2020年2月19日水曜日

日本で左翼思想が席捲する理由(その1)僕の青春時代までの回想

 今日このシリーズを始めるにあたってのプランとしては、(その1)僕の青春時代までの思い出、(その2)左翼思想は修辞学が優秀である、(その3)左翼思想はインテリに親和性がある、(その4)左翼思想は組織化能力が優秀である、(その5)日本のマスコミの体質の実態、などがすぐに思いつく。十年も二十年も前からこういうことに気付いていたからだ。 つまり、今回は(その1)「僕の青春時代までの思い出」となる。

 既に他所にも書き記しているが(拙著「Road to BABYMETAL」)、僕自身は小学生の中高学年までには太平洋戦争全般のことを読んでかなり詳しく知っていた。その頃(昭和30年ごろくらいか)までも、日英海戦・日米海戦やインドシナ侵攻についての解説付きグラビアが結構書店に並んでいたようだ。昭和31年に池田隼人首相が「もはや戦後ではない」と宣言したのがこの頃であるのが僕には興味深い。各局地戦のディーテイルを解説した内容と、「こうしたら勝っていたかもしれなかったのに、残念だ」というような話であったように記憶している。そういう内容が、4歳上の兄と僕の興味を誘っていたのだが、多くの大人たちがそうであったからこういう書籍が売り出されていたのであろう。僕ははっきり知らなかったが、父ではなく兄が買ってきていたのだと思う。
 その頃の巷間の雰囲気としては、吾が戦争の犯罪性の有無というような議論は皆無だった。この頃のこうした世相を僕より若い人は知らないと思うので書いておく意味があると思う。東京裁判もGHQによる日本統治もこれよりも以前に実施されたのにもかかわらずである。つまり、米国の「日本骨抜き作戦」は戦後すぐ始まったのに、それから10年も経ったこの頃までは、日本の世間はそういう考えではなかったという事実を証言しておきたい。
 つまり、「もはや戦後ではない」と首相が宣言した後から、日本の文化が「花より団子」にどんどん変わっていき、「日本骨抜き作戦」の影響が徐々に進行していって、現在もなおその状態なのである。結局、この頃から7年ほど経った頃には(もう、米国の方針は変わっていたにもかかわらず)、GHQが蒔いた左翼思想シンパの人々が活動しやすくなった環境が保守政権の無策と左翼組織の自己増殖能力によって強化されていったと思われる。それは、日教組をはじめとする労組や東京大学法学部を中心とした学府や官僚やマスコミに左翼的な利権構造がなおも強化されていったからだと思われる。

 小学校の高学年の頃までは、副読本(副教科書)というのがあり、それに従って「道徳」(「倫理」だったかしれない)の授業があった。記憶では「二宮尊徳」の話もあったと思う。多分、今はこういう授業はないのであろう。国家斉唱や国旗掲揚に疑い持つ連中がいることなど、そういう雰囲気は高校卒業までには全く気付かなかった。繰り返すが、その前に極東裁判やGHQ統治があったのにである。
 GHQの影響下で作られた戦後の歴史教科書では「米国が正で日本が邪」という日本戦犯論が強制されたが、その内容は、現在の方が僕の小学校時代よりも過激になっているように思われる。
 今までに知ったことついては、戦後の左翼組織の日教組が次第に強力になっていったわけなので(最近、やっと組織率が減っているらしいが)、多くの教師が組合に組織化さてれおり、その何割かの人たちがその左翼思想を実際に支持していたと思われる。しかし、小・中・高の学校の生活内で、そういう左翼的な方向に偏向した言動に気付いたことはなかった。しかし、今から思うと高校の時には、組合活動のことが生徒にも隠せなくなっていたこともあったが、僕は政治のこととして意識したことはなかった。 

 大阪府立高校の2年生の男子担任は女性的ともいえるほどマイルドな感じの人だったが、この先生は職組のアクティブメンバーであったらしい。この頃にこの先生たち数人が転勤を命じられたのだが(この理由は政治的なのかどうかの認識は僕にはなかったし、行政側がそういう意図であったかどうかも判らない)、たまたま隣の建物であった大阪府庁に組織的な阻止~陳情のような行動を教員がしたのである。それに一般生徒を連れて行ったのである。僕も「この先生はここにいて欲しいのに」というナイーブな気持ちで参加した。現場は多少は混乱したと思うが、乱闘などはなかった。結末としては、多分、転勤になったと思う。こういうことに教職員が生徒を連れていくことは間違っていると僕が思ったのは直ぐ後のことだった。
 3年生の時は物理の先生が土曜日に「エスペラント語」のボランティア活動をしていた。この先生もとてもマイルドな感じだった。職組の人かどうかはわからないが、今から思うとそうだと推測する。こういう日本語を相対的に否定的に対応するような活動や、マイルドな感じの人(実際に付き合うと、親切で良心的な人である人が多いと思う)に往々にして左翼的な人々が多いような印象を持つようになったからだ。マイルドだから左翼だと決めつけているのでは決してない。ただ、自分たちの支持層を増やすための方便としてはマイルドということは戦術的に優れている。

