
 こんな対応だけでは、ウイルスの拡散防止が完全に近い形で収まるかというと、もちろんそんなはずはありません。しかし、冷静に考えると、この程度が最も妥当に近い対応だったはずです。日本人一般の清潔好きや従順性を考えるとこれが正解で、コロナに対してもこれで良かったはずです。
 ところで、日本人の識者の一部はしばしば、北欧や北部欧州の国々の政策や生活規範は素晴らしくて、日本も大いに見習うべきだと言うようですが、僕は全然そうは思っていません。どの国もそれなりの個別的な理由があってある政策を採用しているに過ぎません。そもそも1億人を超す人口を抱えた人口大国の日本が欧州の人口少国の真似などをしてはろくなことが起きないと思っています。
 最終結論はまだ先の話でしょうが、スウェーデンの集団免疫政策はどうも失敗だっという情報は伝え聞いています。僕は、もし、当面失敗しているのであれば、それはスウェーデンの他の国内要因によることが大きいのだと思っています。例えば一般国民に対する医療費自体が少ないとか、最近この国は多数の移民を入れてしまったので、生活や衛生状況の不良な地域が増えているなどの問題があります。

 この号での結論として、コロナPCR検査自体の不都合については問題性が相対的に低い話になってしまっています。
 僕は、インフルについては、実地診療で実態をよく知っていると思っていましたが、今回のコロナ騒動を契機に長年扱ってきたこのインフル検査の誤判定率が滅茶苦茶高いことに初めて気付きました。それでも、経済というものは「みずもの」で、真剣に考えると不正確極まりない検査であっても、そのことで利益を生み出して生きている企業などの集団もあります。経済活動全体を俯瞰しても、なんだかマスターベーション的な部分も大きく、贅沢や無駄も多過ぎるともいえます。しかし、既に巨大な有機体になってしまった経済というものにはあらがうことも難しくなっていますし、自分もその中で生活させてただいております。
 そういう意味では、コロナPCRやコロナ簡易検査を製造する企業は利潤を求めて増えてくるでしょうが、これは自然の成り行きでしょう。しかし、そんなに超優秀な真判定を誇るものは出てこないと僕は思います。現在のインフル検査の程度がいまだに褒められたものではないという見方もできるからです。
 つまり、この曖昧さの残る検査の結果でもって、人々の生活に強い介入をすること自体が「不都合さ」の所以だということです。この点においては、日本政府や自治体の介入もさることながら、大多数の日本国民の自主的な自己介入の方により根源的な問題が存在すると思われます。
 そもそも、他国であれば、政府が生活上の指令を出しても、「自分は自分だ」という人々が多いのです。特に米国ではこういう人が多いようです。世界の中では、日本人の異様とも思われる従順さの方がが特殊なのです。それは、思いやりの精神という優しさ・恥の精神という高潔さ・自分の価値を他人の評価で確認するという幼児性・お上の言うことやマスコミの言うことを無批判に受け入れてしまう(自分の考えはなく、スーパーエゴに支配されている)などが入り混じっているように思えます。良い部分もあるでしょうが、感心できない部分も多いと思います。
 
