2021年9月26日日曜日

科学論文も怪しいところがある(B)大規模統計データーは怪しい点がある

 (その1) 

高血圧の薬とか高コレステロール血症の薬とかの効果判定においては、最近では、大規模(1万人やそれ以上も)の被検者を集めてランダムに投与群と非投与群とに分けて比較するという検定法が用いられています。がんの治療薬においても同じことです。この両群は、互いに他の背景の条件が同等であるという前提です。 そして、理想的には検定する側も当事者にはどちらかが分からないというのがより適切だとされています(ダブルブラインド)。

 しかし、僕が思うには、これは単なる理屈であって、両群の背景が同等であるということは全然定かではないのです。例えば、血圧に関する、あるいは生命全体に関する背景因子が全て解明されているなどというのは、永遠に真実とはかけ離れている可能性があります。専門家がそのように言い張っているだけの形だと思います。人間の生理学的な機能が全部解明されているはずがない。

 同じようなテーマの大規模検定の仕事が、しばしば、あるいは、たまに、異なる結果になるのは、もし、統計学というものに間違いがなければ、個々の検定においての両群の選択に故意ではない不都合があるからというのが一番考えやすいはずだと思います。しかも、これは避けられないことのはずだと思います。とすると、1千万人もの大規模検定であっても、確かではない可能性が残ります。 

 

(その2)

  もし、大規模で真にランダムな検定がなされたと仮定しても、その結果は、その集団に含まれるべき個々の人々の結果の予測にはそのまま適用され難いということです。つまり、こういう仕事は政府機関などの政策にはそれなりに反映される意味がありますが、実地の臨床の場では、個別の背景が大きくものをいってきますから、政府や当該学会のガイドラインの通りには適用できないことが少なくありません。疫学的な話と個々の実地臨床の場とは話が違うことが少なくないということを医療関係者以外の方は知っておく方がよいと僕は思います。

 適切な例かどうか分かりませんが、血圧の高い人に無暗に降圧剤を投与するとかえって具合の悪くなることはあるのです。状態が不良で、そういうことをすると重要な臓器の循環が維持できなくなるということがあります。

 また、それとは全然異なる次元の話ですが、意識のしっかりした人が、「自分は人工的な治療を受けることを拒否したい」と言ったら、この人に対しては自然に任せるのが普通でしょう。

 これらのことは、コロナ対策においても、個人の個別性や主体性の尊重という観点からすれば、考え直してほしいと思うことです。

 

(その3)

 数十年前に読んだ書物で、今探してもその文章の出所が判らないのですが、以下のような深く刻むべき意見がありました。これは、ノーベル経済学賞を受賞した米国の統計学の専門家の言葉だそうです。「何千人も集めてやっと有意差が出てくるような大規模検定検査の結果によっても、目の前の数十名程度や個々の患者さんについての予測はできない」という風なことを言っています。「そうでなければ、何千人もの人数を集めなくても済んだはずだ」と僕は、心の中で解釈していました。臨床家として、常は、当該学会の発行するガイドラインをそれなりに参考にして、重きを置いていますが、その通りに出来ない事例は結構多くあります。しかも、僕は喘息の治療を開業医になってから、かなり経験しましたが、学会のガイドラインが不適切だと思うことは自分としては少なからずありました。

 

(その4)

 以上の議論を現在のコロナ対策に適用すると、以下のようになります。コロナワクチンも、コロナ治療薬も、PCR検査の結果による被検者への強制的ないし説得的な方向付け指導も、少なくとも、その個々の対象者への恩恵があるのか、被害があるのか、どちらともいえないのか、ということに関しては、「誰も」はっきりとは判らないということです。

 分かった風な欺瞞を言うべきではない。ただ、新型コロナが被害の少なくない感染症であるということが問題を複雑にしている要因なのです。つまり、個人における個別性や主体性の尊重と、全体の構成員への潜在的貢献ということが、しばしば、または、場合によっては相反する場合があるということが問題なのでしょう。ただ、自分たちの政策を進めるために、「分かった風なメッセージ」を発することがよくないと思います。特に、尾身会長に文句を言いたいと思います。政府も「本当は判らない点もありますが、政府としては、とりあえずは強い規制をかけようと決めました」というのなら、それはOKです。

 次の投稿で書く予定ですが、スウェーデンのコロナ対策の方針は、大方が誤解しているのとは違って、「集団免疫」を早期に獲得するために制限を緩くしていたことではなかったらしい。単に、「緩い規制で始めてみることが冷静な判断だろうと思う」ということだったらしい。「強い規制が奏功するかどうかが不明である以上は、それが妥当かな」ということだったらしい。僕の最初からの意見と多分同じ判断だと思うところです。

