2020年5月31日日曜日

コロナ検査 そもそも「臨床検査は個人の治療方針のための資料」が出発点

 大凡、個人に対する臨床検査の結果は、それを以てその個人の治療方針の決定に役立たせるためのものです。コロナPCRでも本来の出発点はそうなのです。だからといって、「個人の資料を広く公衆のために使用すべきではない」というような人権派似非知識人のようなパターンを言うつもりではありません。ただ、その結果は、実は、その個人における治療方針においても、そう単純なものではないのです。ましてや、個人のデーターを集団に流用する場合には問題点があるかどうか、あるのならどうすれば解消できるかなどの議論が先にないといけないと思います。

 ところで、ある疾患の有無に参考となるマーカー検査(指標検査)で最も馴染み深いものは、腫瘍マーカーでしょう。僕も、肺癌や胸腺関連腫瘍を専門にしてきましたので、実地医療に反映していました。ある腫瘍において特定のマーカーが80%も陽性であるような検査なら、精度の高い検査だということになります。偽陰性が20%もあり感度が80%しかないともいえる検査でもそうなのです。しかし、腫瘍の診断の場合では、最終的には組織診断や細胞診という検査によって診断を確定してから治療を開始することに普通はなります。だから、マーカー診断においては、精密検査をしてみようという高リスク群の検出に有意義なスクリーニング検査であるということに過ぎないのです。
 もし、この検査が陽性だということだけで治療を始めるとしたら、それは感度が99%でも十分とは言えない点が出てきます。百人に1人は肺癌でもないのに肺の一部を摘出したということになりかねません。この点をいろいろ書こうとしますと何頁にもなってしまいそうです。ここで述べたいことは、この個人の検査結果をその個人の治療に反映させる場合においても、「総合的な」治療体系の中で考えていくことになり、検査結果が独り歩きするわけではありません。ましてや、個人の結果を公衆のために流用する場合は、その意義の限界について、慎重な検討が必要だと思います。

  インフルやコロナにおいて話題になっているマーカー検査は、この陽性・陰性という結果によって「インフル症」とか「コロナ症」とかいう病名が決定するのでは本当はないのです。「コロナ症」という診断は、本当は、コロナに感染した結果現在の病気が生じているということです。そこまでは検査結果だけでは言うことが出来ないはずです。コロナ陽性の人の風邪症状は別の疾患による症状の人が何割か含まれているはずです。その場合は、他の原因の風邪疾患の人がたまたまコロナウイルスにも出くわしていたということです。ということで、受検者のレベルでも疾患の確定ではないし、治療方針も本当は決まるわけでもないはずです。これは医学上そうなのです。ただ、実地医療上は、「この人は陽性だし「コロナ症」らしいから、そう扱っていこう」というのは現実的に多いのでして、普通はこういうことでそれなりに機能しているのです。しかし、仕方がないにせよ、実地医療というのは理屈的にはアバウトな部分があり、「いい加減」なことが避けられないということは自明なのです。

 ここで、インフルでの実際について振り返ってみます。この十数年の間に日本でも広く親しまれているインフルの簡易キットは、ウイルス(の構造の)の存在の有無をチェックするということだけの検査です(コロナPCRも似たようなものといえると思います)。この検査陽性という結果だけで、本来的にもその個人に対する治療法が決まることでは実はありません。治療面での本来的ということでは、陽性者全体に治療薬を投与するのが適切という根拠はそれほどはっきりしているわけではありません(薬の効果自体も決定的ともいえないことは別にして)。一方、治療面での現実的ということでは、本人の意思で治療薬の服薬の有無を決めてきたのです。それでよしとしていたのです。ただ、検査陽性者については、日本の従来からの生活の知恵(マスク使用やなるだけ自宅待機度)がある程度は機能していたと思われます。 

 何度も書いて恐縮ですが、インフルでは医療機関からの把握できる範囲でも年間の感染者数は1千万人以上(検査感度が低いことを考慮に入れると、1千5百万人~2千万人以上)が検出されています。症状があっても受診しない人もいるし、無症状でも感染している人もいるだろうし、ということを考えると、日本では毎年インフルは3千万人程度が感染している可能性があります。人口の3~4分の一に及んでいるのです。それでも冷静に対応しているのです。今のところは仕方がないからです。もし、余計な対策をすれば、その効果は不明で、強烈な社会上の副作用が生じるからです。それが、コロナで起こっていることです。
 コロナの話になりますと、最近ロックダウン的な規制状況を解除にしたら、「また、どこそこで10人の感染者が出た」などと馬鹿な扇動をマスコミがするし、今や、地方行政や政府やその筋の学者が同じような談話を連日しているようです。日本の全国に一旦広まった「目に見えない」ウイルスに対する理性のある認識とは思えません。「感染者数」でもって社会規制の判断することがそもそもの間違いだと多くの人が既に述べて久しくなっています。僕もそのように思っています。コロナ感染者数の微々たる変化を「虫眼鏡」で拡大してまで、日本の経済の深刻な問題を放置すべきなのでしょうか。いろんな補助金の支給や無利子の融資などの工夫は、「その場限りの」愚策であります。僕は、この工夫で助かる人が少なくないので反対とは言いません。経済機能を構造的に破壊するという政策をしておいて、その場限りの非構造的な対応策をするというのが愚策といいたいのです、それよりも早くシャットダウンを止めるべきだったし、簡単に再度のシャットダウンなどすべきでないと言いたいのです。

 この論旨での余談ですが、欧米における大きい問題は、感染者数の急激な増加そのものではなく、やはり死亡者などの重症者の比率が多いことだと僕は思っています。このことの理由について、僕は、何度も述べていますように経済・生活・医療などにおける貧富の差が日本の現状からすると信じ難い程の差異であることに拠ると思われます。急激な感染者数の増加自体は、ある程度の感染力の強い目に見ない病原体が原因だから「当たり前」なのです(水際作戦を突破された時点で、そういうことです)。毎年のインフルエンザ感染の爆発がそうであるように。

 コロナPCR検査を日本全体に広めるとしても、「じゃあ、個人に対して1年に何回検査したら納得できるのか?」という矛盾がすぐ明らかになる。何時感染するか判らないので、検査陰性の後で感染するかもしれないからです。「いやいや、それらしい症状の人だけで良いので広く検査しましょう」といっても、偽陰性の人は根拠のない安心結果をもらって、あちこちにまき散らすではありませんか。10人に1人でも日本全体では影響は大きいはずです。このリスクについて限定すれば、今この検査は広くしない方がよいということになります。
 繰り返しますが、個人や政策によるヒト・カネ・モノの閉鎖や遮断方針は、その効果(重症者数と死亡者数の抑制)が不明である一方で、国全体に及ぼす悪影響は非常に厳しいことは明確であります。副次的影響としては冷静で見識のある生活態度が多くの被扇動日本人から脱落していって、愚かな日本人になってしまうということです。

 この「方針」を「薬」に置き換えると直ぐ判るではありませんか。効果は不明だが副作用は強い薬など使えるはずがありません。
 興味あることには、日本ではインフル治療薬のタミフルは最初はそういう議論でマスコミから叩かれました。それから時間が経った今では、インフルに罹った人の「お守り」みたいな存在になっています。しかし、僕の経験からすると、タミフルの副作用も本作用も実際は大したことがないのです。







