2021年8月21日土曜日

2つの投稿における「偽陽性率」の誤記を「陽性非適合率」に訂正します

コロナ検査の陽性・陰性の結果における議論において、種々の用語を使っています。いずれの用語にもその定義があります。この一連のブログで、検査の「感度」「特異度」「真陽性」「偽陽性」「真陰性」「偽陰性」という用語を使っています。これらの用語と、集団全体の「陽性率」(または「陽性者率」)「陰性率」(または「陰性者率」)という用語の使い方には間違いがないと思います。 

しかし、このブログの議論において重要な因子として用いた「偽陽性率」という用語は、完全に間違いであることに今しがた気付きましたので、恥ずかしながら訂正します。チェックした結果、誤記した投稿は「現状のコロナPCR検査結果で判ること(「公的な」ネット公開資料による」と「その続編」の2つだけだったと思います。誤記した投稿は書き換えました。

間違いに直ぐに気付いた方々は少なくないと思われますが、コメントを受け付けておりませんでしたので、長い間、気付きませんでした。

正しくは、「偽陽性率」=偽陽性 / 真陰性+偽陽性です。それは、陰性であるべき集団(=真陰性+偽陽性)の中での「間違い結果」の比率のことでした。 

この一連のブログでは、「偽陽性率」=偽陽性 / 真陽性+偽陽性、として計算していました。というより、偽陽性 / 真陽性+偽陽性という因子に重要な関心を払ってきましたが、それを「偽陽性率」と間違って表現してしまったということです。 

成書には、「陽性的中率」=真陽性 / 真陽性+偽陽性、という用語が定められています。それ故、僕の関心を持っている因子である「偽陽性 / 真陽性+偽陽性」=「1-陽性的中率」というのが学問的に正しい表現のようです。なお、「陰性的中率」=真陰性 / 真陰性+偽陰性、となっています。 

今後の訂正においては、このブログで誤記していた「偽陽性率」というところは「1-陽性的中率」に訂正するのが正解でしょう。しかしながら、これは、スマートな表現ではないし、使いたくありません。そこで、このブログにおいては、苦し紛れとして「陽性非的中率」という表現にしますので(正式用語ではないかもしれません)。 

 何故、こういうややこしい記載事態になってしまったかについて、言い訳的な説明をしたいと思います。 

僕の方は定義から出発しているのではなく、現実の検査結果の統計数値から議論しているのでした。集団の疫学データー自体からは陽性者数と陰性者数しか判りません。だから、分母全体が陽性者全体(陽性的中率の場合)や陰性全体(陰性的中率の場合)の数値からは、いろんな疫学的推論が可能です。

一方、分母に「真陽性+偽陰性」(感度の場合)とか「真陰性+偽陽性」(特異度の場合)などは、集団の疫学データー自体だけからは不明な数字です。これらは、他の場での解析的なデーター(特に、研究室内でのin vitroの実験結果)を参考にして初めて示されるものです。ただ、もし、その解析的なデーター自体に間違いがあったり、実験条件が社会状況を正しく反映していなかったりの場合は、この値も信用できなくなります。この場合は、今回のコロナ騒動においても十分ありうることでしょう。 

僕は、「陽性結果の者の中にはどれだけの偽陽性者がいるのか」という点を問題としていたので、「偽陽性 / 真陽性+偽陽性」という因子がキーポイントでした。これを、つい、「偽陽性率」と間違ってしまいました。 

(追記1)

ところが、例外的に(?)、陽性者数・陰性者数だけの情報で特異度が推定できるように思った場合がありました。そのことは、「この1年余のコロナPCR検査問題の総括―その3」(2021.06.08)の投稿と「この1年余のコロナPCR検査問題の総括―その3続編」(2021.08.12)の投稿のところで議論しています。 

(追記2)

僕らのような末端の実地医家は、腫瘍マーカーや甲状腺機能低下症などの臨床データーを治療の参考にしますが、特異度・感度などは検査開発者が先に示していますし、実際の場面ではあまり統計学的な定義を日常の取り組みの中で扱うことは少ないですね。それよりも、むしろ、異常値と正常値との境界の「基準値」をもって、診断の参考にしていることが実際的です。この時に、特に問題になるのが基準値付近の検査値の場合です。つまり、陽性や陰性は明確な境界はないのです。統計学的な「平均値」と「標準偏差」や「標準誤差」という指標を参考にして基準値の信頼度を確保しようとしているわけですが、個々においては外れることがあるのは当たり前というのが前提です。それ故、こういう臨床検査値だけで診断を決めてしまうことは乱暴なので、注意が必要です。ただ、非常に高度の異常値が出た場合は臨床検査に依存する程度は非常に高くなることは確かです。

