2020年8月24日月曜日

上久保靖彦論文「日本では新型コロナ集団免疫が成立している」の紹介

 なお、僕が入手した実際の上久保先生たちの論文(英文)のタイトルは「集団免疫と抗体依存性ウイルス増殖促進による新型コロナウイルスの逆説的な動態(自訳)」だった。

 この論文は豊富な図表とともに無料でネットからダウンロードできる。この論文は、編集サイトの掲載査定のタイムラグを避けるべくか(査定できる研究者を探すことが困難か)、査定前の論文として、ケンブリッジ大学のオープン論文のところに掲載されている。そこでの記録には、5月2日に初版を、7月20日に改訂版が発表されたことになっている。 

 僕は、ウィキペディアで「上久保靖彦」の検索を行って、そこの参考文献のところからこのオープン論文に辿り着いてダウンロードした。ただ、これは図表を合わせて60頁の大論文だったし、読み切る力もないので、僕の資料入手のソースはほとんどが、下記に示してあるユーチューブからのものであることを白状しておく。

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  7月16日の参議院における社民党議員側の参考人として登場した、児玉龍彦氏(東大名誉教授)は抗体大規模測定プロジェクトリーダーであるとのことだった。抗原の構造や抗体の作成において非常に専門性の高い研究者のようで、その発言にはなるほどという部分が多いのだと思う。実際に、日本記者クラブでのコロナ検査を詳しく解説しているユーチューブを見ると、図表を示しながら詳細なデーターを示されていた。 

  しかし、最初から国会での発言のトーンは高目であり、最後の「今日の勢いでいったら・・・来月は目を覆うようなことになります」と国会や政府の対応の不十分さをハイトーンで非難されている。要するに東京や大阪においては莫大な数のPCR検査を直ちに体制的にすべきだということだ。無症状の保菌者がこの地方には数多くて(エピセンター)、これを徹底的に囲い込むことだということらしい。こんなことをすれば、彼の述べている危惧(多くの商売人が営業できなくて気の毒だから、何とかしたいと述べられている)が逆にもっとひどくなることが予想できないのか不思議だ。東京都や政府が彼のこうした考えを直ちに適用することは流石にないだろうと僕は思う。野党も自分が政権を取っていたら、こういう現実的でない施策は採れないと思うのだけれど。

  この人の肩書を読むと、立場上は、この検査についての我田引水を行っていると指摘される危惧がある構造だ。現時点の日本において、この専門家の主張する対策が社会全体から見て正解であることを証することはどだい無理なことなのに、発言のトーンがそもそも冷静な科学者のようではない気がする。 

  最近は、京大ウイルス・再生医科学研究所准教授であるウイルス研究者の宮沢孝幸氏のユーチューブでの発言についてはこのブログの前号で既に述べている。宮沢氏は4月29日や7月21日その他のユーチューブで「ゼロリスクを求めることを止めるべきだ」「自粛しない感染予防」などの論点を述べておられる。僕は、これは妥当な感覚の話だと思うことは既に述べている。ただ、生活上の具体的な事柄、たとえば飛沫感染と空気感染や接触感染の実態からマスク着用、物品への接触、手洗いのこと、などに次第にありふれた話になっているけれど、その筋の話は他の発言者と同じく、なんだか常識的な話の受け売りのようであるし、ウイルス学者だからこそ判るのだというような話ばかりでもないように感じることもあるようになってきた。 

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 ところが、7月19日のユーチューブ(松田政策研究所チャンネル)に出演された上久保靖彦氏(京大特定教授)が詳しいデーターを示しながら、新型コロナ感染の実態についての解説をされていた。僕はこれを見てインパクトを受けた。これが本当なら、僕が20回くらいのブログで、経験的および意味論的観点から「集団介入をやめるべきだ」と言い続けてきたことの妥当性があるからだ。たとえ、結果論的にであっても。

 先ず、日本におけるインフルエンザ流行のタイムコースと新型コロナ流行のタイムコースとの連関が明らかになっているという知見だ。彼らの解析結果から、日本はじめ中国周辺の諸国での死亡者数が少ない理由も説明されている。

 上久保氏は前述の児玉氏と同じように抗原構造や抗体産生に関する技術的な専門家ということだ。ただ、上久保氏は世界中のこのウイルスの変異構造の登録サイト(GSAID)に集積されたデーターバンクにアクセスして莫大なマスデーターを利用するという戦略を集中的に採用して、見事に解析した結果を示しているように思われた。山中伸也氏がiPS細胞を作ってやろうと考えた時に、アクセス可能な遺伝子バンクからの膨大なデーターを利用したらしいが(多分、格安に)、そのことを思い出す。

