2020年2月1日土曜日

脱イデオロギーの意味論(その3)地球温暖化の観点からも人口の増加自体が問題


既に述べたように、長いタイムスパンを考えると地球は何度も氷河期(氷期)と間氷期とを繰り返しており、現在は次の氷期に向っている最中であって、長期的には寒冷に向かっているということだ。このことにおける気温変動の原因は種々提出されているが、要するに太陽から供給される照射エネルギーの地球全体による吸収率の変動によるものだ。しかし、現在の我々が生活している短いタイムスパンの中では、地球が吸収する太陽からの照射エネルギーはほぼ程一定である。ただ、太陽の黒点生成の変動などによりなどにより 0.1 程度の増減があるとのことだ(なお、千年くらいの周期で小氷期という多少の気温変動があるらしいが、これも黒点生成の変動が関係あるらしい)。
 地球が太陽から受ける総エネルギー量は1秒間に 1.75 × 1014 Wと計算されている。地球表面まで到達するのはこのうちの半分くらいだそうだ。因みに、この吸収率に影響する因子のひとつに空気中の炭酸ガス濃度があるということだ。
短いタイムスパンで、地球が太陽から吸収するエネルギーに有意の変動がないという前提で、人工的な地球温暖化の要因を考えてみよう。結論から言うと、原子力であろうが、太陽パネルであろうが、風車であろうが、化石燃料であろうが、本質的には地球温暖化要因という点では変わりはないのである。ただし、化石燃料の場合のように燃やして電力としてエネルギーを得ようとするものは、その時点での温度上昇と炭酸ガスの発生が直接的あるいは間接的温暖化の要因になりうる。ただ、地球温暖化に実際的にどの程度の寄与をしているかは未決着だ。その使用する総量次第で少なければ無視できる程度なのかもしれない。これは原子力発電の際の温度上昇にもいえることだ。

さて、ここで人類活動におけるエネルギー利用に際して生じる熱エネルギーの発生量という本質的と思われる因子を考えてみると、(人口 X 人口1人当たりに発生する熱エネルギー)ということになり、結局は人口と贅沢さの程度に既定されることになる。
生物体内における運動エネルギー利用の効率は驚異的であり、伴う熱発生は微々たるものである。しかし、人間が作った器械を用いてのエネルギー利用の際には随伴して発生する発熱は無視できないものだ。それ故、どの由来のエネルギーを利用しようとも、人間が暖を取るための直接的な温暖化効果はもとより、電気として保存されたエネルギーから種々の力学的エネルギーを利用する場合にも熱が随伴的に発生するのである(目的からするとエネルギーロスであるので、科学者や企業家はこのロスを減らすことに日夜努力しているのでもある)。人間がどんどん快適な活動を活発にすればするほど用いたエネルギーの利用の段階で熱が発生するのである。そして、人間が増えればそれに従って地球での発熱が増えるのは自明である。それで仕舞である。

上記のことが本質的なことだと思われるが、ことのついでに各種エネルギーについての補足をしておく。石炭と石油の化石燃料というものは、数億年もの長きにわたって太陽から受けたエネルギーの一部が最終形態として地下に保存された物質だ。この物質の持つエネルギーを人類はそれぞれ二百年強と百年強の短期間に猛烈な勢いで地球上で開放してきたのである。これは、換言すれば太陽から地球への太陽エネルギーの吸収率がこの数百年間に増大したことと等価であるのだ。これは少なくとも質的には地球温暖化を誘導する。
 風力発電はクール発電の典型のように言われているが、風という力学的エネルギーの一部を電力として保存するのであるから、同じように太陽エネルギーの実質の吸収率が増加したこととやはり等価である。これは化石燃料と異なりリアルタイムでの吸収率の増加である。太陽光パネルなどというものは名実ともに地球への太陽エネルギーの吸収率を向上させようとするものだ。当然のこととして地球温暖化の要因になる。原子力発電はこの意味では化石燃料と同じことである。地球内に内蔵されている根源的なエネルギーを科学イノベーションの力によって短期間の間に開放することができる。
 すなわち、化石燃料を燃やして電力に保存しようが、別のものを燃やすことなしに電力に保存しようが、電力を使う段階で回り回って空気の温度上昇が伴うのである。この問題が質的な現象にとどまるものか、あるいは現実な気温上昇に寄与するものであるのかは、前述したように(人口 x 人口1人当たりに発生する熱エネルギー)の程度に依存するのである。換言すると、人口の指数関数的な爆発的増加が起こったり、平均的な人間が生活上で限りなく贅沢三昧になってしまったら、その2要因だけで地球温暖化が現実のものとなる。
 そして現実的には、前者はもう起こっていることであるし、後者は多少は起こっているものと思われる。しかも、先進国に住んでいる人類は相当な程度の冷暖房のもとで生活しており、熱エネルギー自体を得るための目的で電気やガスのエネルギーを開放し続けているのである。