死亡診断書の病名は「あいまい」な点が含まれている

コロナ死亡率に変動を与える因子はいろいろ述べられています。中でも、今までのところの日本人におけるコロナ死亡者率のけた違いの少なさには内外から注目されています。日本にコロナ死亡者が少ない理由に、人種差・免疫力の差(BCGワクチン・食生活)・清潔志向の差などが挙げられていますが、それらの個々は、いくらそれらしいと思っても、実は仮説の段階のものです。つまり、何もはっきりしたことは分かっていないのです。真面目な気持ちから出たにせよ、報道やネットでの情報は「言いたい放題」の状況でもあります。僕自身も、「日本以外の多くの国における貧富の差、衛生状態の格差と医療の機会の格差」が主な死亡率の多さの原因だという議論をしていますが、それも同じことです。
ただ、長らく日本の生活が当たり前の僕たちは、むしろ、日本以外の多くの国における貧富の差の大きさと衛生状態の格差と医療の機会の格差のいずれもが大変大きいことを認識する良い機会だと思います。

ところで、「死亡診断書における死亡病名」はそんなにはっきりしたものか?ということを述べておきます。
普通の風邪でもインフルエンザ(インフル)でもコロナでもそうなのですが、一般に、亡くなった場合の「死亡原因は何か」というのは簡単ではありません。高齢であることや一般状態がもともと悪かったとかの原因になりうる事項が複数ありうるので、どれが一番大きい原因(それも場合によっては同定しにくいことがある)かがスパッとわかるものとも限りません。それで、インフル死亡者という言い方よりもインフル関連死亡者という慎重な言い方が特に医学雑誌や医療論説などで用いられることになるのです。コロナでも同じことです。

僕は大学病院と基幹病院で数多くの死亡診断書を書いてきましたが、有床診療所でもそうでした。後者では、死亡時に「直接死因」の病名が次第に書きにくくなるような状況が増えてきました。それは高齢者や超高齢者が入院中に死亡される時に、しばしば「老衰」というのが一番真実に近いということでした。敢えて病名というと、結局は「心不全」が近いというものでした。ところが、「老衰」は病名ではないということだし、「心不全」という死亡診断はなるだけ書かないように推奨されていると承知していましたので、頭を捻ることになりました。「心不全」が駄目なのは、死亡判定自体を実際上は心停止で決めてしまうことが多いので、すべて「心不全」ということになることとの整合性が悩ましいからだということでしょう。

例えば、Aさんの死亡診断書には、「直接死因欄」に「急性呼吸不全」ということを記入した場合にも、「付記欄」に「実際は、老衰と思われる状況でした」ということをよく書きました。Bさんの場合は「直接死因欄」に「急性循環不全」と記入してその罹患期間を「半日」とか記入して、「その原因欄」に「加齢による慢性心不全」でその罹患期間を「3年」くらいの記載をしたことがありました。(しかし、僕の別の場合や他の医師なら、「直接死因欄」にただ「肺炎」と書いたかもしれません。最後は咽頭や気管支あたりでゴロゴロ音が聞こえるし、「肺炎」とすることが妥当~無難とする場合もありえます。)
これらの死亡診断書はいずれも受理されています。これらの書類内容が事実に近い場合は、その書類をみることになる遺族にとっても「心穏やかな気持ちをもつことができるもの」ということも自覚していました。ただ、こういう死亡診断書においても、統計処理としては「急性呼吸不全」「急性循環不全」や「急性肺炎」だけが死亡病名として使われるのだと思います。

コロナにおける、余談を載せておきます。
先ず、ロシアでコロナ死亡率が非常に少なかった理由に、政府筋が「別の病名にするように」という指令か圧力をかけていたことが一部に報じられています。その真偽は不明ですが、一般的には非常にありうることでしょう。中共政府の発表などはほとんど信用できない部分が大きいと思わない人は(ほぼ日本のマスコミだけがそういう姿勢である)知能指数的に問題があり、どうかしていると思います。

次に、国外では日本のコロナ死亡者数が少ないことを疑問に思う人が非常に多いらしい。中には、日本が死亡原因を改変しているのではないかという疑いを持っています。しかし、「死亡数自体が大して伸びていないので、日本のそのデーターは信用できる」という声明が米国の専門機関から表明されています。ただ、米国としては(自国の死亡率が高いので)それを認めるのは辛いらしいが、認めざるを得ないと述べたのです。

次に、細かい話かもしれませんが、肺炎になって死亡された人の中には、PCR検査をするとたまたま陽性であった人がいるとして、その人が全部コロナ肺炎であったとは実は限らないはずです。「他の原因の呼吸不全の人の中にたまたまコロナ感染もあった」ことは実際にあると思われます。COPD(肺気腫)や慢性の喘息の悪化や他の風邪症候群関連の肺炎などの悪化の場合です。しかし、この一般情勢の中でのこういう場合は「問答無用」の「コロナ死亡者」になっているはずです。

(注)このブログの投稿の半月後の2020年6月18日に、厚生労働省は「実際の死因には拘わらず、PCR検査陽性であった死亡者は、全員、コロナ死亡者として報告するように」という通達を全国自治体に出して、全国医師に伝えています。僕も、この通知を受けていましたが、これを知ったのは、2021年になってしばらくしてからです。この通達については、2021年5月30日のこのブログで議論しています。

次に、これはちゃんとした人がよく議論されていることですが、日本のコロナ死亡率は報道で記載されているよりもはるかに少ないということです。話は簡単です。コロナPCR検査をあまりしていないので、その計算値の分母の数が実際よりも非常に少ないので、計算値が桁違いに高くなっているはずということです。つまり、コロナ感染者の8~9割が無症状ということなので、これらの人々の実際の多くはPCR検査をする機会がないのです。ある日、すべての日本人のPCR検査をしたとしたら、コロナ感染陽性者数は物凄く増えていることが判るはずですので、それを母数にして本当の死亡率として計算すると、その値は今の発表より非常に少なくなるということです。
このブログで何度も述べてきましたように、コロナ死亡者率は日本ではせいぜいインフルと似たり寄ったりが明らかなはずです。インフルと同じ対応でどうして悪いのか理解できません。シャットダウンやロックダウンのような対策は「副作用」が激烈過ぎる。次第に日本の感染症専門家に腹立たしくなっています。そのうちに影響力のある誰かが「裸の王様」現象であることを表明する決意・度胸を持てばよいのにと思います。そうすれば、大きい賛否の議論が巻き上がろうというものです。僕のような巷間の人間が何度もこういう意見を書いても無力を感じているところです。仕方がないなあという思いです。しかし、書きたいから書いておりますので、その自由は有難いと思っています。









 

2020年5月20日水曜日

コロナ感染での重症化がロックダウン政策によりむしろ起こりやすくなる可能性

前回の記事「コロナ感染者訪問場所の閉鎖」という管理対応の妥当性において、新型コロナ(コロナ)検査陽性者に対してはインフルエンザ(インフル)検査陽性者と同じように流さずに特段の規制をすることに疑問を呈しました。
 そういう対策は当面の感染者数の増加の経時的な曲線の傾斜を緩やかにする効果は明らかと思えますが、数カ月~半年との長いスパンで考えた場合に意味があるとは保証されていないのです。感染者数の増加自体に対しては特別の対応を断念すべきだったのです(それと引き換えに国の機能と人々の一般的な心身の健康と生命を維持せしめるからです)。重症化率や関連死亡者数がその長いスパンで実際に意味のある程度減少させることが出来たのかそうでなかったのかで判断しなければならないことです。このことは誰も確かなことは言えないはずです。過去の資料からはそこまで判らないからです。
 しかし、政府の異常事態宣言による勧告がなかった時点であっても、個々の現場での「コロナ感染者訪問場所の閉鎖」という自主対策の時点で、既に経済的や生活上の不都合こそは明白になっているのです。

