2019年8月21日水曜日

平和主義と菜食主義について


 平和を願うことは「まあ」良いことだと思う。「まあ」としたのは、「平和を願う」というような事柄でさえ、判らないところがないとは言えないからだ。しかし、常識的にはそうだし、僕も人殺しにつながるようなことに関わりたくはないというのも素直な気持ちだ。
 ところが、「平和主義」という主義になってしまうのが鬱陶しい。個人的な見解が「主義」だけならそれは本人の思考の権利でもあるから他人が文句をいうようなものではない。しかし、その「主義」を社会活動の場に打って出ようとすることになると、まことに鬱陶しい。「地球全体が平和でなければならない」というのはお花畑感覚だと思う。僕の判断では、平和で済ますことができるなら、それは実に素晴らしいことだ、ということであり、そういうことでしかないだろうと思う。そのことを多少は判りやすくするために「菜食主義」のことを触れたい。

 菜食主義というのも日本でもよく聞くようになったが、もともとは西欧人の一部の人が主張し出したもののように感じる。もともと動物を食べ過ぎていた状況だったので、その反省のようなものではないかと僕は感じる。日本人が菜食主義を声高に言うのは西欧の受け売り的な臭いがする。
 僕自身も、なるだけ野菜中心の方がなんだか良さそうだと思っているし、菜食中心は「まあ」良さそうだと感じている。しかし、菜食主義というのが気に入らない。最近、西欧人が日本旅行に来てくれることが多くなって、僕は日本文化を知ってもらうようになっていることを嬉しく思っている。しかし、菜食主義の連中は偉そうに「菜食主義」という立場を主張して、なかには「日本は菜食主義の旅行者には優しくない」と不満を言う連中がいる。
 「郷に入っては郷に従え」だけでなく、「菜食主義で押し通せることは恵まれている」という気持ちがないといけない。この反対に、肉食主義という立場の連中がいた場合、それを押し通せることはやはり恵まれているということだ。

 エスキモーの人々も多少は植物を食べているかもしれない。しかし、特に昔のように貿易もあまりできなかった頃は、海藻などの植物も陸上の植物も十分ではなかったのではないかと思われる。そもそも今の人間は雑食動物であるが、時代により、地域によってはほとんど狩猟獲得物だけを食していた種族も、植物だけを食していた種族もあったはずだ。動物にいたっては、動物しか食しないものや植物だけを食べるものがいる。パンダなどは菜食動物というより「笹の葉」しか食することが出来ない。
生物的なことをいえば、長い間同じようなものを食していると、その食べ物を咀嚼したりその食べ物に限定した消化酵素を分泌する以外の機能は消失する、というようなエピジェネティック機構から遺伝子自体の変化まで生じたりして、他のものは食することが出来なくなるという退化現象をきたす(これも、広義には進化の一現象だ)。パンダもそうなのだろう。
 僕は、自分は、自称、免疫生物学者であるという意識を持っているが、ここではこういう生物学の話をしたいわけではない。心構えの問題を言いたいのだし、一般状態の認識の力量の問題を言いたいのだ。動物しかいない環境なら動物しか食することが出来ない。世の中には、今でも極寒や砂漠のような場所で住んでいる人たちもいる。何でも自分の選択したものが食せることは幸せなことだと思わなくてはいけない。「お天道さまに感謝」である。「可能なら植物だけを食べたいし、なるだけそうなるようにトライしてみよう」くらいにしておいてほしい。そして、多少は動物も食せよと僕は言いたい。

 医学的ないし公衆衛生学的領域からの意見があるにせよ、実は僕は「人間ははっきり菜食であるべきだ」という価値判断はできないと思う。「幸福論」ともかかわると思う。いろんな「幸福論」があっても良いし。長生きだけが最高の価値とも思えない。人は、なるだけ苦痛のない状態で、その場その場でできることを前向きに頑張ることが最高の価値の一つだと僕は思っている。なかなか出来ないのであるし、そうだから余計にそう思うのかもしれない。「菜食主義」などを声高に他人に押し付けるような風潮は嫌である。
 「菜食主義」の根拠には「菜食の方が健康によろしい」の他にもっと強力な根拠があり、それは「食べるために動物を殺すことは罪悪だ」というものだ。この気持ちは判らないではないが、そもそもの宇宙や地球のエネルギー・物質の流転や食物連鎖の機構の中に人間が存在していることに思いを馳せないといけないと思う。それを一番というか比較的肌で判っているのが、「人は自然のあらゆるものから生かされている」という感覚だと思う。余談だが、奇麗ごとを言い募るキリスト教会が一番残酷なことをしてきたことを忘れてはいけない。理論的にはまだ判らないが、歴史的・現実的には「奇麗ごと」の主張は他人への「残虐な行為」の原動力になっていることがあまりにも頻繁だ。
毎日毎日、人間以外の天文学的な数の肉食動物(ライオンだけでなく、カマキリや蜘蛛や蛇など)がいわば残虐な狩りを行い続けていることが世の中なのである。まあ、こういうことをお話しても、「だから人間だけでもそういうことを止めよう」というのが菜食主義の多くの人たちの考えなのだろう。判らないではないが、数学における論争ではないので、僕も論破できるとも思っていないが、日本式の「そこそこ」「まあまあ」「ぼちぼち」を僕はお勧めしたい。