その内容を僕は以下のように理解したつもりだ。

  武漢地方から出現した新型コロナウイルスは、抗原変異からS型 ➞ K型 ➞ G型(グローバル:武漢型と欧米型が含まれる)に変異していった。最初のS型は昨年11月頃に武漢で生じたものらしい。S型は抗原刺激が少なく僅かな抗体産生を誘発するものの、それは有効な中和抗体ではない。K型は主にT細胞主導の有効性の強い細胞性免疫を誘発するというものだが、抗体産生は誘発しない。ただ、先にS型に感染していた場合は、最終的にはT細胞のヘルパー作用によって有効な抗体の産生に転化するとされている。

S型もK型のどちらも通常の風邪症候群と区別がつきにくい程度の軽い症状が多く、G型が発生する前には中国当局さえも新型コロナの存在には気付いていないようだということだ。重症肺炎でおかしいということに気付いた多くのものはG型に変異してからで(G型の後にもさらに変異はあるらしい)、現在はこのG型感染が現実的には一番の問題となっている。

 ●G型に感染する前にS型にのみ感染していた者は、攻撃力のない抗体だけができているので、以後の感染においては、かえって細胞性免疫の攻撃をブロックしてしまい、免疫反応が無感染の場合よりかえって脆弱になっていることが考えられる(これは欧州のパターンと米国のパターン)。この現象は以前から、「抗体依存性促進現象(ADE)」(腫瘍免疫においては、ブロッキング抗体による腫瘍促進現象)として知られていた。私事だが、自分の免疫生物学的研究の議論にも大きい関連があった現象だが、ウイルス感染において現実的に影響を及ぼしている事実があることは、このユーチューブを視聴して初めて知った。デング熱の場合には既に明らかになっているとのことだった。

 ●G型に感染する前にK型のみに感染していた者は、細胞性免疫による抵抗力が生じている(これはどの地域に特徴的かわからないが、次群の地域と重なるのかもしれない)。

 ●S型➞K型➞G型の順に感染した場合は、G型に感染した時点では強力な細胞性免疫が作動し、また、有効な抗体産生もできようになるらしい(これが日本をはじめ中国の多くの周辺国、そして中国自体の主要状況らしい)。

 ●G型感染の前に先行感染がない場合は免疫が出来ていない(西欧諸国の一部などがそうなのだろう)。

なお、この分類は各国全体の様相を確率的に概観したもので、各国内での個々の住民については、上記のあらゆる区分の場合があると思われる。しかし、各国全体の様相を考えると、結論的な議論が可能な知見だろうと思われる。 

  この解析によると、日本や中国周辺の国においては、K型ウイルスの感染によって既に集団免疫がある程度生じているので、欧州と違って死亡者数が少ないということだ。欧州は2月1日頃の早期に海外からの渡航をブロックしたために、K型のウイルスが入ってこなかった。米国は前年のインフルエンザ流行が非常に大きかったので、これによるコロナウイルスに対するウイルス干渉現象として、K型の先行感染がブロックされて少なかったということも一因だとのことだ。  

 この論文から説明可能なことは以下のことだ。①各国における重症度の差は僕が前号までのブログで述べたような各国の生活水準、あるいは、他の人が述べているような人種差や政府の対応の稚拙さなどで説明しなくても、その国における変異型の感染の順序で説明できうる、②日本においては、もう集団免疫が5月の頃には既に成立している可能性が大きい、ということだろう。

 補足すると、台湾も西欧と同様に2月1日という早期に中国からの人々の流入の阻止を政府が決定したということであるが、実際は、その閉鎖の「うわさ」を聞いた多数の中国在住の人々が急いで台湾に帰国流入したので、他の周辺の諸国と同様に(S型➞K型➞G型)パターンの恩恵を得ていたということが考えられるらしい。つまり、日本を含め中国周辺国においては、免疫成立に重要なK型ウイルスの国内侵入が多かったということだ。

 日本において、S型の侵入は12月23日頃で、K型の侵入は1月13日頃ということが、コロナウイルスによるインフルエンザウイルスに対するウイルス干渉という現象を示すグラフで特定されている。

  この上久保氏の論文の内容のうち、意味論者の僕にとって特に興味深く思えたことがある。それは、日本政府が中国からの渡航を禁止したのは、欧州に遅れること1か月以上も経った3月9日だった。僕も、この政府の対応は失政だと思っているし、そのように先のブログで書いている。ところが、この政府の失政が結果的にK型ウイルスの流入がどんどん入ってきて、集団免疫がより十分に成立した可能性があるらしい。上久保先生はそういう認識をはっきりと表明されている。