 京都大学医学部に進学したが、大学の教養部に入ると、もう全然違っていた。日共系と反日共系(こちらの方が優勢だった)の活動家のタテカン(立て看板)が学校内外に立ち並び、活動家が手持ちマイクでオルグ(勧誘活動)をしていた。僕は昭和42年入学だが、学生運動としては、既に60年安闘争(昭和35年)があったということで、入学の数年後には70年安保闘争があった。僕たちのところでは、大学管理法の阻止・学生としての自衛官受入れ阻止とか医学部内では博士論文にかかわる教授の強権阻止というような闘争が行われていた。今なら大多数は無関心だろうが、この頃は大学生というと多少のエリート意識があり、次代の日本を支えるという意識も今より強かったと思うので、かなりの学生が無関心ではなかったと思う。ただ、大多数は、僕がそうであったように、特定の組織とは距離を置いていて、すなわち、「ノンセクト」や「ノンポリ」学生だった。

 そのうちに何だかわからないうちに、教養学部の2回生から医学専門課程の3回生に進級する前のタイミングで医学部のストライキの動議が学生大会で可決されて、1年余の自宅待機になった。(後記: その期間は勘違いで1年未満だったと思うので、とりあえず訂正しておく。)
 この頃に、時計台の建物がある本部構内の正門を介しての活動家同士の衝突があった。この頃、羽仁五郎という左翼扇動家ともいうべき人が「都市の論理」という書物を上梓していて、学生間ではベストセラー的になっていて、僕も買った。この有名人物が京大本部の正門前の高場に立って突然演説を始めたので、たまたま通りがかった僕はそれを同級生の一人とともに近くで聞いていた。そして、その演説が終わるや否や、正門前に降ってわいたように活動学生が集まり、正門外には反日共系が、構内には民青系の学生が、という形になり、急に閉門された正門を介しての戦いになった。僕自身はこの衝突の際にたまたま本部構内に入って取り残された形になり、投石を避けながら多少の恐怖を味わった。相手側がゲバ棒を多数持っていたので、正門を突破されると自分も危険だった。お互いに誰が活動家で誰がノンポリ学生か区別がつかないからだ。その最中に、明らかに民青の活動家と思われる学生が「大学が機動隊を呼んでくれないかなあ」と話していたのを聞いた。彼らも怖かったのである。

 その後時が経って、ストライキ解除が議題の学生大会の開催の際には、僕は民青学生が募集した「行動隊」に成り行きで加わってしまった。この数年間は民青にシンパシーを感じていたし、ストライキが長く続くと生活が出来なくなり危惧を抱くようになったからだ。行動隊活動の最中に、逃げ遅れて反日共系学生に独り拘束されてしまったが、同級生が相手の中にいたのも幸いしてしばらくオルグされてから解放された。
 この「行動隊」は医学部のストライキ解除の学生大会を医学部内の講堂で開催するために、その設営に加勢してくれと民青の連中に頼まれたのだった。僕のような普通の学生が数名加わった。ところが、事の後で知ったことには、もともとその大会は安全な本部構内で開催することが既定方針で、ストライキ派が主流であった医学部構内での設営はダミーであった。ゲバ学生に妨害された結果、仕方なく本部講堂で大会を開くことになったという「状況証拠」を作るためのものだった。僕は知らなかったので最後まで医学部の講堂に居残ったので捕まってしまった。民青諸君は相手が部屋に突入してきた瞬間に、入れ替わりに逃げ出してしまって、本部講堂の仲間と合流していたのだ。この時に、政治とはこうことにエネルギーをかけるのだと知った。
ところが、医学部のストライキ派の活動学生も、実は「そろそろ授業を受けたいなあ」と考え出していたので、民青主導のストライキ解除の学生大会は成立して欲しかったのだ。だから、民青による会場のダミー設定に対しては、「殲滅する」として妨害にやってきたのだが、これも「状況証拠」を作るための芝居であった。
僕が相手学生に取り囲まれても無事に解放されたのは、一つにはこういう筋書きがあったことと、もう一つには、京大紛争においては、反体制派の学生活動もほとんどが京大学生の中で行われていたので、個人への暴力や建物の破壊などの傾向はあまりなかったのだと僕は思っている。それに引き換え、東京の方は大学の枠組みを超えた学生運動が多かったようで、「愛校心」に乏しく、学校の建物の破壊も大きく人的暴力も多かったのだと僕は思っている。国家に置き換えると、国家よりも世界市民なのだというアナーキズムは愛国心がなく過激になるのである。

