2020年2月27日木曜日

歴史に基づく科学的社会理論を自認する共産主義は歴史事実により破綻している


 大学の教養学部で政治学を受講した。昭和42年の1年間だった。岡田教授は日本共産党の支持者であって、講義中にそういう発言をしていた。
 この講義で僕は重要なことを聴いた。「共産主義革命は未開地域では起こらず、資本主義社会が発達し過ぎた先進国でも起こらないだろう」「革命がおこるチャンスがある地域はある程度の経済が伸びてきてまだ十分な国力がない国だろう」これが岡田先生の個人的な考えだったかどうか知らなかったが、彼がこういう発言をしたのは僕にとって非常に新鮮だった。つまり、彼は「当時の日本で革命を起こすことはもはや無理である」と言っていたのである。
 日本の共産主義者は敗戦直後の日本の混乱の中では社会主義革命がありうると思ったのだろう。日本を占領した米国がソ連とは連合国同士であり、ルーズベルト大統領やその側近がスターリンのシンパないしスパイだったからだ(このことは最近の世界的常識になるつつある)。しかし、その米国の本国は戦後早期にレッド・パージに転換したように、GHQがそれを見逃すようにはしなかったことで成就しなかった。岡田教授の講義当時のベトナム戦争の最中のベトナム程度のところにチャンスがあると期待していたのだろう。
 
 しかし、歴史に基づく科学的社会理論を自認するマルクス―レーニン主義においては、「資本主義体制が進む経過中にその体制の矛盾が顕在化して、革命の契機になる」というのが、バイブルのような話であったはずだ。だから、実は、岡田先生がこういう内容を講義でしなければならなかったこの頃には既にマルクス理論は現実からもう外れていたことになる。
 未開の国で革命が起こらないに理由については、革命の組織化ができるほどには社会状況や個人の社会的な精神が進んでいないとの説明だった。先進国において革命が成功しない理由については、国家体制の治安に対する軍事力が強大すぎるので革命は成功するはずはないとの説明だった。僕は、昭和42年におけるこの岡田論理は概ね正しいと受け取っていた。

 振り返ると、産業革命後の社会的経済的な構造がどんどん変革していく英国や欧州を中心に、社会主義・共産主義の理論が生まれてきて、その実践の数多くの試みも行われ、マルクス自身も生存中は活発な活動をしていた。しかし、社会主義革命が曲がりなりにも成就したのは、マルクスの死後であり、欧州の中心地ではなかった。それは、20世紀初頭のロシア革命であり、第二次世界大戦が契機の中共革命である。このどちらの革命の場合でも、その当時の社会状況は資本主義経済が全然発達していなかった地域だった。前者は農奴制度を伴った帝政であり、後者は農奴制度とあまり変わらないような社会経済状況で軍閥が各地での勢力を握っていたような状況だったと思われる。つまり、この時点で既に、マルクス主義の理論が外れていたのである。これが最初からの「外れ」である。

 二つ目の「外れ」について。社会主義革命から最終的な共産主義体制に進化する過程において、一時的な指導層による独裁体制はやむを得ないというような四方山話が現実の中で事後的に生まれてきたのだろう。しかし、その後、現実が進むと、社会主義国家体制と独裁体制とは表裏一体であることが明らかとなっていったのである。東欧の社会主義国家や北朝鮮も同じようなことだ。この二つ目の「外れ」は第二次世界大戦の戦後しばらくした時期にはもううすうすわかっていたはずだ。最近の結論としては、社会主義国家は独裁的な国家社会主義(全体主義)にならざるを得ないということだ。経済的には国家資本主義的にならざるを得ず、ナイーブな「みんなが平等で、ある程度の経済水準を共有する」のだというユートピアなんぞは成立するはずがないのである。たとえ平等ということがあるとしても、指導層以外は生活水準が非常に低いままの平等だ。