 最後に、日本では、感染者が自然に増えていった方が、1年間全体の国民の全体的な不幸は少なかったかも知れないという可能性は、医学的に見ても、荒唐無稽な話とは全然違うと思います。ワクチンの効果も実は不明だし、PCR検査陽性者の行動を制限してきたにもかかわらず陽性者数のコントロールが出来ないで今日に至っているということが、「事実」なのでしょう。しかも、それでも死亡者数は限定されているという見方も出来ると思います。国民は、この件で、不安を煽るテレビや新聞を見ない方がよろしいとお勧めします。僕は、ずっと、テレビのニュースやニュース解説やワイドショーは見ていません。これらのテレビ番組は特に精神に有害だと思います。ネット情報を(玉石混合であることを知りながら)自分で取捨選択して見ることが妥当なことだとお勧めします。

科学論文も怪しいところがある(A)基礎研究も怪しいところがある

(その1)

ノーベル生理学医学賞を受賞した研究も数多くの問題点がありました。その中でも、1926年のフィービゲル(デンマーク)は「がんの原因が寄生虫感染である」という研究で受賞しています。僕は詳細のことは調べていませんが、この事実は複数の書籍で確認しています。この誤った受賞のために、世界で初めての化学発癌の業績を示した日本の山極勝三郎が取るべきノーベル賞が取れなかった巡り合わせになったようです。

 

(その2)

  1949年の生理学医学賞は「精神障害にたいする治療としての前頭葉白質切載術」に対してモニス(ポルトガル)などが受賞しました。いわゆる「ロボトミー」といわれる手術で、現在では医学人権的に問題のある治療法の代表のような扱いになっています。

 

(その3)

  1997年のノーベル生理学医学賞はプリオン病の病因としての特殊な感染性のたんぱく質の研究でプルシナーに授与されました。社会的には、一時は狂牛病のことで世界中が大騒動になりましたが、今では忘れ去られたような感じです。その時だけの大騒ぎのようだったのは何故なのかなと思います。この研究は「間違い」だとの根拠は定かではありませんし、公的にはに認められているようですが、ただ、当初から病因についての論争があり、今でも疑問を抱いている研究者は多少はいるようだということを書いておきたかったのです。

 

(その4)

  実験データーを捏造したり数値を都合の良いように変更したりすれば、これは明らかな不正で問題外であります。しかしながら、ある自説(仮説)の証明のために実験した結果、10回のうちに5回が適した結果で残りの5回が適していない結果が出る場合があります。この適さない5回の資料を捨ててしまったらどうなるでしょうか? 一般的には、こうして得られた研究結果は怪し過ぎるということになるでしょう。

  しかし、僕が大学院生の時に、日本でノーベル賞級の免疫学の仕事をしていた千葉大学の研究室の大学院生たちと免疫学の西の雄のひとつだった九州大学の研究室の大学院生たちと一緒に信州にスキーツアーに連れて行ってもらったことがありましたが、夜の雑談の時に「上手くいかなかったデーターは捨てて、上手くいったようなデーターをまとめることがある」と言っていました。

 この話は、実は、微妙な話です。一般的には、こういう対処は出鱈目な論文につながるものです。ただ、微妙な技術の実験の場合に、「美しいデーターがでた場合だけ、本当だった」ということは、時にかしばしばかは別にして、ありうるのです。しかし、いくら研究として面白いものであっても、こういう場合には、切れ味の鋭い治療法への進展は難しいとは思います。特に、基礎医学関係の研究のデーターの少なくとも一部は物理学の研究に比べては実験の厳密性に大きい差があると知っておくべきだろうと思います。

 ところで、ある有名な歴史的な物理学の研究で(数十年前に読んだ元の書籍が見付からないので、何の実験だったか定かではないのですが・・・ミリカンの霧箱の実験? 天体の距離と何かの値?)、観測実験をしていて、その結果を2次元グラフにプロットしていたところ、滅茶滅茶ばらついてしまったのですが、そのうちの自説の理論に合わないばらつき点を消していったら(これらの点こそは測定の不具合と判断した)、見事なグラフが得られたそうです。そして、論文にその結果を書いたのです。そして、結果的にはそれは正しかったことは歴史が証明しました。その研究者が自説を絶対正しいという自信を持っていたことが基本にあったようです(必要条件かもしれませんが、十分条件では全然ありません)。このようなことは測定技術が相対的に未熟な微妙な時には起こりうることだと思われます。しかし、これは例外的なこととして「論文の当然の書き方」にしてはいけないと思われます。いずれにしましても、重要な研究成果については多少の年月が検証には必要なのだと僕が思う根拠です。

 

 (その5)