 今回の主な論旨は次節で述べますが、その前置きをここで述べておきます。コロナに対してインフルと同じようなアバウトな対応をしなかったので、日本全体の経済における大きい障害だけでなく、コロナに直接関連した死亡者数の増加の抑制は(多少の程度は達成されたとしても)日本全体の死亡者の増加に比べては取るに足らない数であった可能性は大きいと思います。
 日本全体の死亡者数の増加は、経済的な理由による生活の破壊による心身の障害に起因するもので、心身の疾患の増加と悪化による死亡者数の増加と自殺者数の増加、もともとの疾患に対する治療体制の制限による死亡者数の増加などです。人口1億人を超す我が国では、このことにおける母集団は膨大な数であるので、コロナ関連死亡者数が1千人減ったとしても、それで帳尻が合うようなものではないはずです。因みに、自殺者数だけを考えても、自殺者数は年間3万人にも及んでいます。今年はこれに相当数の上乗せ分が生じるのではないかということです。
 全部ではないでしょうが多くの医学・医療関連の専門家は「目先の生命が最優先である」あるいは「医療優先」というイデオロギーで事を考えているように思えてしまうのですが、もしそうならそれは医療関係者の傲慢と思うのです。社会全体を無視してはならないと僕は思います。医療は社会全体の一部なのです。「目先の生命」も大事ではありますが、「少し長いスパンの生命」も大事なのです。
 とにかく、政府やマスコミ先導の規制の効果がまだ不明な間は、「何も規制せずに」「自然の経過を慎重に観測する」するべきなのです。年間に多数の関連死亡者を引き起こすインフルに対する対応がそうであることは今までの記事で既に述べましたが、SARSやスペイン風邪が終息した時の理由は何らかの対策が功を奏したものでもなく、結局はよく判らない理由で終息したのです。

 この記事において主に述べたいことは以下のことです。コロナ死亡者数自体の収支決算は今のところ僕には判りませんが、個々の事例でコロナ感染者の一部の人たちが重症化する頻度の増加が、この「アバウトに対応しなかった」ことに起因することが十分考えられると思うのです。
 僕は、事態の状況を網羅して調べたわけではありませんが、個々の事例において気が付いたと思ったことがあります。ところで、網羅しなくても個々を十分に検証~検討することができれば、それはそれなりの意味がありうることです。随分以前に「質的研究」という研究方法が提唱されているのを知ったことを述べておきます(しばしばいい加減な研究になりがちでもあると僕が用心する研究法ですが、意味がある場合もあります)。
 第一に、内外の医療関係者(ナースや医師など)に感染者が増えて重症者が多いような印象であることです。詳細は避けますが(詳細は僕にも判らないのでもあります)、インフルのようにアバウトにしておかないから、コロナ患者対応者は濃厚なウイルス被曝を受けることになると思われます。重症化率と被曝ウイルス量とは当然に正の相関があるはずです。
 インフルの場合だと「あなたは陽性でしたよ。タミフルを出しておきましょうか」「いや、陽性かどうか知りたかっただけです。会社に迷惑がかかるから。薬は要りません。家でしばらく休んでおきます」「じゃあ、お大事に」という実例のようにアバウトなのです。しかし、日本人の多くは他人に広めないように個々で工夫をしているのですし、もともと清潔な環境に住んでいますので、これでよかったと言えると思います(それでも、年間数千人以上が関連死亡しています)。
 こういう状況なら、コロナで医療関係者が過労状態でかつ濃厚感染を受ける事態にはならないのです。「世間」の要請で効果の保証されていない現場のシャットダウンをすることからじり貧になっていると思うのです。「世間」とは、一般民衆・マスコミ・政府などいろいろ含まれますが、実質的にはマスコミでしかないではありませんか。ウイルス感染陽性者と認定された人々をいろんな手段で隔離することにすると、隔離の外側にはなにがしかの恩恵がもたらされるかもしれないが、隔離の内側では環境が劣悪になります。その内側では、医療を提供する側も医療を受ける側も、濃厚感染による重症感染者の比率が増加して、結局は日本全体での重症感染者実数も増加せしめたのではないかの検証をすべきです。感染者数が問題でなく重症化数が問題であるなら(それが正しいだろうことはインフル対応が示している)、コロナでもアバウト対応が正解であるのだろうと僕はずっと思ってきたのです。

 第二に、これは海外の話ですが、イタリアで感染者数が急増して死亡者数も増えたことは知られたことです。日本以外の西欧先進国での全体的なこれらの指数の悪いことは主に文化的な差異に起因することだろうと僕も前までの記事で述べています、ここでは、イタリアにおいて急に増えた理由について検討してみます。
 情報によりますと、イタリアでは比較的経済状態の良い北部産業地域でコロナの発生が始まったということです。イタリアの産業は国の政策により既に中国人による進出が猛烈で、地場産業が衰退に追い込まれているようです。これは失政ですね。この状況は北部に多いのです。それはともかく、ある日、イタリア政府がコロナに対する対応として「地方から地方への人の移動を明日から制限する」と通告したらしい。そうすると半日ほどの間に北部の多数の人々が列車や車を利用して南部の知人なりのところに移動したということです。この半日ほどの環境で濃厚感染が生じたと思われます。しかも、移動先の南部は相対的に経済的には貧困で、医療機関も以前に比べて閉鎖されたところが多くて、医療キャパシティが乏しいところだったのです。
 僕は、この移動禁止令がイタリアにおける急激な感染増加をきたしたものと思うのです。失政です。これなら、何もしない方がよかったのです。するにしても、移動自粛の勧告くらいにしておけばよかったと思います。「いや、日本なら人々は勧告でも従うが、西欧、特にラテン系は言うことを聞かない」という反論が出そうですが、それでも勧告以上のことをしない方がよかったと思います。百歩譲るとしても、「1週間後」くらいにした方が傷は浅かったと思います。