 次号で、「ホモ・サピエンス」ならぬ「ホモ・マスクス」にならんとする日本人の問題点を述べたいと思います。

 (このブログ内容は、6月27日にユーチューブにあげました)=
  https://www.youtube.com/watch?v=ycGyp5rbHWU






2020年6月16日火曜日

コロナPCR検査を集団対策に用いる不都合さを示すための計算値

 このブログの「ウイルス診断キットについての雑感集 ①」において、臨床検査の感度と特異度という信頼度についての説明をしています。今年3月8日に公開したものです。
 この内容は、2月26日のプロポ先生のユーチューブ(医師解説: 全員にコロナウイルス検査をしても意味が無い理由: https://www.youtube.com/watch?v=cmI_6UGHXRI&t=173s)という記事を読んで、それを補足してさらに解りやすくしようと意図したものでした。ただ、この説明の出発点であるプロポ先生の資料は、通常の疾患のマーカー検査が想定されていると思われ、これをそのまま「感染の有無の検査」の説明に適用~内挿する場合に僅かな問題があることに気付きました。つまり、この時の検査の精度である「感度」(真陽性と偽陰性のこと)と「特異度」(真陰性と偽陽性のこと)がそれぞれ、90%と80%ということでした。この数値は、通常の疾患に対するマーカー検査としては、際立って精度の高いものだと僕も判断しています。しかし、今回の「感染の有無」というテーマにおいては、実態と多少の差があるということです。
 すなわち、従来のインフルエンザ(インフル)において広く用いられているウイルス抗原検索のものであっても、新型コロナ(コロナ)において用いられているウイルス遺伝子検索のものであっても、感度はもう少し不良である一方で、特異度はもう少し優秀なものであるらしいからです。この検査の精度の差によって、得られる計算値に大きい差が出てしまうことに自分の計算の際に気付きました。
 5月7日にこのブログで公開した「新型コロナから見えたもの:インフルエンザの治療っていい加減過ぎることに気付いた」に示したごとく、「インフルエンザ迅速検査の感度は50~70%、特異度は90%以上」ということですし、現在コロナに用いられていたり、今後開発されてくるはずの検査においても似たり寄ったりのことのようです。
 つまり、大凡のところの感度を75%、特異度を95%という程度での計算値を示すことがより現実に近いものであって、この条件での計算結果によってこの検査を集団に適用することの問題点が明らかになったと思います。
 プロボ先生のたたき台の条件においては、特異度の精度が相対的に低いので、偽陽性がとんでもなく大きくなっています。しかし、こういう場合もありうるということです。

  以下の表で、コロナPCR検査の実態に近い条件としての計算結果を示しました。つまり、検査の感度は75%で特異度は95%という設定です。ただ、ここでは集団の仮定陽性率として、1%と10%の2つの場合を示しましたが、他の場合でも同じように計算して結果を出せば状況がよく判ると思われます。
(表1) 

 この表からいろんな結果を知ることが出来ます。例えば、1千万人の集団にこの検査をしたとします。仮定陽性率が1%の場合では、2万5千人の偽陰性と49万5千人の偽陽性が出てしまい、仮定陽性率が10%の場合では、25万人の偽陰性と45万人の偽陽性が出てしまいます。
 この偽陰性と偽陽性の数を少ないと受け取るか多過ぎると受け取るかは、このデーターを以て医療現場や行政などが公衆衛生的に介入する選択するかどうかによって大きくかわることになると思います。このことに関する議論は次のブログで述べることにします。

 ただ、この号において予め述べておきたいことがあります。こういう臨床検査の個々の結果は(偽陽性や偽陰性が含まれるという前提で)元来は被験者の治療方針を決めるための参考資料です。これをその個人以外の集団に対しての対応に用いる根拠は a priori には証明はされていないと思います。
 その根拠が生まれてくる場合の例としては、臨床研究パターンにおける「後ろ向き研究」に相当ないし近似するデーターが偶然か意図的にか得られた場合にありうるのではないかと思います。つまり、今シーズンで得られた知見は次のシーズンに役立つことがあるかもしれないと思うべきだと思います。そのための検査なら予算があれば積極的にすることは悪くはないでしょう。
 何故なら、徹底的に感染を避けることを第一優先にすべきではないことは判ったはずだからです(あらゆる面での感染を厳密に阻止するという方針は、社会的な副作用があまりにも大き過ぎるという因子を無視できないからです)。関連死亡者や重症症例をなるだけ増やさないことだけが目標であるべきだからです。この感染症の死亡率が10%などという恐ろしい場合なら話は別ですが、少なくとも日本においては、インフルと比べられる程度のものであることは判ったはずです。
 最終的に関連死亡者数や重症者数の推移を規定する因子がなんであるかについては、今シーズンの最中においては実際上も学問的にもまだ明確になったわけではありません。当面は、従来のインフルにおける感染防止のマニュアルの程度が正解であるとしておくべきでしょう。こういう一般状況の中では、この検査におけるこの偽陰性や偽陽性の存在が大きい不都合になることがわかると思います。コミュニティにおける多数の無関係者(bystander)に根拠の乏しくて副作用の大きい強制を強いることになるリスク(というより現実)を人為的的に作ってしまうべきではないと思います。


 参考までに、同じような表を載せておきます。感度をかなり優秀な90%ということで固定して、特異度を90、99、99.9%と非常に優秀な場合を含む3条件で計算しておいたものです。最初はこのデーターを示そうと思っていましたが、その後、感染症に対する検査の条件と多少違うことに気付いて採用しないようにしたものです。このかなり優秀な検査結果であっても、人口集団の生活への介入の材料に使うとすれば、この程度の偽陰性や偽陽性の実数の程度でも大きい不都合になってくることになると私は思います。その議論も次のブログでする予定です。
(表2)




  これらの計算値を得るために用いた簡単なフォームを参考までに載せておきます。
(表3)