  次の投稿に述べる予定ですが、臨床の治療効果を検定する大規模研究においては、それぞれ別の機関が独立して同じようなトライアルを行うと、5つのうちで3つは有効であっても、2つは無効だったという事例はかなりあるのです。その場合、ある製薬会社が委託した研究の結果の中で、たまたま都合の良いデーターの方が得られた場合に、これだけを示すことは「嘘」とは言えない(製薬会社の委託実験はその一つだけだったからです)。しかし、「一般的に本当に本当か?」という不確かさは当然残ります。特に、テレビ通販のサプリメントの宣伝で、「効果があった」という資料を示して信用を得ようとしていますが、これは「嘘」ではないのでしょうが、効果が出なかった資料は捨てていると僕は信じています。しかも、通販レベルの案件の場合は、トライアルの人数はとても大規模調査とはいえず、それ自身だけでも統計的には怪しいと思います。その統計というのも怪しいことが多いのですが。


(その6=余談)

 最初に、ここに書いていた長い話は、僕個人のリアルな体験のことなので、ここの号では冗漫になりすぎると考え直して、一旦削除しました。ただ、近く、別の号に、基礎研究や臨床データーの扱いについて、自分の周囲や自分について生じたことの「覚書」を記録したいと思っています。早目に書き始める予定です。(2021.10.05)


 

 

 

 


2021年9月25日土曜日

新型コロナ騒動における議論を整理することで物事の本質に近づくと思う

コロナ対策において、「命第一か? 経済第一か?」という議論

 日本において、コロナ事象の当初からこういう議論はあったかもしれません。一つの極は、何も積極的なコロナ対策を取らずに常の生活の流れを尊重する。他の極は、厳しいロックダウン政策を採用する(PCR検査の徹底とワクチンの徹底もこのラインに収束する構造にある)ということでしょう。実際に途中からそれなりにボツボツ発信されてきたロックダウン対策への批判は(不肖の僕もその一角を・・・)、1年半以上経った現在では、増えてきているように思われます。街中の生活や地道な経済活動に犠牲を強いているにもかかわらず、行政や専門家会議のコロナ対策の目途が立っていないので、それは自然の成り行きだと思われます。ただ、この表現上は二律背反のようになっている標語の実態は、そんな単純なものではありません(コロナ疾患も命だが、コロナ以外の生活も命がからんでいる)。

 

 僕は、昨年2月にブログ「日出づる国考M」において最初に新型コロナ関連の記事を投稿し、3月以後は主にブログ「意味論コラムM」において関連記事を投稿し続けてきました。当初から、僕は、インフルエンザ並みの緩い対策でフォローすべきだと主張してきました。そして1年半にもなりますが、その考えを変更せざるを得ない状況は起こらなかったと感じています。

 僕は、半世紀ほどの大半を臨床医として生計を立ててきた者なので、仕事上はイデオロギストではなく実務家であるべきで、そうであったと思います。「インフルエンザ並み」ということは「無策」ではもともとないのです。実際の「インフルエンザ」対策は、実務的であるがゆえに論理的・学問的にはいい加減なところ大ありでした。この話については、最初の頃の投稿に議論しています。

 

 「命第一か? 経済第一か?」という議論自体は当然ありうるし、どちらも重要なので、通常はその中間に目標が行くことになりますが、その目標点は状況によって左右に振れるというのも自然の成り行きだと思われます。

以前の投稿にも述べていますが、コロナ対策をある疾患における薬物療法に置き換えると、「なにがしかの効果は期待できるが、一定の副作用がありうる」という話が参考になります。特に、難病などの疾患においては、明らかな副作用があることを承知で治療をすることになります。例えば、がん疾患に対する強力な抗癌剤の投与や自己免疫疾患に対する強力な免疫抑制療法です。こういう場合の副作用は許されうるのですが、そうであってもその治療がもとで死ぬような事態は可及的に避けなくてはなりません。コロナ対策についての賛否両論の議論においても、こういう話と似たようなことだと思われます。僕はこういう議論をすることもあり得たと思います。

 

 しかしながら、僕の行ってきた議論はこういうことではなかったのです。政府が行おうとしているコロナ対策は、その具体的内容の如何にかかわらず、「なにがしかの効果は期待できるが、一定の副作用がありうる」ということではなくて、本当のところは「その効果は不確定なのに(実は、誰にも判らない)、ある程度以上の副作用は確定的に生じる」というものなのだという叫びだったのです。臨床医療の世界では、このような治療薬など認可されないし認可すべきではありません。だから、ある程度以上の生活制限につながる対策は間違っているはずだという意見でした。

 そうであるので、費用のことを度外視すると、PCR検査自体に反対をするものではありません。僕は、イデオロギストではないので、PCR検査はなんでも反対だというものではありません。その陽性・陰性という判定を絶対視することは馬鹿げており、その結果により被験者の生活を大きく左右する強制力や検査を受けない人たちを非難するような方向付けさえしなければ、その結果自体はなにがしかの有益な情報になるかもしれないからです。 

 