授業再開になって学生間のトラブルはなかった。ストライキ派であった人たちも嬉しそうで恥ずかしそうであった。最初にクラスの自治会役員を2名選ぶ選挙があった。これに民青系の候補と反民青系の候補が立候補したが、僕はなお民青系の候補に依頼されて立候補した。もともとノンポリ学生の僕は1票差で落選したが、民青にもっとコミットしていた学生の票はもっと少なかった。実は、僕は落選してホッとした。それ以後は民青の学生たちとは交わらなかったが、その数年後に民医連の病院のカルテ整理のアルバイトを頼まれたことがあったので、民青の学生仲間はまだ僕を半分仲間と思っていたようだ。京都府知事は共産党の長期政権だったが、その蜷川虎三知事のカルテをその際にたまたま僕は見た。

 医学部の学生においては反日共系シンパの全学共闘会議派が「体制」であり、民青系は「非体制」だったので、キャンパスを歩くことにはストレスがある時期があった。医学部学生の多くは裕福な家庭の子弟だったので、多少ストライキが長引いても生活の心配がなかったようだが、僕の家庭は貧乏だった。裕福な家庭の子弟がより過激な反日共系のシンパであるという図式も僕にとっては滑稽であった。世間というものはおうおうにしてこういうものだのだという勉強をしたと思った。

 キャンパス生活の話をすると、教養学部の時には、「あの政治学の岡田教授は共産党シンパである」と普通の学生にもそういう情報が入っていた。彼は授業中に、「君たちは、そんな政治的なことよりも、冬の寒い時のストーブが欲しいというような生活改善闘争をしなければならない」と言って反日共系の暴力的な臭いのする行動を非難することを隠さなかった。僕はこの時「そうかもしれない」と思った。諮問には彼の意見を肯定するようなことを書いておくと合格に決まりだった。日本共産党は戦後に火炎瓶闘争を起こしてから国民の支持率が激減したので、以後、体制内革命の一環としてこういうマイルド路線を貫いているということも知った。それ故、日本共産党下部組織の「民青」のオルグは説話のようにマイルドだった。
 各講義の前の休憩時間にはしばしば主に反日共系の各セクトの活動家がやってきてオルグをぶっていった。そのうちにあるクラスにはあるセクトがよくやってきて、別のクラスには別のセクトがよく来るようになる傾向があることを僕は感じた。その結果、特定のセクトにコミットする学生は特定のクラスからのことが多いようになった。それよりも、特定のセクトの人脈は特定の高校の同窓生の比率が多いことも判るようになった。この時点で僕が気付いたことは、人はオルグの論理的内容よりも人脈によって引っ張られていることであった。ここでオルグの欺瞞性を僕は知ったと思った。ある大学は「中核」が優勢だが、別の大学は「社学同」が優勢であるというのも要するに人脈が引っ張り込む最大の引力であることを示している。
 ある日、僕のクラスで受験勉強だけを頑張ってきたような雰囲気の同級生が立ち上がって、「僕は勉強しにここにきているんです」とオルグの学生に正論(と僕も思った)を独りで勇敢に訴え出した。それからの議論の中でオルグの学生に突っ込まれて彼は泣いてしまったりした。僕も含めて、他の学生はそのやり取りを椅子に坐ってただ聞いていた。僕を含めて、各自はいろんな感想を持って聞いていたはずだ。後日談として、彼はそのセクトの活動家になっていってクラスから消えてしまった。僕などは、もともと自民党が怪しいと思っていたし、ベトナム戦争にも腹立たしい気持ちを持っていたりで、オルグの学生の喋っている「現状認識」というものには何も新鮮味を感じたりはしなかった。その大人しい学生にはオルグの内容が新鮮であり、「覚醒」させられてしまったと思った。
 その時に僕の感じたことは、もともと社会に関心を持っていなかった者が、急に議論を吹っ掛けられて、自分の政治的未熟さに気付いたということまでは良かったが、他にもいろんな考え方があるかもしれないという作業をすることなしに、そのセクトの活動家になって、その後、多分、偉そうに新たな後輩世代の一般学生にオルグをするのだろうなということだった。そもそも成人になったばかりの学生が偉そうに他人にオルグするなぞ滑稽の極みだとその時に僕は思っていた。つまり、左翼の思想にかぶれた連中にはそういうような人々が多いということを僕は知ったと思った。