 つまり、目先の感染者数の拡大は防止しにくいにせよ、長いスパンのコロナ被害と社会全体の機能崩壊による被害との総合的なことを考えると、慎重に考えた末のアバウト的な対策の方を採択すべきであると思われます。このことからしますと、今から遡る、日本政府の「非常事態に対する勧告」が実際は失政であったと思います。
 ただ、以前の記事に述べていますが、世界の主要国の考えが「何も対策を採らない日本政府」への信用をなくすという国益の絡みで難しい選択だったということで、僕はある程度は政府方針について「止むを得ない」点があったと思いました。ただ、国益のためには外国を納得させる「優秀な情報発信能力」がイロハのイですが、これが戦後の日本政府は最低であります。これも長い間にマスコミが足を引っ張るから政治家がダメ人間になっていったのだと僕は思っています。
 いわゆる先進西欧諸国こそ、「人間が自然に対して正しい方法で支配できるはずだし、そうすべきだ」というイデオロギーの塊のような精神文化なので、「何もしないで様子を見る」ことは非難の的になるかもしれないということです。
 しかし、5月になって安倍政権はこの「非常事態に対する勧告」を月末まで延長する方針を採りました。ここに至っては明らかな失政だと思いますので、安倍政権を非難したいと思います。繰り返しますが、短いスパンのコロナ感染の増加曲線を緩める効果のために国家の機能を半分麻痺させてしまい、その一部は回復不可能(倒産するところが増えている)なのです。1千万人超の東京で新規感染者が10人や50人なら何を騒いでいるのだと言いたい。極めて少ないではありませんか。この状況で速やかに日常生活に戻さない連中は、コロナ以外を考えることができない程度しか素養のない医療関係の政府アドバイザーなのか、それとも無責任マスコミに逆らえない政治家なのかと、ひどい言葉も放ちたくなりました。ただ、実際は、やはりマスコミの力は強力だし、今の日本の支配者は政府よりもマスコミであるという面が大きいことを考えますと、医療アドバイザーも政治家も難儀な立場を強いられているのかなという気持ちもあります。多くのマスコミは左翼思想もさることながら、「騒いでなんぼ」という立場を貫いてきたので実に面妖なのです。落ち着いた精神での建設的な意見などマスコミからはなかなかでてこないということです。

 もともと何らかの理由で日本でのコロナによる重症感染者率は低いのだと思われますが、それならインフルと同じような対応でよかったと僕は当初から思っており、この一連のブログの記事でそう発信してきました。
 しかるに、「積極的な」政策を採ったために、むしろ重症コロナ感染症がスポラディックに増えていることが否定できないと思うのです。当初からの医療現場における自然発生的な(これもマスコミをはじめとする世間に言い訳をせざるを得ない医療機関などの自己安全策による)局所的ロックダウン、そしてその後の政府による日本全体のロックダウン政策によってもたされたものは、隔離の内側の医療供給者と医療受給者への濃厚感染ということであったように思います。それは現在も続いていると思われます。ところで、隔離の外側において、貧富の差が少なく清潔的で他人の目を気にする日本においてコロナ関連死亡者が本当に増えないことに寄与したのか自体の点も僕は疑問に思うのですが、少なくとも、ロックダウンによって増加したであろう自殺者数やその他の関連死亡者数の程度にははるかに及ばないものだと推定できると思います。
 効果の判らない政策はそもそも採るべきではない。自然に任せることも立派な見識である場合があり、それは我が国の古来からの精神風土と折り合いの良いものではないでしょうか。


2020年5月13日水曜日

「コロナ感染者訪問場所の閉鎖」という管理対応こそ愚かな策だ

 今回の内容は「何が最適な対応かは判らない部分がある」ということを特に自覚している時点ですので、多分正しいと思う問題提起であるということを述べておきます。日本において、新型コロナ(コロナ)とインフルエンザ(インフル)との重症化頻度や関連死亡率が大差がないという前提(多分、そうである)での検討であります。もう一つ、現在は水際作戦が成功しなかった後であるという状況認識の前提です。
 
 僕は、インフルへの対応とコロナへの対応との決定的な違いはなんであるかといえば(パニック的な対応をするか、そうでないか、の差に起因する点が大きのだと思うのですが)、それは「感染者と判明した人物が訪れた場所をシャットダウンするかどうか」ということだと思います。現行のコロナへの対応については、コロナ対応の医療機関においてはもちろん閉鎖(シャットダウン)などはしておらず、それどころか献身的な治療行為をしていますが、そうでないところは医療機関であろうが店舗であろうが一時閉鎖ないしそれに準じる対応が求められうることになっています。これが現場においては超絶な生活上ないし業務上・経済上の負担になるということです。

 インフルの場合でも、たまたま他の疾患で医療機関を受診したら、そこで他人のインフルを感染させられてしまったという実態は大変多いはずです。実際に、医療機関や学校や職場でスポラディックにインフルが発生してしまうことは日常茶飯事です。その場合、注意の喚起やマスク着用の徹底などの対応が先ずなされます。特にそのスポラディック発生の頻度がガイドラインの上限を超えると、一時的な学級閉鎖や職場閉鎖が実行されますが、それ以上のことはありません。それでずっとやってきたのです。
 しかし、コロナの場合は、普通、一人でも感染者が見つけられますと、その人物が直近の期間に訪問した場所は一時閉鎖を強いられるような流れのようです。この方針を徹底すると、政府が都市のロックダウン(ロックアウト)をしようがしないにかかわらず、医療機関や非医療機関にかかわらず、活動が停止してしまいます。コロナに対してもインフルに対するのと同じような対処で済ませていないことに疑問のないほどの根拠なり妥当性があるのだろうかという自問を各自がしてみてはどうだろうかと思うのです。

 常々科学的なことを中心に自説を発信しておられる武田邦彦博士は拝聴すべきところが多く、僕も勉強させてもらうところが大変多いのですが、時にご意見が度を超しておられると思うことがあります。余談ですが、最初にそれに気づいたのは、STAP細胞についてのご意見です。武田さんは理研の体制側が悪で小保方さんは善のようなそれこそ二律背反的なご意見のようで、いかにも「STAP細胞はある」らしいです。僕には理研がそもそもおかしかったが、小保方さんについてもどうかなあと思う資料があるのです。加えて、STAP細胞があったという事実があるはずがないではないかという議論の根拠を僕は意味論的に簡単に示すことが出来ると思っています。
 閑話休題。日本医師会会長が「コロナが疑わしい患者さんは(直接)医療機関に来ないでほしい」との発言をしたらしく、これに対して武田さんは非常に腹立たしく思われたようで、つい勢いでか「医師会は金儲け主義者である」というような発言をユーチューブで述べておられました。僕個人は、「ヘルスコラムM」のブログでも医師会や厚労省という体制にしばしば反論を試みており、別に言論上では医師会サポーターではありませんが、このことについては医師会長の発言をフォローしたいと思います(政府に国民生活の制限を加えて感染の拡大を防ぎたいという目的からの医師会長の具体的な提案については必ずしも賛成ではありません)。
 実際問題、一人でもコロナ感染者が通り過ぎたことが判明しただけで、その医療機関は相当期間の業務停止ないし大幅制限を強いられるリスクを負います。自分の営業成績だけでなく、沢山抱えている患者さんに対する日常の医療サービスができなくなってしまいます。
むしろ、僕ならば、インフルに対するのと同じような対応が出来ないのかとまた思ってしまうのです。それならば受診しもらってもよいということになります。ただ、こうなると、確率的に感染の拡散をなにがしか許してしまうという不都合は確かにあります。しかし、インフルではそういう対応で長らくやってきたのです・・・・。いずれにしても、普通の状況の人が風邪をひいたと思ったら、直ぐに医療機関に受診すること自体が妥当ではないと思われることは、前号までのブログで述べています。こういう風潮は医療費の自己負担が驚くほど安い日本くらいでしょう。
インフルの場合に僕が診療所で対応していた状況は、本ブログの「マスク着用についての雑感集」において述べてある通りで、自分が感染を受けるタージェットであるという危機感はあまり持たずに応対していました。この僕の対応の是非についは、今から思いますといろいろ考えられると思いますが、医師はしばしば「自分のことには案外無頓着になっており」そのことが感染の被害を受ける要因の一つかもしれないと、自己反省の余地はあると思います。