 僕は以前のブログで書いたのだが、一国全体の施策は一個人の病気に対する治療と似たところがあって、ファジーな面が多いと思う。ある政策方針が確定的に正しいなどと主張する人々は「世の中がわかっちゃいない」と言いたいのだ。たとえば、不景気な時に消費税率を上げ続けようとする財務省などは、理論倒れの「裸の王様」だと思われる。「理論的には正しい治療をしたはずがかえって裏目に出た」とか、逆に、「考えが間違っていたところがあったが、運よくそれが良い方向に導いた」とかいう場合が結構あるのだ。真面目に対処していてもそういうことがある。理論はどの時点でも「論」なのであって、「真実」と限らない。

 それだから、ブログの前号で書いたように、「その目的としている効果が不確実なのに強力な副作用こそが確実だと思われる薬を敢えて用いる」というような政策を希望的観測だけに頼って採用してはいけないと思う。効果が確実であれば悩むべきところもあるだろうが、その効果が良い方向に導くかどうかは、本当は、誰にも明確なことが判らないのに、副作用だけは激烈と判っている生活介入を、今のこの日本において、まだ続けるのか?と問いたいのだ。そして、前号で述べたように、「ホモ・マスクス(Homo maskus)」というべき精神的退化人間を無暗に増やしてはいけないと思う。この半年間の官民・マスコミを合わせてのポピュリズム蔓延の結果、個人の生活上の不幸が明らかともなるし、国力の低下の歯止めの見通しもたっていない。

 上久保氏も指摘しているように、PCR検査陽性者数の増加のデーターそのものが悪いことと決まったわけではない。PCR検査陽性というのは、「そこの粘膜にそのウイルスの断片が検出された」ということしか言っていないのだ。当該ウイルスとのその時点での遭遇があることしか言っていないのだ(かつ、集団介入などする場合には、この検査の偽陰性や偽陽性の不都合さがより増大する)。上久保氏は、もう、このウイルスは日本中に広がったので、免疫が出来ている人にもまた遭遇することはあるということだと指摘されている。つまり、PCR検査陽性=感染陽性と短絡してはいけないと指摘されている。上久保氏は、「最近の数か月では、もう死者はどんどん増えてはいない」と指摘している。「重症例がほとんどでなくなっている」という事実が大切であるのに、PCR陽性数しかマスコミや行政が報じないのは「犯罪的」と言えるのではないだろうかと僕は思う。こういう考えはユーチューブでは多くの人々が既に数か月前から語っている。

 上久保氏のこのデーターは安倍首相や関係閣僚にも伝えてあるそうだ。僕の推測として、安倍首相たちはこの意見を個人的には十分考慮しているのだろうと思っている。しかし、現在の日本の政治の仕組み(諮問員会のメンバーの決め方や、その答申結果の尊重性など)やマスコミの姿勢(何でもかんでも政府を攻撃するし、自分たちの意見に合う専門家の意見しか載せないなど)によって、日本においては総理大臣でも物事が思うようには決められないのだと思う。新型コロナ病ではなく、日本の政治・文化構造が病み過ぎていると僕は思っている。この中でもキーポイントはポピュリズムを煽る「マスコミ」だろうと思われる。そして、政権にこれに立ち向かう力がないのだろうと思う。

 スウェーデン方式が正解かどうかについては敢えてここでは述べないが(上久保先生は、この国では多少の制限をしていた方がよかったと述べている)、とにかく民主的制度に従って選ばれた政府が、自分たちの信じる政策を採ることが出来るということを僕は評価したい。しかも、彼らの方針においては規制の少ないパターンなので、「冷静に事態を注視しながら」という「消エネ」姿勢を重んじていることを推察する。つまり、この件に関しては、日本よりはポピュリズム性が少なくて、より理性的であるように思えることを評価したい。理性的とは、そんなに立派なことでもなく、ただ、「ないものねだりをしない」ということだと思う。実は、このことこそが大事なことだと僕は思う。


追記(8月28日):スウェーデン在住の日本人のユーチューブを最近みさせてもらった。それによると、この国では、政府は経済や政治以外の国民衛生のことに関しては介入しないことが通常とのことだ。医療・医学の専門家の方針を尊重する法体系らしい。この国では、疫学を専門にしている一人の研究者が長らく指導的な立場にいるのだそうだ。もう一つの話として、欧州全体の疫学専門家のコンセンサスらしいものとして、「集団介入の是非につては否定的であった」らしいが、スウェーデン以外は、そのコンセンサスにもかかわらず、各国の政府が集団介入を実行したということだった。そして、スウェーデンでも全く放置していたのではなく、個別での重点的介入はしていたということだった。

 とにかく、僕は、以前のこのブログで述べたように、スウェーデンは周辺国に比べて、移民を入国させ過ぎたために(これは、ポピュリズム的失政?)、生活環境の良くない地域が増えているらしいことも、当初のコロナの影響が大きかった可能性があるのかもしれないという気がする。集団介入をなるだけしないというこの国の方針は、生活レベルが安定していて医療インフラが巨大な日本では上手くいったのではないかということは既に述べた。例年のインフルエンザ禍と比較しても実害が多くはないからだ。ただ、パニック対応すると、日本の巨大インフラも機能的に使いこなせないことになってしまうということも先に述べておいた。