 (追記3)

また、これと次元の違う話としては、臨床検査の結果を基に治療方針を決定する際に、患者本人が治療に同意しなかったら医師のしたい治療(本人に有益だと医師が思った治療)は出来ないことは、もともと、当たり前のことです。医療一般の場合には本人(場合によっては、保護者やそれに相当する人)が決めることなのです。

しかるに、コロナPCR検査の結果をもって、受検者本人への強制力だけでなく、その受験者の属している集団の人々全体への強制力を発揮することは当たり前のことでは決してないはずです。これは、「きれいごと」の人権・民主主義とかのスローガンではなくて、実際に国家としての大変重要な問題だと思うべきです。

これは、ことが「感染症」という厄介な問題であるからの強制力発揮ということなのは僕もよく認識しています。しかし、線引きが間違っていると思います。「戦争」や「日本沈没(小松左京の小説)」などの場合は、この線引きは個人制限の方に最大限にシフトするでしょう。しかし、現在までの日本の状況において(世界のことはもともと敢えてあまり議論をしないようにしています)、多くの人々の自由な生活をこれほど大きく・長く制限することは、物事の判断を基本的に誤っているというのが僕の考えです。

そういうことに加えて重要なことは、医学専門家の答申している対策・手引き・ガイドラインはその効果がどれくらいあるか、実は、誰も今の時点では不明なのです(場合によってはマイナスのこともあると思います)。

ワクチンについても、インフルフルエンザの場合は長らく1回接種に誰も疑問を持たなかった(個々の専門家は別として)。新型コロナのワクチン接種の場合では、当初は2回以上の議論は聞いていない、それが、2回で当たり前のようになり、最近では3回と言い出して久しくなろうとしています。専門家の効果予想が大きく外れているからなので、「もう、そういう話は信用できない」という話になってもおかしくないはずです。専門家を馬鹿だと言っているのではなく、誰にも判らないから仕方がないということです。しかし、判った風な話をする専門家は「馬鹿」であって、かつ、「犯罪的」だと僕は思うのです。現在において新型コロナで断定的なことを言い募る医学専門家は国家規模の大きな事象については「実は、わからない点がある」ということを真摯に考え直さないいといけないと思います。

あの名前も恐ろしかった2003年の「SARS=重症急性呼吸症候群」は案外早く消退してくれましたが(日本には来なかったという結論になっている)、どこかの政府の対応が飛びぬけて正解だったのでしょうか? そうではなかったはずです。専門家も誰も良く判らないと思います。判らない間は慎重に最大限の関心を維持しながら、「様子見」をすることからは始めなくてはならない。直ぐに対策を取ることがあってもよいが、最初は「副作用」の少ない対策を取らないといけない。よく判らない間は「省エネ」対応をしておこうが正解ということです。 

僕は、随分前から「マスクを必要と考える場合以外はするべきではない」と言い続けてきました。狭い室内の場合は別にして、大変広い建物内や、特に、戸外の状況の場合で、マスクをしなかったら(それが有史以来の状況だ)、少量ずつの抗原の自然暴露による、本来の望まれるべきワクチン効果がかなり前から有効になっていたのではないかという議論に対して明確に否定できる免疫専門家はいるのだろうか。僕は、いないと思います。

効果が不明な現行のワクチンより、現実的には余程の効果があった可能性はあると思います。僕は、ワクチンを全否定するものではありませんが(それなりの個別的効果はあると思います)、予防効果は関係者が主張するほどは明確ではないし、製薬会社や医療関係のビジネス関係者その他に莫大な利潤が転がり込み、それに関与する政治家に利益が生まれることだけがはっきりしています。

今のマスク禍、すなわち、ホモ・マスクス(homo maskus)現象は僕にとっては多くの間違いの一つと思っています。マスクのことについては以前も何度か議論していますが、近く、また重ねて議論をしたいと思います。



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