 経済的にこの理由を考えると簡単なことだと僕には思われる。ソ連や中共のように巨大な人口を抱えた社会主義国家では、その体制を維持するためには治安維持のための過大な数の職員と多大な程度の治安装備を保持しないといけないので、国の富はこの部分に多くを割くことになり、国民は豊かになれない。さらに、周囲の圧倒的多数の資本主義国家との潜在的や現実的な抗争にもっと莫大な軍事力を維持しなくてはならないので、さらに軍事大国にならざるを得ない。そのうえ指導層が国の富を搾取するのが常なので、体制崩壊前のソ連や、現在の北朝鮮・中共の状態になってしまうのだ。国民への十分な富の配分とは最も遠い。
 もし、共産主義経済が成立する状況を想像すると、狩猟と農耕に毛が生えたような手工業までの二次産業程度でしかないような少数部族程度の集団で、かつ、周囲の国からの干渉や侵略を受けないような隔離された状況でしかないと想像する。現在では無理な話である。 
 
 ソ連崩壊の後には中華人民共和国(中共)が生き残っていた。中共がソ連と同じとはいえないかもしれないが(毛沢東主義国家)、現実的には同じようなものだ。
戦後、米国は脅威を増したソ連への対抗のために、まだ国力が大きくなかった中共を支援して、ソ連への圧力としようとした。つい最近まで、米国は中共に莫大な経済的協力を続けたのである。ソ連が崩壊してからも中共への経済的協力は自国の経済的国益と合致していると米国は判断し続けていた。その一方で、米国は戦後に同盟国になった日本が国家として強力になりすぎることのないように最近まで手を打っていた。
 とにかく、米国は経済的国益が得られそうな中共に経済的協力をし続けたが、欧州の先進国も日本も同じようなスタンスが長らく続くことになった。相手は国力として驚異的な成長し続けだした(軍事力およびIT産業・バイオテクノロジー産業に特化した経済力)社会主義国家の中共なのにそうだったのである。
 これは、「国民総生産の目安としてある程度の生活水準が上がると、独裁的社会主義体制が民主体制に移行する」という社会理論を資本主義国家側が勝手に信じようとしたから成立した資本主義体制側の幻想だったのに過ぎない。つまり、こういう理論も誤りであったことを歴史が示してもう長くなるのだが、このことをやっと最近認め出したのである。これが二つ目の「外れ」の番外編である。 
 たまたま米国でトランプ政権が発足する時期の前後から「間違いであった」という結論が米国においては大凡のコンセンサスに到達しだしたのである。
 
毛沢東の後を引き継いだ鄧小平が実に賢明で「1国2制度という方針を打ち出して、民主主義国家に幻想を抱かせたのである(ずる賢いことはその国家にとって良いことだ)。その後、中共は軟硬何人もの指導者が入れ替わったが、最終的には資本主義国家側が一杯食わされたという現実になっていたことに気付いたということだ。特に、2年前の全人代で習近平が鄧小平以来の集団指導体制を再び独裁体制に変更してしまった(憲法を変えた)。そこで軍事力と経済力で2049年(建国百周年)までに世界の覇権を握るという従来からの国家意欲を改めて表明してしまった。さすがに呑気な周囲の国家も「これはヤバい」と気付いたのだ。欧米の諸国は米国先導で、親中国から一転した姿勢を取り始めている昨今である。
 ところが、多くの民主制国家の中で、現時点の日本だけが、官民ともに、この「切り替え」が全然できていない事例で溢れかえっている。日本は今後も間違った選択をし続けるという誤りを犯そうとするのか。何故、日本はこうなのか。ここに、現時点での歴史に基づいた「日本論」についての議論の必然性が出てくるように僕には思える。

ここで述べたかったことは、社会主義革命の行く着く先は国民の不幸で決まりというもので、歴史に基づく科学的社会理論でもなんでもないということだ。しかし、それをいまだに信じようとする、あるいは、そのシンパ的な人たちはいくら学歴があったとしても相当「頭が悪い」に違いない。そもそも社会主義国家とは経済的な不都合どころか、基本的人権全般が制限され、特に精神的な自由が侵害されることが不可分の体制であることが歴史的に証明されてきた。それでもなお、日本のマスコミを先兵とする似非知識人の人たちは社会主義思想にエールを送りたいのである。僕には到底理解できない。
そういう状況をもたらしてきた左翼活動家の修辞学の優秀さだけは認識しなければならないと思う。ただ、それが優秀だといっても、相当に「頭が悪く」なければ騙されるはずがない程度のものだと僕には思えてしまう。学校教育や自己研鑽による知的訓練よりも新聞・テレビの垂れ流し情報の影響の方がボディーブローのように効いていることが現実である。

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