PCR検査自体についての反対はないが、mRNAワクチン自体には疑念がある 

ただ、僕のmRNAワクチンに対する考えはPCRに対する考えとは全然違います。PCR検査は本人の体には基本的になにも影響を与えないのですが、mRNAワクチンは怪しい物質を筋肉内に打ち込むのです(僕は、本人から取り出した細胞をiPS細胞化して注射する山中博士の治療の方が直観的にずっと受け入れやすい)。これは、不活化ワクチン(死菌ワクチン)と違って、生ワクチンに近いものです。打ち込んだ物質が生体において(DNAをつくり出して➞あっ、これは間違い)相当するたんぱく質を作りだすので、生ワクチンに近いと考えることができます。すなわち、人工的に少なくとも短期的に生きているような物質で疑似感染させることです。僕は、そもそも生ワクチン自体が怪しい治療法だと思います。「余程切羽詰まったので適用せざるをえなかった治療法」という立ち位置だとすべきものだと思います。

 科学データーではこのmRNA物質はいつまでも細胞質内に残らずに数週間のうちに分解消失してしまうから心配ないらしい。また、核内には侵入しないという。僕は、自称・基礎免疫学研究者でもありますので、立派な研究成果に敬意を表するものです。しかしながら、研究を続けていくと、数年後や数10年後には当初に予想もしなかった事実が判ってくることもあるのです。この場合なら、たとえば、生体内には今まで判っていなかったRNAに作用する何らかの酵素が存在していることがその後発見されて、mRNAワクチンの短期間での影響が消えてしまうということではなくなるとか(これは、議論としての例えばの話で、僕はこの方面のことは良く判っておりません)、その他の新発見が出てくるかもしれません。

 僕は、一つ前の投稿で議論したように、どうせワクチンを使うのなら、インフルエンザと同じような不活化ワクチンを作成して用いることを勧めたい。最初の頃は、いろいろ理屈を捏ねてmRNAワクチンでないと時間的に難しいようにその筋の専門家などが言っていましたが、少なくとも、流行から半年以上も経てば無理のはずがないと思われます。要するに、どういう変異株であっても、試験管内での培養が量的に可能になったら不活化ワクチンは製造可能になるはずです。インフルエンザでも前年に流行した株を中心に用いてワクチンを製造しているので、ある年には流行する変異株が「外れ」であって多少効果の悪いことが生じるらしい。しかし、「なにがしかの効果」というのに意味があるのだと思うか思わないかということだろうと思います。インフルエンザの場合は、これについて長年受け受け入れてきたのです。そして、今後は、インフルエンザ予防接種にもまさかのmRNAワクチンを開発することになるのでしょうか? 感度・特異度の精度を議論し出すとそういうことになってしまいます。

僕は、金を食うことだけがはっきりしているこういう方向は止めた方がよいと思います。米国のロックフェラー財閥などに一杯食わされている可能性が僕の中でどんどん確かなものになってきています。すなわち、mRNAワクチンという技術的には素晴らしい方法を開発した研究者たちはこれを実地応用したい欲望にかられるし(ノーベル賞の対象もありうる)、世界の大手製薬会社は莫大な利益が得られるので、彼らの私利私欲に係る陰謀の疑念が大きくなってきました。米国のグロ-バリスト政治家が絡んだワクチンビジネスやPCR検査ビジネスに一杯食わされているように気が本当にしてきました。なお、米国の医学研究の発展はロックフェラー財団に長きにわたって超絶な支援を受けてきており、それ故の権力構造が構築されています。ロックフェラーのテリトリーということが出来ると思われます。

 

余談として、一般的に予防接種というものは、それがその疾患の見事な予防になる場合であっても、頻度は別にして、かなり問題のある副作用が起こるものだということです。種痘でも稀ながら脳炎が生じて悲惨な結果になったことが複数報告されています。インフルエンザワクチンにおいても、免疫変調によると思われるギランバレー症候群を引き起こした症例が複数ありました。そして、予防接種は元の疾患の発症を修復して形の異なる疾患を誘発することがあるということです。京大の上久保先生のコロナ禍における交差免疫と集団免疫にかかわる議論(僕の投稿に詳しく述べています)において触れられている「抗体依存性ウイルス増殖促進」ということもあり、自然にせよ人工的にせよ、免疫をするということは単純に恩恵的な結果ばかりではありません。食物アレルギーや膠原病を考えれば判ることです。「免疫をする」「予防接種をする」とかの言葉に思考を失ってはならないのです。そのことが意味論的思考のエッセンスだと思います。

 

パンデミックのような感染症において、人為的なある対策が短期間に確実に成功を収めた事例はまだ経験していない

 世界的な被害をもたらしたスペイン風邪には人力は無力でしたが、これは古過ぎて仕方がないと思われます。しかし、この前のSARSにおいてや鳥インフルエンザの騒動の時も、何故か判らないうちに流行は収まりました。

 以下の3つのパンデミックはいずれもインフルエンザ亜型であって、コロナ亜型ではないのですが、参考になるはずです。

 スペイン風邪(1918~1919):古くて不明な部分は多いのですが、世界での死亡者数4千万人で、死亡率>2.5%という資料があります。当初はウイルス分離は出来ず、細菌感染に有効な抗生物質もない時代でした。1918年は第一次世界大戦の最終局面でしたので、戦場でもこのウイルス流行でさらに悲惨な状況を生んで、戦争続行が困難な状況になりました。そして、よく分からないうちに収束したようです。