追記(8月29日:日本政府が中国からの入国制限を遅らせてしまったことについて。台湾やイタリアの2月1日から1カ月遅れの3月9日であったのだが、ただ、もし台湾と同じような時期に入国制限をしていても、台湾と同じような人々の動きであったことの方が考えやすい。つまり、中国近辺の諸国は中国との直接あるいは周辺のアセアン諸国とを介しての人的・経済的の流入・流出が頻繁で密なので、K型ウイルスの侵入は止まらなかったのだろうということだ。これがオセアニアの国の死亡数も少なかった理由だろうと説明できる。上久保先生はそこまでのことを述べられていた。それよりも、日本にはK型コロナが1月13日に既にかなりの量が入ってきているので、2月1日頃に入国制限をしていても同じだと僕は思う。台湾でもそうだろう。ということは、政府の「怪我の功名」でもなかったということだ。

当該ウイルスがかなり短期間(1カ月前後)の間に広まってしまうということに関連して、公共の場で病的な程に厳格にマスクを着用するということの問題点が明らかになるということに気付かなければならないと思う。人類は、本来「数多くのウイルスとの遭遇が生活において普通のことで、それによって、大方の抵抗力が維持されている」というパターンで進化して現在に至るのである。K型ウイルスとの遭遇があったらこその恩恵であったということも、その生態上の自然の流れであったということになる。

この一連のブログで何度も述べているが、「マスクをする」という行為はマナー的にも特殊なことであるだけでなく、今述べたような自然抵抗力を獲得する機会を自ら捨て去る愚行をしていると思われる。ウイルスとの遮断の必要性が特に明確である場合や、判断が付かない場合は別にして、「マスクをしておくことは良いことだ」という判断は間違っていると思う。今回の日本におけるコロナ騒動においては、まだ「悪性度」につての状況の判らなかった2~3月は結果的に過剰防衛があっても仕方がないと思われるが、4~5月以後はコロナ禍が例年のインフルエンザ禍を凌駕する可能性は非常に低くなったことを認識する判断は可能であったはずだ。それだから、例年のインフルエンザ対応と同じことでよかったと思うのだ。

政府の方針を誤らせた諮問委員会(正式な名称は調べていないが)の指導的な医学研究者を強く非難したいと思う。ところで、ユーチューブでの露出が著しい武田邦彦先生は、「学者は自分の意見を言うだけでその責任はない。その意見を聞いて政策を選択する政治家や政府に責任がある」とユーチューブで語っていた。僕は、武田先生のことは前にも触れたが、ポピュリズムに決然と対峙した立派なことを沢山教えてくれるのだが、どこか性格的に独善的で我田引水的なところを感じる。この場合の学者は「政策決定のための重要な意見としての諮問であり、政府の方も健康や病気のことは素人で苦手だという場での意見発表をするのである」から、「責任がないはずはないだろう」と僕は言いたい。道義的な責任は大いにあると思う。事態の結果次第では進退を考えることもあるのではないか。それ程の影響力を与えたということだ。

構造的な経済破壊政策を実施(ロックダウン的な集団介入政策)して、刹那的な慰労金や補助金を一律に補給するなどは形態的に最低の政治ではないか。しかし、このことに対して、マスコミも国民も批判をしないのだ。国民は長年のマスコミ言論に汚染されて、公共の場でマスクをしない人に白い眼を向けがちである。おかしな国になってしまった。

追記(8月30日:専門家の意見の責任について。一般的には、政治家も官僚も失政については刑法上の責任はなく道義上の責任しかないので、科学者の意見展開に刑法上の責任はないことは明らかだ(ただし、ソ連体制ではあったことは有名だし=進化論と理論物理などにおいて科学者は投獄されたり獄死したりした。中共は現在でもそれがある体制だということを忘れてはならないと思う。古くは、キリスト教会は科学者に宗教裁判を行った)。さて、道義的責任はどうか。ケースバイケースのような点があると僕は思う。上久保氏はユーチューブでかなり断定的な姿勢でデーターを示して、これを政策に反映すべきだと述べている。「断定的」は「自信をもって」という方がよいのかもしれない。ただ、「反論があれば受け付ける」「間違いが判れば認める」と大人の対応をしている。一方の、児玉氏の国会での発言や記者クラブでの発言の仕方を見ると、武田氏の言うような「学者は学問の成果を述べるだけであって、責任はない」というような発言様態ではないと僕は思う。ただ、道義的責任というのは、本人の責任感の強さによって変わるものだ。いい加減な性格の人は道義的責任をあまり感じないだろうと思う。