2018年3月10日土曜日

意味論的国語辞典「イデオロギー」


イデオロギー: ①語源的にも実際的にも「観念の学問あるいは体系」ということらしい
        ②偏った観念の意味合いもあったが、前向きの意味合いも生れた
        ③ただ、それが真理かどうかは保留状態であることだけは明確だろう
        ④観念(思想や信念など)の体系なので、政治的なものとは限らない
        ⑤現代は、日常生活の中で「プチ・イデオロギー」が溢れている

 「オロジー:ology」は「学問」を示す接尾語だ。physiologyは生理学、pharmacologyは薬理学。古い用語においてはologyが語尾にないものが多い。天文学はastronomy、哲学はphylosophy、数学はmathematics、物理学はphysicsなど。しかし、新しい学問は、この語尾を付けて造語される場合が多いようだ。便利だからだろう。レオロジー、レントジェノロジーなど。

 グーグルやヤフーでイデオロギーの検索を探れば、いろんな観点からの説明があって参考になった。語源的には、十九世紀初めに、フランス人の唯物論者のトラシーという人がイデーの学問,つまり観念学という意味の idéologie を用いたことに由来する。

 そもそも、「学問」とは、考え方の体系とか方法論の体系というほどのことだ。真理を究明するために用いる手段となっていることも多いが、学問自体は真理を述べているとは限らない。

 

 若い頃からの僕の関心ごとである進化論は、イデオロギーの例だと思う。いくら過去からの膨大なデーターを並べても、その機構の真理にはなかなか届かない。最近はDNA分析が進化論の進展に寄与しているが、そのDNAの誕生自体は進化の謎の中に存在する。解析は進んでも肝腎の進化の原動力は闇の中だ。生物の多様性の具体的な精緻さを知れば知るほど、進化の原動力は「神」を想定しないと無理ではないかと悩める研究者もいる。僕はこれにシンパシーを感じる。一時、僕は、原動力の秘密は熱力学にあると思ったことがあるが、量子論や統一理論の先に(そこにも神の概念が見え隠れする)答えがあるのかもしれない。「学問」自体も真理をのべているものではないが、「論」となるともっと「誰かの意見」に過ぎない位置づけになる。

アインシュタインの相対性理論もあくまでも「理論」に過ぎなかった。彼はノーベル賞受賞者だが、一般相対性理論で受賞したのではなく、光電効果という検証可能な重要な現象のことで受賞している。当時、相対性理論の彼は量子論(これも「論」だ)の旗手のニールス・ボーアと公開の場できびしいバトルを戦わせている。一見して互いに相容れない「論」だったので、お互いに必死になって議論をしていたが、その内容はなんだか哲学や禅問答のような部分もあったのだ。もちろん、重要な数式は互いの手元にあったのだが、まさにイデオロギーだったと思われる。その後、相容れないはずの二つの「論」はそれぞれ事実の検証に耐えて発展的に生き残っている。卑近なところでは、かたやカーナビゲーション(GPS)の位置補正計算で実力を発揮しており、かたや量子コンピューターという夢の計算機を生み出そうとしている。自然科学においても、個々の研究は往々にしてイデオロギーから始まるのだが、他者による検証可能性(反証可能性)を担保している場合は、単なるイデオロギーで終わるのではなく、真理に近付いていく方向性がある。

 ところで、最もイデオロギーらしいものといえば、それは宗教教義に違いない。キリスト教会 vs 地動説、キリスト教会 vs ダーウイン進化論、キリスト教会 vs 共産主義、それに共産主義 vs ダーウイン進化論などにおける激しいバトルは、イデオロギー同士の対立だからだ。
 ローマ・キリスト教会は地動説と進化論には一応敗れている。自然科学の世界では、理論に対する反証が一つでも証明されたら、その理論の体系は廃棄される運命にある。実に、正々堂々という世界といえる。この一点を考えると、宗教教義はさらなる真理を求めないイデオロギーということになるのだろうか。
 既に述べたように、進化の原動力に神のようなものを想定せざるを得ないというイデオロギーの進化論研究者も、集積した知見を数多く知るようになった現代だからこそ存在している。ここにいう神とは「人間の叡智というものでも及ばざる何か」という程のことを言っているように思われる。キリスト教とも他の特定宗教とも無関係なものだ。正統的なダーウイニズムもまだ一つのイデオロギーに留まっているといえるだろう。

 

 現在の生活の中には、非政治・非宗教的な日常生活におけるプチ・イデオロギーで溢れかえっていると僕は思っている。多分、似非知性主義に冒されているからだろう。「一日三食をきっちり摂るべきだ」も「特定保健食品をとることはお勧めだ」もほぼ単なるイデオロギーに属する考えだと僕は思う。後者はむしろ商売がからんでいる。「血液型による性格診断は科学的根拠のない幼稚な話」という真っ当のように思われる意見が単なるイデオロギーであることを、僕は三十年ほど前に見破ったと思った。ただ、この僕の意見もまだイデオロギー的なものに留まっている。