 アジア風邪(1957~1958):2月に中国から発生。5月にウイルス分離。ワクチンは8月(米国)・10月(英国)・11月(日本)で使用開始になりましたが、製造量は十分ではなかったようです。「集会の禁止」「学校閉鎖」などが実施されたようです。世界での超過死亡者数は2百万人とされています。

 香港風邪(1968~1969):全体に軽症で(前年のH2N2亜型の大流行によって免疫が出来ていた可能性)、学校閉鎖もなく医療負担の増大もなかったとのこと。世界での超過死亡者数は百万人で前年にあった季節性インフルエンザよりも少なかったそうです。 

 これくらいしか、経験がないので、「こうしたらこうなる」というような確定的な対策があると主張する学者は学問を勘違いしていると思います。そもそも、公衆衛生的な空間的ないし数的スケールの大きい事象は純粋学問からは予測できないことが多いという簡単な真理を無視してはいけないと思います。学者は政府が参考とする重要な資料として諮問するだけの立場だと自戒すべきだと思います。

 今回のコロナ騒動において、スウェーデンにおいてはロックダウン的な生活制限をほとんどしなかったし、イスラエルにおいては早期から国内のワクチン接種で他国を凌駕する接種率を誇った。この二つの国の最近までの流行の収支決算は、「こうしたらこうなる」という公衆衛生的な対策は予測通りにはならないことがあることを示していると思います。日本おいても、1~2回のワクチンで済むような予測だったはずですが、目論見通りには行かなくなったこの時点においても懲りずに、3回目のワクチンを予定しています。要するに、予測が「外れている」のです。この場合、①ワクチン効果はいう程のことではないようだから、せいぜい「念のために」の精神レベルに緩めようという選択もあるはずだが、専門家会議の連中は、②ワクチンは対策のキモだから、今後は3回でも5回でも緩めずにガンガン進めよう、という方を迷いもなく政府を通して国民に強いていると解釈できます。

  

国家的な問題において、医学諮問委員会は政府関係者より決して「上」ではない

国民のことを考えるにあたって、どうも医学専門家との名札を貼っている人たちは、自分たちが政府よりも偉いと思っているという、僕に言わせれば、とんでもない誤謬に陥っているのではないかと疑っています。医療業界イデオロギー、あるいは、学者イデオロギーだと思われます。たとえ、政府の人間がこの領域の理解力にどうも怪しいと感付いていても、それは構造上・立場上で仕方のないことのはずです。自分の意見を理解してもらうべく一所懸命に説明しまくるというのは大切ですが、どうも、尾身氏や東京の医学研究者は態度がおかしい。

イデオロギーに陥っている者は、実は、頭が悪いと思います。基礎学問の研究者や臨床医は大学入学にそれなりの壁を乗り越えているということで頭が良いと思われているようですが、僕は、全然そうではないという思いを段々強くしています。入学試験を乗り越える才能のあることと物事の判断を的確にすることとはかなり違うように思います。僕は医師であり基礎医学研究を続けている者なので、自分のことや周囲の同業者を見回したうえで、そういうことをはっきりと言えると思っています。 

実地臨床のことについても語弊を恐れずに言いますと、臨床医の実践は僕においては学問的な知的満足度としては低いものです。大学入試の時に必要だった方面の知的能力もあまり必要としないと思います。この仕事のキモは教科書的なことを参考にしながら、自分で経験を積んで、患者というお客さんに真面目に対応することだと思います。その意義は学問とはかなり違うものです。ということは、建築家や料理人と変わることはないように思います。

すなわち、臨床医の方も実地医療のことは経験豊富であるが、詳しい基礎研究成果の方は受け売り知識程度の場合もありうるわけで、医学や医療の「素人」でも文献をあたっている方もいるわけでして、医師の方が医学を良く知っているということも、限らないと思うのです。比率は少ないでしょうが。

僭越ながら、僕が自分の意見に多少の自信がある理由は(もちろん、しばしば間違いもありますが)、自分が医学・医療の一応の専門家だからということではありません。若い頃から「一般意味論」の考え方を一貫して実践してきたことにあります。一般意味論という馴染みの少ないと思われる考え方を端折って説明すれば、「耳障りの良い、いかにも常識らしい」という意見には用心して、むしろ一旦立ち止まって、実際にはいろんな場合があることを一寸は考えて、自分の評価をボチボチ考えておく癖を付けるということでしょうか。この考えは、基礎研究にも大変に有用でしたが、特に長年の実地医療において「お客さん」の多くに貢献できた武器だったと思っています。

 僕は、二十年前から医療における一般意味論的な考え方を、1題ずつ選んでパンフレットに印刷して、「お客さん」に持って帰っていただくようししていました。百題集まったので、今春に単行本として出版しました(「ドクターMのヘルスコラム」風詠社)。アマゾンで販売しています。

 

この投稿において、文章が長くなりましたので、以下の内容は、次の号以後に書く予定です。

レベルの高い科学論文の内容も曖昧でいい加減なところがある

(その1)基礎研究も結構怪しいところがある

(その2)薬物などの治療法の有効性を証明する大規模統計データーは怪しい

スウェ-デン式コロナ対策は僕の考えと似ていたらしい

民主制国家ではマスクもワクチンも基本的には個人の利益のためのもの

etc.