 以上の議論の末での僕の主張は、空気中の炭酸ガス濃度のような単なる質的な要因のレベルにとどまっているのに過ぎない可能性が大きいような事柄をことさら強調する一方で、より本質的な人類の増加と贅沢化という煩悩の産物の議論を放置していることは滑稽であると感じる。ここに現在の世界を席巻している「似非知性主義」に異議を唱える所以がある。

 蛇足。炭酸ガスの温暖化犯人説に反論している武田邦彦教授の主張の一つに、クリーンエネルギーの典型な風力発電や太陽光パネルにしても、その製品を完成するまでに用いるエネルギーは相当なもので、この段階で随伴熱エネルギーが発生するということである。同じ構図として、ゴミの分別のための制度の構築や維持そしてそれに関する製品の製造や人員配置と運搬実務に消費されるエネルギーに随伴して発生する発熱を考慮すると、「今まで通りの単に燃やしてしまうことの方が宜しい」という議論も質的には成立するのである。
すなわち、種々の要因が単に質的な要因にとどまっているのかそうでないのかの検証をしないで主張してしまうと「その領域に携わっている学者の好き放題の議論になる危惧」が現実のものになるということだ。そして、武田教授によると、分別させまくったゴミの大半は、実は、焼却しているとのことだ。このことを政府や行政は発表しないし、当然知っているはずのマスコミはこのことを報道しないのだ。とても興味のある構造である。
 「地震の予知もまだできないくせに一方的な主張を一部の学者が誇大広告し、その一方的な議論のみをマスコミがいろんな思惑で繰り返し垂れ流している」という現実も同じような土壌のもとにあると感じている。随分以前に地震研究者のロバート・ゲラー東大教授が「(現在においては)地震は予知できない」と明言してからそのNHKは二度と彼を番組に呼ばなくなったそうだ。この「地震は予知できない」という現状は、今でも一向に変わっていないのだ。武田邦彦教授も「地震は予知できない」という意見をユーチューブなどで主張しているが、もちろんマスコミはお呼びでないのである。

 しかし、繰り返すが、人類の爆発的な増加と贅沢三昧という現実は、ほとんどの質的要因にとどまるかもしれない潜在的な地球温暖化の要因を現実的な要因にしてしまうことは明確であると思われる。
 しかも、今のレベルの地球温暖化のことよりも、人口増加が食糧難と土壌の不可逆的な劣悪化の可能性という人類その他の生物生存の根本を台無しにしてしまうことの方がもっと恐ろしいことだと感じている。僕は以前議論した政治軍事問題だけでなく個人の生き方の場でも、「そこそこ」主義は場合によっては選択の余地があると感じているものである。

 「垣根の垣根の曲がり角,焚き火だ焚き火だ落ち葉焚き」という幼少時の風物詩が懐かしい。僕には「似非知性主義」よりも懐かしい風物詩の方が大切だ。

(追記)僕は、焚火が禁止的になっている日本の現状を悲しく思っている。世界のあちこちに大規模な山火事が自然に定期的に生じている状況で、このような些細な規模の焚き火が出来ない状況は変だと思って、この機会に現状を調べてみた。そうすると、その扱いは条例での規制が主流なので、地方によっても是非が違うらしい。そして、「規制したい」側のポイントの一つは消防関係のことで、火事か焚き火か判りにくいことと類焼のリスクのこと(➞以前から同じではないか)、焼くパターンによっては有害ガスが発生すること(➞そういう物を焼かない場合は問題がないはず)、そして地球温暖化対策などが列記されている。しかし、現実には地球温暖化対策マインドの影響がかなり大きいように感じた。ただ、場所と地域によっては「焚き火はダメ」とは限ってないように読み取れた。
その一方で、知人から「私の知り合いが自分の庭で焚き火をしていたら検挙されたとのことだ」と聞かされた。本当かな?

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