僕は、以前のSARS問題が出た時に(一時、日本人に感染者が出たという記事が広まりましたが、現時点では日本人には感染者がいなかったという結論らしい)、患者さんや市民の人たちに読んでもらうための掲示用パンフレットが医師会から配布されて来ました。これを読んだ時に、医師会や厚労省(指導していたはずだから)は失礼ながら「馬鹿じゃないか」と思ったのです。そして、掲示しませんでした。このことはどこかで書きたかったのですが、ここで書く場ができました。
その内容は「SARSを疑われた人は、予め電話をしてから受診してください」というものだったと記憶しています。つまり、「受診してください」と書いてあったのです。僕は、この時に「こんな人が来て、やはりSARSが怪しいとしてどこかの特定の医療機関に紹介した場合を想像すると、「SARSではなかった」というお墨付きが届くまでは、外来を閉鎖しなければならないリスクを負うことが考えられると思ったのです。受診をされたというだけでアウトということです。この時も、その前提として「感染者の訪問した所はシャットダウン」を求められることがマスコミの突っ込みなどから想像できたからです。
僕は、そのパンフを掲示しなかっただけでしたが、他の医師会員が医師会に不都合さをクレームしたのだと思います。その後、しばらくして違う文面に変わっていました。それは、指定された医療機関か保健所に電話をするようになっていたと思います。
そもそもSARSというのは、「急性の重篤な呼吸障害を引き起こす病気」というとんでもなく恐ろしい名称の略語なのです。新型コロナの名称の比ではありません。この時に思ったことは、厚労省も医師会も真面目に頭を捻って考えてくれていることは信じているものの、実際に自分が現場で働いていたらどういうことになるのかというシミュレーション(思考実験)が全然なされていないということを残念に思ったのです。こういう事例は枚挙に暇はありません。
 余談ですが、その最たるものは、「身体拘束をゼロにしよう」という厚労省指導のメッセージないしパンフレットです。10年前くらいだったと記憶していますが、有床診療所をやっていた時の僕はこれを捨てました。そして「悪い身体拘束をなくそう」というのを掲げました。そして、これに関する院内勉強会を開いて、診療所の院長としての僕の考え方について職員に説明しました。しかし、この「身体拘束をゼロにしよう」という指導~標語は厚労省の方針として、最近でもアクティブだと思います。もし、本気で「身体拘束をゼロ」にしようとすれば、世話をする人員が数倍以上必要となってしまうだけでなく、病院は事故だらけになってしまいます。つまり、逆を言うと、そのスローガンは、実は、誰も本気ではないのです。「きれいごと」を言って、格好をつけているだけなのです。左巻きのマスコミはまさにこうなのです。





2020年5月12日火曜日

「インフルエンザから見える真実」ーコロナ治療薬への過度の期待は馬鹿げている 

先の投稿で、「新型コロナから見えたもの]ーインフルエンザの治療っていい加減過ぎることに気付いた、の続編(裏返し)です。繰り返しますと、パニックを長らく起こしていないインフルエンザにおいて、年間1千万件以上が陽性となる簡易検査(PCRではなく、免疫酵素抗体クロマトグラフィを用いての抗原チェック)においては偽陰性が30~50%という正答率の著しく低いものです。また、治療薬として我が国で莫大な投与機会を誇っているタミフルが導入されてからも、死亡率の低下という効果が明らかであるようには結果的には全然思えません。そして、なお年間数千から1万人の関連死亡者数を重ねています。なお、欧米では日本よりはもっと死亡率は高いのです。
そういうことですので、インフルエンザは既に実地医療的に大成功を収めているから、もはや問題がないようになったかの雰囲気ですが、実は、全然そうではないのです。

今後さらに開発されてくる新型コロナ検査自体についても、偽陰性と偽陽性の実態を認識してから冷静な評価をしなければならないと思われます。そして、たとえ良い検査が開発されたとしても、それ自身は治療ではないからそれだけであまり期待し過ぎないようにという意見もあり、その通りでもあると思います。
しかし、治療薬に対する期待にも同じことが言えると思うのです。ここでは、特に、治療薬への過度の期待についての意味論的な疑念を書いておきます。

平成12年から連載を始めた「ヘルスコラムM」というブログは、健康や医療において世間で常識と思われていることにおける「勘違い」のような事柄を意味論的観点から明らかにしたいと思って書き始めたものです。全部の内容がそういう趣旨のものでしたが、特に第83号の「当院に品揃えしてある薬剤の現状から判ること」において、「鎮咳剤」は「咳が軽くなるかも知れない薬」であって「咳が止まる薬」とは限りらず、「去痰剤」もそれによって必ずしも去痰が奏功するとは限らないことを嫌味たらしく述べています。鎮咳剤や去痰剤は僕にはそんなに効果があるようには思えないのです。
実は、疾患の領域や治療薬の区分によっては、非常に治療効果の良いのが揃っている場合と、期待が先行しているだけのような場合があるのです。後者のなれの果ては、サプリメントの世界と一部の漢方の世界だと僕は述べてきました。 

僕は、コロナ治療薬(候補薬)の領域では素人のような者ですが、「コロナ治療薬」というターミノロジーによって多くの人が心理的に目くらましを喰らっているように思われます。それは世間だけでなく、その筋の専門家も言葉の魔力に流されているように思うのです。
かなり有効な薬剤が手に入った場合は、大なり小なりの恩恵を与えてくれるでしょうが、その薬剤だけで解決できるような種類の事案ではないと思います。「一応、認められた治療薬を服用したから、することだけはした」という安心感というか納得感というか、そういう意味合いも大きい場合があるような気がします。あるいは、ほとんどがそういうことでしかないこともありうると思われます。
後者の状況は、将にインフルエンザの治療の場では長年その通りの状況であるということに気付きませんか!

 なお、ワクチンへの期待も一般的には大いにあると言えるのですが、成功していると思われているインフルエンザでの事実を冷静に見つめますと、「やはり、それでも、年間1千万人以上の感染があり、数千人以上の関連死亡者がでてしまう」ということですので、バラ色の結果がもたらされるようには思えないのです。
ワクチンや治療薬への期待が実際にそのような程度でしかないのであれば、結局は現在のインフルエンザへの対応のようなもので仕方がないのです。水際作戦の時期は過ぎてしまったのに「新型コロナ陽性者がまた十数人出現した」とかいって一喜一憂する姿はおかしいと思うのです。そもそも東京であれば1千万人の人口があるのでそんな数は極めて僅かなのです。
インフルエンザでは、その季節が終わってもまた翌年には流行するし、結局、人類と共存していることが実態なのです。そして、僕が注目することには、インフルエンザは夏季にも少数ながらダラダラ生じているのです。要するに、その年においても一旦完全に終焉したということでもないのです。 

ある国が島国で人口も少なく元来あまり他国との交流がない場合を考えると、水際作戦でほぼ見事にウイルスの上陸を阻止するということは考えやすい。一方、大陸の中の国で、周囲との国との交流が盛んである場合を考えると、そもそも水際作戦の成功は難しいことが想像できます。この区分で全てを説明することはできないと思いますが、思考実験的に参考にすべき区分だと思います。
台湾は典型的な好条件を揃えていたところに果敢な政府主導があって見事に水際作戦を成功させたようですが、モンゴルも島国ではないが地理的には類似の状況だったのでしょうか。日本は、島国であるという利点以外は、水際作戦が奏功しにくい条件が重なっているように思えます。しかも、政府がいかにも中共に忖度したように水際作戦をし損なったので大方の非難を浴びています。僕は、中共への忖度とともに東京五輪の存在が判断を遅らせたと思うのですが、理由が特に前者であれば絶対に許せない姿勢だと思います。