 僕の非常に親しい人は未成年の頃から保守的な考えの持ち主であって、長じて自衛隊に入った。この当時は、現在に比べて、自衛隊に入ることにはかなりの世間体からの勇気が必要だった。しかし、その後、彼は単にその訓練生活に馴染めずに普通の会社に勤務し直した。その会社の社長がたまたま日本共産党の党員だった。そういうことはままあるようだ。当然のことながら組合活動が盛んな会社であり、その後明確な左翼的考えを持つようになった。
 有名人にもよくあることだが、「左から中」や「右から中」よりも「左から右」や「右から左」というパターンが結構ある。こういう場合は、論理内容そのものもさることながら、性格の方が極の方に走らせる要因であろうと思われる。こういう人は「そこそこ」とか「あれも正しいかもしれないが、こういう場合もありかもしれない」というパターンを採りにくい性格なのだろう。
 極左と極右とは親和性があると思わせる事例が政治や論壇で散見されるのであるが、その最大の理由は性格の問題であるという単純なことだと僕は思う。

 さて、医学専門課程の授業が始まったが、残りの3年足らずの間には4年間のスケジュールの授業が収まらずに、講義スケジュールを端折っても卒業が9月になってしまった。卒業式もなかった。
 僕たちの大学は大学紛争を一つの契機として、新しい教育システムが導入された。誰が先導したかは知らないが、「教授の強権」の基盤である「講座制」による講義を崩して「レベル・システム論」による講義に変わったのだ。この考えは、その後、他大学や文部省に広まっていったように僕は承知しているが、それを自分で検証したわけではない。
 具体的に言えば、解剖学とか病理学とかの縛りではなく、基礎医学では、分子レベル➜細胞レベル➜器官レベルなどの縛りでの講義だった(臨床では、臓器別ではなくてシステム別の講義だった)。だから、一つの縛りの講義には、複数の講座からの教員が分担して当たった。学問の教育としては良い点もあったし分かりにくい点もあったように感じた。
 伝統的な「講座制」では一つの「学」つまり「-ology」という研究対象物とそれにかかわる方法論的な「まとまり」があったが、「レベル・システム論」ではまとまりがなかったように感じた。しかも、結局は教授が権力を有する「講座制」はちゃんと生き残っていったので、本来の目的からはあまり意味がなかったとも総括しうると思った。
 ただ、この頃から後、研究ツールとして免疫組織化学・放射免疫測定(RIA)や分子生物学(遺伝子工学)のテクニックが席巻しだして現在に至っているが、この研究の方法論はあらゆる講座に活用されており、「レベル・システム論」はこの潮流をいち早く察知したプランナーが先導したのかもしれない。利根川進と本庶祐や山中伸也のノーベル賞受賞研究は、「基礎免疫学」や「腫瘍免疫学」や「再生医療学」という縛りでもあるが、共通しているのはワトソン・クリックの「二重らせん」が契機の分子生物学の技術とバーネットの「クローン選択説」が先導した免疫学的解析技術が如何に強力であるかということを物語っているということだろう。

 その頃の教育に関して、「レベル・システム論」というものの他に、「強権の」教授を外した「助講会」という組織ができていた。彼らが「レベル・システム論」を先導してくれたのかもしれない。助教授と講師が主なメンバーだったが助手も加わっていたようにも思える。これはまあボランティア的ともいえるアンフォーマルな組織(のような)ものだった。こういう人たちが、授業再開の時からしばらくの間、学生との(あるいは学生の代表との)意見交換をしてくれたのだ。僕が、その後気付いたと思ったことは、学生にあたりの良かったこうした先生達が本当に学問的に優秀であったかとか強い学問的信念を持っていたのかを振り返ると、割合的には疑問を感じるようになった。学園紛争の時に学生と対峙した教授の中にこそ割合的には立派な人達が多かったように気付いたのだ。そもそも全学共闘会議派に属していたヘルメット学生こそ政治的な信念が怪し過ぎて、ほとぼりが冷めたら、彼らはむしろ対峙した教授と僕ら以上に結構仲が良くなっていったのである。
 こういう有様を僕は傍観していたので、「あたりの良い先生」には多少は警戒して、「強権的に見える先生」には頭から拒否的にならないようにするのがよさそうだと思ったのである。











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