2021年9月4日土曜日

最近のインフルエンザ感染数が激減したのはマスク着用とは明確に無関係

 最近、ユーチューブで「コロナの真実「現実の裏に隠された闇」(アキラボーイズストーリー #1,2021.04.14)」という記事を見ました。この方(アキラ氏としておく)は若者で何かの会社の代表をしているようです。事業所の代表という者は、政府や地方公共団体からの事業所への制限によって多大の迷惑をこうむるので、いろんな方が、結構コロナのような専門的な内容に関しても真剣に情報や経緯を調査・考察しているようです。僕も小さいながらも事業所を主宰していますのでわかります。アキラ氏の記事の冒頭に、箇条書きの項目が列挙されています。

 1,なぜ政府はコロナに対応できないのか?

 2.なぜコロナ感染者が増えたり減ったりするのか?

 3.なぜインフル感染者が0に近いのに、コロナはなくならないのか?

 4.なぜテレビは恐怖をあおる情報しか出さないのか?

 5.なぜワクチンがこんなに早く出来上がったのか?

6.ワクチンが出来たのに、なぜまだ謎のままなのか?

 

 アキラ氏の意見は、①~④のすべては⑤につながっているというもので、特殊なワクチン(新技術なので高価である)を製造することによって(大企業や世界金融業者による)莫大な金儲けのための陰謀だということです。この陰謀論は、この人の話のような単純・直線的なものとは思えませんが、結果的には、そして部分的には、そのように思えます。(  )は私が挿入したものです。

 ただ、このうちで、②と③については、この医学的には素人と思われるアキラ氏の判断力が的を得ていると思うので、このブログの導入に挙げました。

 曰く、②につていては、東京都の場合の例として、(行政上の判断で)意図的に検査数を増やしたり減らしたりした方針の結果で陽性者数が増えたり減ったりしているだけだ、ということです。 (  )は私が挿入したものです。

 曰く、③については、「風邪症状がでたら、(民衆も行政も)コロナかどうかに関心を集中させて、インフルかどうかについては無頓着だからだ」、ということです。(  )私が挿入したものです。

 どちらについても、当該検査数の実施数の多寡に決定的に影響を受けてしまっているという主張です。今や、こういう考えの人は多くなっているように思われます。

これは私の考えと同じです。それは、8月13日の本ブログの「米国CDC「現行のコロナPCR検査の適用は年内で終わる」という記事」のところで議論している通りです。 

ただ、このアキラ氏の記事の③に触発されて、8月13日のブログで抜けていた議論に気付きました。それをここで明記しておきます。

世間だけでなく、臨床医や基礎医学研究者という専門家であるはずの人々が、安易に主張しているような、「コロナ禍に触発されてマスク着用をちゃんとしていたから、インフルエンザは増えなかった。このことによって、一般的にマスク着用は感染防御に大変有効だということが再確認できたはずだ」という意見は頭の中がスカスカではないかと思うのです。こういうことを恥ずかし気もなく発言する医師などは、教科書に全部教えてもらって、教科書の一部は実は違うかもしれないという学習の仕方の習慣がない人たちです。まあ、素人とよい勝負です(私は、マスク着用そのものは、「適材適所的」には意味が大変あるものだと思ってはいます)。

何故かといえば、感染力については、インフルエンザも新型コロナも似たようなものです。ともに、「感染力はかなり強い方に属する」という病原体です。インフルエンザも新型コロナも特定の変異株によって感染力に強弱はあるにせよ、総体的に同じような感染力レベルであることは間違いがないはずだと思います。インフルエンザの方が感染力は相対的に強いのではないでしょうか?