ところが、一旦、水際作戦が破られてしまったという時点以後の対応は水際作戦で勝負している時の対応とは全く違う戦略が必要だと思いますが、それを明確に論じているような意見を僕は聞かないのです。
確かに、ある時期にある程度のシャットダウンやロックダウンをすると感染のピークを下げることが出来て、かつ、遅らせることが出来るのではありますし、「量から質への転換」という弁証法的な真理を考えますと、シャットダウンによる質的な解決のチャンスはそれなりにありうると思います。
しかし、水際作戦の時のような「完全」を目指すということであれば、それは考えが間違っていると思います。この時期では「そこそこ」を目指すべきだと思います。その最大の理由は、相手は「目に見えない」ものだからです。「そこそこ」しか現実的には無理であって、それ以上を無理やり目指すと、日常の安定した生活や経済や健康を大いに損なうのです。
結局、現在のインフルエンザへの対応は、そういうところに落ち着いているから、毎年の生活を安定して送ることが出来ているのでしょう。
新型コロナが今後毎年問題になるかどうかは不明ですが、たとえ毎年ある程度起こっても、日本においては第二のインフルエンザが出現してしまったと思えばよいと思います。特に今年は、新型コロナ渦に伴って従来のインフルエンザ渦の災害が非常に少なく、「合計の災害は例年より明らに少ない」という評価もできているのです。

 ところで、現実には、新型コロナは今年以後は流行しないかもしれません。流行するかしないかは人類の対応が上出来だったかどうかよりも、新型ウイルス自体の人智を超えた arbitrary behaviorに拠るところが大きいと思うべきではないでしょうか。以前のSARS渦がその後起こらなくなったことの理由もそれはそういうことで、人類にとっては「運が良かった」ということでしょう。



2020年5月7日木曜日

「新型コロナから見える真実」ーインフルエンザの治療はいい加減だからよかった 


僕は、ほぼ一貫して、現在の毎年のインフルエンザに対してパニックにならないのに、今度の新型コロナに対してパニックになっていることへの疑問を抱きながら、本ブログで5編と「日出づる国考M」で4編の新型コロナ関連の記事を書きました。それを要約しますと、簡易の検査キットがなく、タミフルなどの治療薬がなかった時代でも、インフルエンザ渦の最中でも今のようなパニックにはなっていませんでした。

3月8日の前号で述べましたように、日本では1999年(平成11年)に現在用いられているインフルエンザの簡易診断キットが利用されるようになりました。また、現在までに内服薬の主役のタミフルは2001年(平成13年)に日本で保険適応になっており、現在では5種類(実質は4種類)の保険適用薬剤が揃っています。僕は、1991年から2016年までの26年間を有床診療所で活動していて、診断キットも、内服用のタミフルカプセルも、診療活動の後半から扱った経験がありますが、その前半にはそういう手段はありませんでした。しかし、普通に診療行為をしていました。
 僕は後進に診療所を譲り、開業医から引退していたのですが、高齢者専用施設への協力の求めに応じて、この2020年4月に小さい無床診療所を開設しました。この慣れない開設手続きに労力をとられて、この期間のブログ発信に気持ちが向きませんでした。この間に東京五輪も延期になり、政府による生活規制の要望が発信されて産業や経済に大きい変化が出るようになりました。

 なお、意見や自説を発信する多くのユーチューバーがそうしておられるように、この辺で自分のプロフィールを開示して持論のバックグラウンドを示させてもらうことにしました。大学院時代を中心に、最初は基礎免疫学(特に、サイクロフォスファミドの細胞性免疫増強作用とそれに関わるサプレッサーT細胞の意義についての仕事で、英国のネイチャー誌と米国の実験医学雑誌に計4編の論文その他を発表しました)を足掛け7年ほどしていましたが、途中で呼吸器外科の臨床が中心になり、約10年間は呼吸器外科医と臨床研究を行っていました。この時代には数冊の書物の分担執筆を担当しましたが、その中にはヘルス出版「外科学」の教科書があります。その後大学を去り、診療所を開設しました。診療所では前半は開胸術も行っていましたが、後半は循環器内科・呼吸器内科を中心に活動しました。 
 
僕も、3年前までの26年間を有床診療所の開業医(世にいう「実地医家」)として「なんでも屋」で診療の機会をいただいてきました。正直なところ、インフルエンザへの対応は、周囲の開業医と歩調を合わせていただけで、特に文献を探して「何が一番良い対応であるか」ということを考えたことはありません。ただ、タミフルという治療薬は当初からその効能よりも副作用(未成年者に多い突然の異常行動)のリスクが語られ、これらについては複数の文献を当たって自分なりの判断をするようにしていました。
 今回、新型コロナの話題を調べたり考えたりしている間に、インフルエンザに対する検査キットの思い出を書きましたが(前号)、そもそも今ではパニックなんかを起こしていない毎年のインフルエンザ渦に対しての国を挙げての(国だけでなくマスコミも庶民も感染症専門家も開業医も)現在の対応というものは、「滅茶苦茶いい加減なんだ」ということに遅まきながら気付きました。

 平成19年(2007)の厚労省資料(医薬食品局の会議用資料)によると、インフルエンザ死亡者実数は、1400人(1999)➞600人(2000)➞200人(2001)➞400人(2002)➞1200人(2003)➞700人(2004)➞1800人(2005)でした(他で見た資料より少ないような気がしました・・・・)。これを示した棒グラフを見ても、タミフルという治療薬の導入(2001年に保険適用)がインフルエンザ関連死亡を減少させた効果は全くなかったことを知りました。

最近の日本でのインフルエンザ関連死亡者は数千人で、簡易キット検査陽性者数は1千万人に及んでいます(偽陰性が多いとすると,感染者の実数はもっと多い)。この20年の間に高齢者が増加したことが関連死亡者数の増加に寄与しているかもしれません。65歳以上の死亡者数が以前から多いのです。
 そうしますと、現在の毎年のインフルエンザ渦の実態は以下のようになります。キット検査の偽陰性率が50~30%(感度が50~70%)というようないい加減な検査精度のもの(特異度は90%以上で、偽陽性率はそれほど多くはない)が使われています。そして治療薬というものの成績が関連死亡者数を減らしているという効果はないようなのです。
 これでパニックになっていないのです。「だから、インフルエンザこそパニックになるべきだ」と言いたのではありません。パニックになっていない知恵を学習しようではありませんかと問いたいのです。
 これは生活の知恵といえるかもしれないが、それよりもむしろ、「それしか仕方がないじゃあないか」という現実受容の姿勢だと私は思うのです。

 インフルエンザの簡易検査キットのことを述べますと(PCR検査ではありません)、安価で容易で短期間で結果が出るというのが最大の利点でしょう。しかし、感度が不良で偽陰性が30~50%も出ることについてはどういう意義があるのかという疑問が出てきます。検査を受ける患者にとっては、陽性が出たら「大きい確率でインフルエンザである」と受け取ってよいということが一番大きい意義でしょう(特異度が95%であれば、非感染者の百人中で5人は偽陽性ですが)。そして、陰性が出たら「臨床所見を加味して臨床診断を付けましょう」というダブルスタンダードを用いるという「哲学」ということになります。このことは下記の「亀田感染症ガイドライン」の記載を読んで再確認できたことです。その記載はイデオロギーではなくて、実地臨床に携わっていることから帰納される妥当なものと思いました。