 スポーツ界では、アスリートでも菜食主義で立派な成果を上げている連中も散在するらしい。しかし、一般的には究極の記録を達成するためには充分な肉類を食することも常識になっている。この領域で人生を歩んでいる連中に菜食だけを摂ろうと勧めるのはミスマッチのような気がする。しかも、普通の人々においても、ほとんど肉類しか食さない人が全部不幸になるとも思えない。
 菜食が素晴らしいという点を啓蒙することには反対ではないが、「菜食主義」というのが気に入らない。そして、人生は、「そこそこ」「まままあ」あたりもよいのではないかと思うものだ。こういうことに一番馴染んできたのが「日本文化」なのだと思う。西欧のイデオロギー体質には気を付けないといけない。

 ここで「平和主義」に戻ろう。時代や地域によっては、ある地方の民族は周囲の人々とどうしても争わなければ生存が出来ない場合もある。その人たちに戦争を避ける現実的な手立てを用意せずに、ただ唱えるだけの「平和主義」だけを伝道しても無意味だけでなくしばしば罪悪で終わってしまう(その民族は消滅せしめられる)。
 平和が大事であれば(僕は今の日本に住んでいて、平和は最大限の大切なものの一つだと思っている)、平和を確保する手立てを吟味して、それを実行するということの他は無意味だけでなく罪悪である。柔らかく言えば、平和主義の念仏を唱えて押し付ける連中は「人騒がせも「そこそこ」にしておけ」というものだ。
現在の日本の一般状況を把握すれば、隣国の東亜三国はこぞっていろんなレベルの反日国家だ。その国のどれもが大なり小なりの対日軍事的威示行為を次第にあからさまにしている最中だ。北朝鮮は多数の拉致日本人を返さないでいるが、これは長い過去の歴史を俯瞰してみれば、普通なら相手国に戦争してでも奪回をするという正当性を与えるほどの事態である。さらにロシアは、現在は反日国家とは僕は思わないが、領土問題では敵対している。
 このような、現実の日本において、単に「平和主義」だけを唱えて、平和のために実際にはどのような行動をしなければならないかについて答えないよう連中は、少なくとも日本を愛する政治家ではない。自民党であれ民主党(それが分裂した今の政党の名は覚える気がしない)の所属にかかわらずそうである。多くの大手マスコミもそういう意味では日本を愛するマスコミではない。イデオロギーを愛するものである。

 もともとはコミンテルンの優秀な戦略の成果だったものが、今も亡霊のごとく生きている。そのイデオロギーは、世界市民イデオロギーにというものになっている。しかし、「世界市民」というのは虚構でしかない。僕らの生活も家族があっての日本というのが実態だ。そこに住んでいる人々の「家族制度を廃止して日本国全体で子供を育てあげよう」ということをいろいろ実際に即して「思考実験」してみてはいかがですか。かなりやばい国家になると思われる。
 古代のスパルタは男子をそのように育てたし(軍事力最優先のため)、現代でも一部の宗教類似団体ではそういう子供の扱いをしていることが知られている。本当に、イデオロギーと宗教団体というのは不即不離で怖ろしいもので、「お天道さま」「八百万の神」の日本には不要である。ここで僕が用いている「八百万の神」というのは、神道という特定の団体にコミットしたものではない。宗教も団体になったとたんに怪しい属性が付加されるからだ。そして、その属性がそのうちに本質に転嫁されうる。
 この「思考実験」を家族から国に置きなおすと、日本国というまとまりがそれなりにしっかりしていることが日本人の安寧の保証なのだ。これは現実にそうであって、そういうことの具体的な事例が枚挙にいとまがないほどだ。過去のグローバリズムはカトリック教会の世界制覇、コミンテルンによる世界共産主義化、そして、今のグローバリズムというのは、国際金融機関の利益追求のための虚構的実態なのだ。この三つのグローバリズムは、結局は、地理的・地政学的に過酷であった過去からの歴史を内在する西欧人の体質なのである。そして、この三つは互いに織り込みあっているように思われる。

日本は、西欧その他のイデオロギーとか一神教的な宗教団体を必要としないで済んでいた地理的・地勢的に穏やかな日本列島の住民であった。それこそ、お天道さまに感謝すべきものだったと僕は思う。西欧社会の長い歴史はそんな生易しいものではなかった。だから、一神教をはじめとするイデオロギー体質が何千年もの歴史の中で根付いてきたものだ。それは。もうエピジェネティックな機構を経て遺伝子的変異になっているのかもしれない。
僕はちゃんと読んでいないが、こういうことが「利己的遺伝子」の概念で有名になったイギリスの進化論学者のドーキンスがその後さらに提唱した「ミーム」という概念と親和性のある機構だと思う。しかし、日本が脱亜入欧の路線を採ってからまだ百五十年しか経っていない。まだ、間に合う。イデオロギー体質から離れて、それは学術的な知識だけにしておこう。

先ずは、田舎の地方自治体の役所の敷地に建てたり垂らしている「世界平和宣言都市」という恥ずかしい掲示物を取り外そう。何の努力もせず(努力しないから建てるだけのことはしておこうというのが実態らしい)、お花畑感覚で多少とも経費を浪費していることを恥ずかしいとも思わないほど、日本の知性は劣化しきっている。韓国が「慰安婦像」を建てているのも、一番の確かなことは、自分たちの精神の貧しさを世界に公表して憚らないという愚かしくも恥ずかしい行為であることを自覚できていないことだ。「世界平和宣言」の掲示物も同類の精神レベルをさらけ出していると思う。