日本において、マスク着用がインフルエンザ感染を劇的(桁違い)に減らしたのであれば、何故、コロナ感染は抑えられなかったのか??? コロナ感染がコントロールできず、インフルエンザが劇的に減っているということは、大筋としてはマスク着用とは無関係であるようだということは小学生でも判るはずのことです。 むしろ、精神が予備知識や先入観で汚染されていない小中学生の方が判りやすいのかもしれません。

 そして、その原因の(全部とは言わないが)最大の要因は、両者への関心の過大と過少にあり、その結果としての両者への検査実施数の多寡にあると思うべきであります。他に、どういう要因があるというのでしょうか。

 こういう要因をもたらした理由として私が考えることは以下のようなことです。日本という国に限れば、それはアキラ氏の項目にもあるように、マスコミの煽りに政府が負けてしまうからです。今までの状況では、強大なマスコミに逆らうと選挙に負けてしまうからマスコミの誘導に逆らえないのです。安倍政権でも菅政権でも、あまり規制はしたくなかったように思われます。マスコミに逆らえなかったという点で、だらしないと言われても仕方がないと思います。一方、世界的視野に立てば、IT技術の超絶な進歩により国際的な強権を獲得し出したグローバルな経済勢力による陰謀かもしれないと疑っております。この点はアキラ氏とよく似た考えだと思います。ただ、日本政府や東京都や日本のマスコミがそういう筋と直線的な関係にあるとは思えません。


(追記:2021.09.10)

 冒頭のアキラ氏による6つの疑問に対して、私がコロナに関するブログを書き始めた1年半前からの変わらない判断を書いておきます。

 1,なぜ政府はコロナに対応できないのか?

   基礎研究者も臨床医学者も政治学者も官僚政治家も、誰も、このコロナについて「どうしたらどうなる」ということが実は判らないからです。コロナについても、個々の場のことでもそうですが、特にマクロ政策の結末がどうなるかは誰も確定的なことは判らないことは、医学・医療に造詣がなくとも長年人間を生きてきて社会の歴史を知れば判ることです(歴史からの帰納)。「こうしたらこうなる」と解った風なことを言うのが間違いなのです(イデオロギーや期待的論理からの演繹)。「当面こうして様子を見たい」という姿勢でことを運ぶのが正解だろうと思います。その場合、当面裏目に出てもそれをもって行政を責めてはいけないと思います。方針を変更してまた様子を見るほかはないと思います(スウェーデンでの対応はこういう哲学が機能していると僕は以前から評価してきました)。しかし、判った風なことを言って「副作用」の大きい強制的な諸政策をすることを私は責めたいと思います。ただ、政府(それに、個々の地方自治体の首長)もマスコミや民衆からのポピュリズム圧に屈しているように思われます。そして、なんとか諮問委員会~なんとか分科会の尾身さんというのが立場上で一番ヤバい奴だと私は思っております。尾身さんの履歴を調べました。彼は、自治医科大学出身です。この学校では卒後プラン上で最初は地方における実地医療の経験をされているようですが、かなり早期に行政畑に入ったようです。その後、WHOにコミットした仕事をされているようです。医療行政の世界ではヒエラルキーの上層部に値する経歴なのでしょう。本質的には医師というよりは官僚と思われます。不肖ながら私は彼の言動を信用できません。

 4.なぜテレビは恐怖をあおる情報しか出さないのか?

   次のうちのどれが基本か判りませんが、「視聴率を上げること」「不安を煽ること」「安心だとはほぼ絶対に言わないこと」が絶対的な立場だからでしょう。「皆さん、いろんな情報を提供しますので、ご自分自身でよくお考え下さい」ということには絶対にならない。加えて、多くの大手マスコミは基本的に「左翼活動をしている結社」だから、必ず保守政権を公平さを欠いた仕方で徹底的に攻撃します。私は「自民党はひどいので怪しからん」と思うのですが、「左翼野党はもっととんでもない」と思っています。そういう人が相対的に多いから曲がりなりにも自民党が選挙で政権をとっているのでしょう。そういう状況の中で、大手マスコミは左翼政党の主張や反日姿勢の中共政府や韓国内の主張だけを声高に報道するのです。相対的に多い部分の有権者が何故こういう姿勢の大手マスコミを拒否しないのかが不思議ですね。私は、TVのニュース・報道番組・ワイドショーを数年前からは見ないようになりました。それで、世間のことは少し遅れて知ることが多いです。二つの新聞とネットニュースとユーチューブで情報を入れています。2種類の新聞を見比べると新聞社の姿勢をチェックできて興味深いものです。新聞から情報を受けると同時に新聞をチェックしています。新聞の場合はTVほどは腹が立たないのです。

 5.なぜワクチンがこんなに早く出来上がったのか?

   mRNAによるワクチンの開発には既に長い歴史があるようです。その開発研究者を山中伸弥氏がインタビューしている1時間弱の番組を見る機会がありました(=2021年7月15日・ETV特集「世界を変える大発見はこうして生まれた カリコ X 山中伸弥」)。最初は、動物に注射すると当初から強い炎症が生じてお先真っ暗だったとのことです。年月をかけて、化学修飾を加えたりして炎症を起こらなくしたという話でした。アキラ氏の情報では、生体内での安定化のために種々の脂質で保護しているということを述べていました。つまり、もともとコロナ以外の対象にいろいろ試行錯誤で開発してきていたのです。私自身は、今のところ、これに関する原論文の類は見ていません。