 ●<インフルエンザ迅速検査> 感度は5070%、特異度は90%以上。疑った状況で検査陽性ならインフルエンザと診断して良い。 一方で、感度が低いため、事前確率が高い状況(例えばインフルエンザ流行期に濃厚接触歴がある 患者が発熱で受診した場合)では、迅速検査が陰性でも除外できない。流行期においては、検査結 果に関わらず、臨床診断を重視する。流行期の典型的な症状(発熱、頭痛、筋肉痛、咽頭痛)と 接触歴(家庭内の罹患者の存在)があれば、迅速検査なしで診断してもよい。(亀田感染症ガイドライン・ インフルエンザ流行期に致死的な疾患を見逃さないための手引きー最終更新20188月 作成:山室亮介・黒田浩一 監修:細川直登)

 ただ、これを突き詰めると、臨床所見と濃厚接触歴があればこのような低感度のインフルエンザキット検査はそもそも不要だという結論も妥当だという結論になってもおかしくはないと僕は思います。しかるに、この検査が生き残っている理由は何かといえば、「単に頭の整理が出来ていない」というつまらない根拠でなければ学会や製薬業界に関わる利権の絡み(善悪は別にして)かもしれません。ただ、僕は別の理由も多少ありかなという気持ちがあります。
 もともと、タミフルは当初から副作用リスクからの反対論が多かったのです。忘れっぽい一般の日本人は覚えていないかもしれませんが、政府に何でも反対という勢力がタミフル使用に強固に反対していました。言わずと知れた大手マスコミと日本保険医協会(構造上、僕も多くの医師がそうであるように、日本医師会と日本保険医協会の両方に加入しています)の機関誌です。
 インフルエンザでもないのにタミフルなんぞを服用して精神異常を起こして、飛び降り死亡でもしてしまったらダブルに不都合です。だから、陽性になった人になら少なくとも確定診断に限りなく近いからタミフルを用いる壁が低くなるというのは当初はわずかながらあったのかもしれません。今でも、未成年には特別の理由がない限りタミフルを投薬しないことがルールになっています。ただ、この精神変調はタミフルが原因ではなくインフルエンザの一部にそういう症状が出る要因が内在しているのであるという考えが次第に増えていっているという情勢だと思われます。

 次に治療薬のことに話を移します。タミフルは関連死亡者数を減らす効果が結局は認められていないようです。日本国内でも海外でもその効果は「有症状期間の有意の短縮」しかないようです。開業医としての僕の認識もそんな感じでしたし、そう説明していました。「タミフルという薬の効果はいうほどのものではないのではないか」という疑問が出てくるのです。
 下記に「日本感染症学会提言 ~抗インフルエンザ薬の使用について~」(2019.10.24更新)の一部を引用します

インフルエンザはself-limitedな疾患であり、対症療法のみで軽快することもしばしば認められます。リスクを持たない若年者では、全ての患者に抗ウイルス薬を投与する必要はないとする考えもあり、発症後の日数が経過している場合や、既に症状が軽快傾向であるならば、経過観察となる場合もあると思われます。しかしながら、リスクを持たない人においても重症化することが認められ、病初期の段階でそれを判断することは困難です。

 これを読むとますます、学会自体がタミフルを用いる「言い訳」を無理やりしているようにも感じます。世界で日本が断トツでタミフルを用いており、米国はその半分でしかなく、その他の国々ではあまり用いていないのが実情です(その差は、各国の医療費の高騰を真剣に避けようとする意志の差の反映と僕は思っています)。
 日本の開業医としての僕は日本の多くの患者がその服用を希望するコンセンサスがあるからそれに従っていたことが大きく(保険医登録して活動しているので、自分の独特の考えだけでは診療はできません)、それほど重要な切り札だとはあまり思っていませんでした。しかし、そういう僕自身は自分のことでインフルエンザを疑った時に(検査は陰性だったが)、リスク・ベネフィットの確率を考えて自己服用したこともありましたし、今後も状況に従って服用するだろうと思っています。「やることはやった」という納得感が自己体験でも大きいこともある(いつもそうだということではないが)と思いました。

 タミフルの効果が曖昧であるという原因は、薬剤自体の問題よりは実は相手が流行の感染症ということ自体にもあるように思うのです。上述の「日本感染症学会提言」の引用の最初のところがそれを示していると思います。「インフルエンザはself-limitedな疾患であり、放っておいても大多数は早期に自然治癒する」からです。こういう疾患に「決定的な治療薬」という話もケッタイな話です。新型コロナでも「特効薬」とマスコミやユーチューブでいろんな薬品のことを話題にしていますが、「特効薬」という言葉の怪しさも意味論的に検証を要する用語です。「目くらまし」を受けては駄目だと思います。実際は「納得感」が一番大きいかもしれないと思います。なお、細菌疾患における抗生物質の一般的な重要さのことを考えると、全てをケッタイな話と否定するものでもないとは思いますが・・・・。 
翻って、肺癌とか膠原病とか認知症とか自然治癒があまり起こらないであろう疾患においては、有効な治療薬の候補に対する期待自身も大きいのですが、これらについての治療成績の判定結果はもっと判りやすいことになるのです。

 以上のごとく、日本国内において毎年1千万人以上の感染を冬季の4カ月くらいの間に集中して巻き起こし、その結果、関連死亡は数千人に及ぶというインフルエンザ渦であるにもかかわらず、検査も薬も実に「いい加減な」話で終わっているのはどうしてか?
 僕は、「実際にいい加減な領域の事象であるのでいい加減にするしかなく、それが正解なのだろう」と思います。「いい加減な」は「ファジー」とも言い換えることが出来るでしょう。相手は目に見えない代物で厄介です。

 我が国では、冬季になればマスクをする人が増えています。僕自身はマスクをつける習慣はありませんが。そして、インフルエンザと思われる患者が発生すると、なるだけ他人とは接触しないように工夫をして、それが集団発生的になってきたら、その集団だけ学級閉鎖にしたり事業休止をしたりしてきました。「それだけのこと」を一応真面目にしていたら、「それ以上のこと」は人智の及ぶところのことではないような判断であったように僕は思います。
 毎年毎年大きい被害が出るという大問題でもありますが、毎年毎年であるので、まあ全体の被害のオーダーの予想が可能でもあるし、「災害」として通り過ぎるのを待っていたと思われます。「頑張ったうえは、後はお天道さまに任せる」が良いということだったと思います。
 現代は、特に近代以後の西洋文化では、善と悪・正解と不正解などのdichotomyが席捲し過ぎており、長い独自の文化を有する我が国もその西欧イデオロギーに染まってきていると思います。「ある政策を取ったから上手くいった」こともあるかもしれないが、「ある政策を取ったにもかかわらず上手くいった」こともあるのです。治療では「ある治療法を用いたが、後で考えると一般的には別の方がよかったかも知れないが、その患者にはその方がよかった因子が運よくあった」というようなファジーな面があるのでした。その逆も真なりです。
 人智の及ぶ以外の理由で結果が左右されることもあるのです。「政府の政策で完全にコントロールできるはずだ」と思いきらない方がよい場合もあるという真理を知る必要があると思うのです。マスコミがこういうイデオロギーで政府を攻撃する習慣はもう止めた方が宜しい。政府もマスコミに結局は左右されまくるようなことでは国民が大迷惑することになると思います(国民という言葉も怪しい言葉ですが)。