   もともとは「箸にも棒にもかからなかった」ものに時間をかけて工夫をして成功したというものです。学問的には、非常に高くされる研究だと私も思いますし、山中先生の ips細胞の研究のようにワクワクと知的好奇心をそそる仕事だと思っています。その一方で、その複雑な化学的操作によって曲がりなりにも出来上がったとする製品は、僕には「潜在的に大いに問題が起こる余地があるのではないか」と心配する所以です。僕はこの領域では素人ですが、やはり問いたいのです。「絶対にとは言わないでも(絶対ということばは僕はあまり使いたくはないのです)、絶対と言いたいほどに問題の極めて少ないものだ」と本当に言えるのか??? 論文のデータはそのように示しているかもしれないが、「どの領域の論文であっても、後日に問題が指摘されることもある」という歴史の教訓を多少は念頭に入れておかないといけないと僕は思うのです。そして、研究室内でのデーターによって確率的には問題がほぼないとされても、僕自身は接種したくないという意志(ひょっとしたら希望とされてしまう?)は捨てられないのです。

   新型コロナに対しては、1年も経つか経たないうちに英国などから使用承認がされたのでしたか。普通はどんな新しい機序の治療薬や予防薬に対して、こんな早く承認するような流れではないと思われます。短期・中期・長期の副作用や不都合な結果についての慎重な見極めを怠っているからでしかないのは明らかだと思います。アキラ氏も同じ考えだと思います。これは「超法規的」な方針なのです。「超法規的」な方針というのは、「将来のことは言っていられる状況ではないから、とにかく今を凌がないといけない」ということのはずです。これは場合のよってはあり得ることでしょう。それは、「将来のことは言っていられない状況」という認識であるほどのことのはずです。日本でのコロナ被害の程度でこういう「超法規的」な対応をすべきなのでしょうか?とずっと疑問を持っています。一方、世界のことは私には判らないことが多過ぎますが、日本よりもっと被害が大きい諸外国でも、こんな位置付けのワクチン(「超法規的」承認)を迷いもなく導入するのはどうかなあと思います。多少は迷うべきだと思います。

  インフルエンザに対するような普通のワクチンの製造は、実は!、可能なのではありませんか(有効率は相対的に低いとしても)? とりあえずは、ある程度以上の量の培養に成功したどれかのコロナ株を使用して普通のワクチンは作れるのではないでしょうか? 同様に変異株の発生するインフルエンザに対しても、次善の策(?)として、前年に流行した株を用いてワクチンを製造しているではありませんか。それと、じゃあ、何故インフルエンザにはもっと有効率が高いというmRNAワクチンを導入しなかったのか? 物理的にはできたはずだと思います。僕は、これは理屈だけではなくて、敢えてこういう仕組みのワクチンを導入せずに、まあボチボチやってきたそこそこのワクチンで社会はそれなりに混乱せずに済んでいたから可としていたように思います。ロックダウン的な社会規制(社会的およびコロナ以外の健康的な事象における確定的な副作用がもたらされる)とこのmRNAワクチンのありうる強制的導入(特に、ワクチンパスポートという人権侵害の疑い)とPCR検査のありうる強制的実施(これにも検査パスポートのような実態がありうる)は思想的にリンクしていると感じます。私は何でも自由であるべきだという考えでは全然ない立場の者であり、国家や地方や家庭のまとまりは大切だと思う者ですが。インフルエンザの場合はそういうことをせずに済ませてきました。

  それはそれとして、いずれにしても、「ワクチンで決定的解決ということではない」ということも「イロハのイ」と認識していないといけないと思います。「ゼロ目標」(=一般的に馬鹿げている)を導くものではなくて、限定的ないし相対的な効果と思っておかないといけない。「あの治療薬が適用されれば、それは決定的だ」という話も「とぼけた話」です。そんななずはないことは長いこと人間を生きてきて歴史を知れば判ることです(前述の帰納作業)。数十年の長い歴史を持つインフルエンザの近代的な対策において、そういう決定的なワクチンや決定的な治療薬が日の目を見ましたか? 未だにそれは無理なのです。そして、毎年多くのインフルエンザによる被害者が出ているのです。 限定的な予防効果や治療効果を期待してこういうのを受け入れてきただけです。やはり、後は運不運と個人の対応に任されているのです。

  昔のスペイン風邪や最近のSARSにおいては、流行が収まった理由は人力ではなかったと思われます。このコロナの事象においても残念ながら人力はまだまだ絶対ではなくて、「時」が過去の流行病を抑えてくれたという歴史の繰り返しであったことを冷静に謙虚に思うべきだと思います。そうして、もうそろそろそのタイミングは近いと私は期待しています。多分、「時」というのは、ウイルス自体側の自発的な変質と宿主側の集団免疫的な機構が働くのだろうと思います。

6.ワクチンが出来たのに、なぜまだ謎のままなのか?

  これは(1)と同じ議論になります。