 あくまでも日本国内の話をすれば(外国での被害の多さの理由は、想像は出来ても不明な点もあるから)、新型コロナへの対応において「それ以上の対応」をしようとしたことに僕は疑問を感じるのです。確かインフルエンザが非常に流行した年では日本でも関連死亡実数は1万人あるいはそれを超したとの記憶があります。この記事を書いている時点でさえ(新型コロナが日本に上陸して、もう4カ月も経っている)、関連死亡実数は数百人でしかないのです(僕の当初の予想の、「せいぜい百人程度」というのを残念ながら超してしまったが)。少なくとも新型コロナによる関連死亡者数や重症者の数は、結局はインフルエンザ以上のオーダ―にならない蓋然性は誰の目にも明らかなのではないでしょうか。
 確かに「新型」のウイルスであるので、不明な点があるという一般的リスクがあるために、当初は過大かもしれない防御反応から始めたのは正解としても、もう4~5カ月も経過して、被害のレベルは想像ができるようになったと思うべきだと思います。

 事業が出来なくて経済的にも精神的にも変調を起こす人々も増えるし、「うつ」が増加し自殺者が増加することが多分確かであろうと思われます。最近の、日本の自殺者は年間数万人もあり、自殺の二番目の関連原因は経済的問題なのです。こちらの人数のオーダーの方が多いのではありませんか。
 もし、例年のインフルエンザ関連で死亡する人数を毎日毎日テレビの定時ニュースやワイドショー、そして新聞紙上で報道したら、インフルエンザであっても大変なパニックになってしまうはずです。僕は、先に上げたブログで繰り返し述べていますが、心理的パニックの有無の方が根源的な分岐点だという、一見順序が逆のパラドックスのようなことを思っています。その心理的なパニックを誘導しているのは、テレビ業界と新聞業界をはじめとするマスコミだと思います。

僕は、肺癌を含む肺疾患の多くの人々を担当させてもらってきましたし、有床診療所では最期を看取ることも多かったので、非常に多くの人々の最期の状態に立ち会ってきました。中には大往生と受け取られるような場合もあり、高齢者が多くなる中でそういう最期をお迎えになるようなことをある種のプロデュースできるような心構えをする必要があると思っていますが、多くの方の最期は、どんな病名であっても、辛いことや中には悲惨にみえることもあります。一応、病気で亡くなるということはそういうことなのです。そして、人口1億人以上の我が国では毎日毎日いろんな原因で死亡される人の数は膨大なのです。それぞれ、しばしば悲しく辛いことが絡んでいるのです。こんなことは毎日毎日テレビなどで流すようなことではないのではないかと思います。というより、普通は流してはいないのです。
 
 ただ、こういう僕も今回の新型コロナ関連では相当数の有名人が死亡されたことを知って、一寸多いのではないかという印象を持っています。これについての解説は自分にはできるものではありません。ただ、自分の中では今のところ三つのことを思っています。①どうも人工的に変異を誘導したウイルスが研究室から漏れてきたらしいので、壮年者でも状態を悪化せしめる属性を有しているのかな? ②常であれば、新聞の有名人の死亡欄では、その病名はせいぜい「肺炎」「心不全」「高齢のため」くらいしか明記していないと思われます。個人情報を詳しく書かないためだからだ。だから例年でも「インフルエンザ関連肺炎で死亡された」というような詳しい記述は普通はないと思われます。つまり、今回の新型コロナではマスコミが虫眼鏡で詳しい個人情報を流すから、そういう「多いなあ」という印象を与えている部分があるように思われる? ③今の僕には判らない理由があるのかな?、ということです。ただ、繰り返すようですが、死亡者数自体は例年のインフルエンザに比べても1~2桁少ないのが現状であります。

 相手は目に見えないウイルスであるから、広い国土という舞台においては完全に近い防御をしようという方針がそもそも無理な考えだと思います。人類が自然を征服するという考えも全部は否定するものではありませんが、そこそこの考えにしておかないと自然から手ひどいしっぺ返しを食らうというものです。工夫によりなるだけ被害の少ない体制を作ろうというのは正解だろうと思いますし、現在までの我が国の方針は、結果的にもそこそこのものだったかもしれません。しかし、国家の経済状況や国民の精神状態などとのバランスを考えていないようであれば、それは問題であると思います。この記事を書いている時点では、もう社会規制を外さないといけないと僕は思います。
 政府の方針も多少は重要であるとしても、一番重要なのはそのウイルス自身の持つ属性でしょう。それが極めて悪質なものだったか、そうでなかったのかという人間の力を超えた実態の方がその結果を大きく規定する要因だと思うべきでしょう。運・不運が絡んでいるはずです。
 以前のSARSの場合は、死亡率が非常に高かったが、幸いにして感染し易さが低かったようだった。それはラッキーだったのだと受け取るべきだと思うのです。今回の新型コロナは感染力も重症化率も、少なくとも日本においては、例年のインフルエンザと大きい違いはなかったということを素直に認めるべきだと僕は思います。

 外国と比べて日本の新型コロナ渦が軽微である理由についていろいろな仮説がユーチューブで語られています。先ず、日本のウイルスは異なるサブタイプではなかろうかというのがあります。今の僕にはよく判りません。武漢からのオリジナルのものではなく欧州からの変異株が入ってきたものだとかも。それならラテン系の状況が悪いのと符合しません。次に、日本人の特殊性のことが語られています。たとえば、遺伝子の差・BCG接種の影響などです。これらのことについてはなかなか科学的な決着は付きにくいと思われますが、僕は多分あまり関係がないと思っています。
 日本人には握手や抱擁の習慣はないし、日本人がきれい好きであることもあり、悪い方の個人主義が目立たないこともさることながら、僕の思う最大の理由は、日本においては貧富の差が極めて少なくて、生活状況が幅広く良好であるからだということです。日本の医療体制も確かに大きい貢献をしていると思いますが、衛生的な生活という面からもこの貧富の差がほとんどないという実情において日本が特殊な国であるということです。僕は、このことは先ず間違いがないと思っています。
 常に国民に不満を植え付ける日本のマスコミ論調を鵜呑みにしていると、こういう誰にでも判るはずの考えにはならず、日本は欧州から遅れた国だとか思わされてしまいます。僕は40年前に米国の首都ワシントンの郊外にあるNIH(国立癌研究所・免疫生物学研究室)に留学して、いろんな生活の場での経験がありますが、その時点でも、日本のほうが余程、衛生的な生活であることを知ったものです。
 つまり、今回の新型コロナで見えたものは、実は、日本人の大部分は貧富の差が極めて少なくて、かつ、衛生レベルの高い生活を送っているという真実と、世界市民イデオロギーという病魔に侵されたマスコミが国を大事にしようという報道ではなくてイデオロギーを愛する報道をし続けているという事実であるということです。
「世界市民イデオロギー」についてはいずれ議論を上げたいと思います。(注)既に、本ブログ「平和主義と菜食主義について」で触れていました(20200509)