2020年2月1日土曜日

脱イデオロギーの意味論(その2)炭酸ガス増加より人口増加自体が桁違い

簡単な実験によると、空気中の炭酸ガス濃度が上昇すると植物の成長が大きくなり、それが減少すると植物の成長が悪くなることが判っている。単純な思考実験でも「そういうことになる」という納得感がある。こういうフィードバック機構に連関した植物の増加現象は、人類による自然破壊によってそのスペースがもう限られているとして、「むやみに空気中の炭酸ガス(二酸化炭素)の増加をもたらさないようにしたい」という考えも理解ができないことはない。僕は片方のイデオロギストになることを恐れるからである。ただ、少なくとも現在のありうるところの地球温暖化現象の根本原因が空気中の炭酸ガス増加であるという意見も、まだ「凡そのコンセンサスが得られている」という状況でもないのが実態であると思われる。

しかし、前号に触れたように、国際関係の学術団体や国連下部組織などには、好むと好まざるにかかわらず、すでに巨額の資金や利権が絡んでいることが懸念されるのだ。また、日本のマスコミ(世界のマスコミのことまではここでは触れない)には報道内容の選択上の公平さが大いに損なわれていることは「裸の王様」でなければ誰にでもわかるはずのものだ(一つには現政権の政策に反対することが責務だと勘違いしており、二つにはセンセーショナルな方の意見を選択する)。この日本のマスコミの病理については多数の秀でた論客が指摘してきたことであるが、この国においてはなかなか是正されることがない。「裸の王様」現象を打ち破って目を覚まさせるには、今までとは別のパターンの修辞学というものが提出されないと日本では難しいように思われる(憲法議論と同じである)。僕は、「一般意味論」と「身体・精神の生理学」とを基盤にした訓練と学習が適切のように思ってきた。

さて、前号に触れたような「この数百年以内の地球の気温の上昇?を示すグラフ」などはまだまだオトナシイ。最近の数世紀における地球上の人口の爆発的な増加(グラフ)は実に「正の指数関数的」である。このとんでもない程度の人口増加の実際的かつ学問的な意味合いについてはその筋の専門家がそれぞれの論点を持っているのだと思われる。しかし、このまさに狂気ようなグラフであるということを正面切って議論できていない現実に危機感を抱いている。
炭酸ガス増加規制という場でもいろんな既得権益(善悪の価値観を含めていない)の対立構造が絡んでいるが、人口増加規制という場となればはるかに調整不可能のような対立が起こってくることになる。だから、この問題を専門家や学者が地球問題の俎上にあげることができないのだと思われる。
人口問題を「真面目?」に議論すれば、地球規模の紛糾になってしまうだろう。何故なら、各国や各民族の権利義務・生命の倫理問題が絡んでくる。「一応の議論」ということも「ヘイト議論」と非難されることになりそうだ。要するに、「じゃあ、どこの国の人口を減らすというのだ」となり、今後も国際の場では議論ができないだろう。むしろ、個々の国家内での将来を見据えた議論の中で、人口抑制の取り組みをする場合ができていると思われる。
 しかし、そうなってくると、国家や国民の意識が比較的高い場合に人口抑制が方向付けされる一方、いわゆる経済発展途上国の場合にはそういう人為的な方向付けはほとんど成立しないだろう。そうであるから、先進国に比べて発展途上国の人口がどんどん爆発してしまう可能性がある。貧困国に対する国際機関からの補助・援助が行われることが、結果的にスポラディックな人口爆発的な状況になかなか抑制がかからないことになる可能性があるように思うのである。なお、この文脈における中華人民共和国における人口抑制政策についての論評は避けておきたい。

さて、実際的かつ学術的に人口問題を俯瞰すると、現在に至るまでの人口動態のありさまは食糧の補給量に見合って人口の増える余地があったと考えられる。食糧の補給量を規定する因子は、地理的な食糧の確保能力、貨幣流通経済の現在では経済能力、ということに集約されると思われる(ただし、人間は「メシを食って生きているので、の場合でも結局はの能力に依存しなければならないのだが、この議論はずっと後で触れたい)。
地球規模でみると、この数世紀での人口増加の最初の契機は英国で始まった産業革命だったらしい。つまり、このことは、最初は、先に資本主義化して経済発展した国(それとその植民地にも起こったと思われる)に起こったことだ。蒸気機関などの発明により二次産業が発展して、それに従事する人口の増加を必要とし、かつ、その増加した人口に貨幣を支払うことができて、倍々ゲームになっていった。この状況は現在でもその通りだと思われるが、最近では国の枠を逸脱したグロ-バルな企業がいろんな途上国に安価な労働者を見込んで進出するので、進出された国では人口は増えることになる。加えて、最貧の途上国への援助という仕組みが作動するので、そこでもその額に連動した人口の維持・増加が見込まれる。すなわち、現在では主に上記のの要因が大きいということになる。しかし、による人類活動規模の増大が度を越してしまうと、地球規模ののキャパシティが破綻するだろうの危惧を僕はもつ。
 ただ、極めて優秀な科学者たちは「そこにエネルギーがある限り(例えば、物質=質量などがある限りとか)イノベーションによってなんでも創り出せる」とするだろう。しかも、エネルギーは無限に存在しているのだ。こうした議論は実は「実現するもの」かもしれないが、二十一世紀前半の議論にこういう「ぶっ飛んだ」話をすれば、あらゆる議論は阿呆らしくなってしまい、多くの評論家は失業してしまうだろう。
産業革命や欧米列強の世界侵略が始まる前はというと、基本的にの因子に規定されていたことになる。たとえば、東南アジアは基本的に降雨の豊かな温帯・亜熱帯であるので、放っておいても果物をはじめいろんな植物が茂り(動物もそれなりに食糧になった)、海の幸も豊富であるので、それに見合った人口が維持されてきたのである。アフリカ大陸でも植物の多い地域ではよく似た状況であったと思われる。ただ、こういう地方では風土病や感染症が猛威をふるうことが常だったという問題がある。生物学一般で真であるごとく、このリスク(特に、生後から成人になる前の高い死亡率)には「多産」という対応で良かったという言い方もあるいは可能と思われる。
以上のようなことを考えてみると、もし国際機構が最貧国への経済援助を行う際には、必ず疾病率の減少への援助と出生率の節度ある管理とのカップルなしでは行ってはいけないと僕は思うものだ。

さて、僕は昭和22年生まれの団塊世代の人達とともに人生を送ってきたが、小学校での社会科で習ったことが強烈に記憶に残っている。日本の都道府県と県庁所在地や世界の国名と首都名を覚えることが面白かったことを思い出す。この時には、「日本は狭い国土で資源が少ないにもかかわらず人口が多いので今後が心配である」と明確に教えられた。子供なりにも我が国の将来を心配した記憶がある。この昭和30年(1955)ごろの日本の人口は9千万人だった。その後、平成22年(2010)の1億2千8百万人弱をピークにその後減少しだして、昨年は1億2千6百万人だった。日本の現在の人口問題が単に人口数のことだけではなく、ピラミッド型とはかけ離れた「多数の高齢者を少数の若者が支える」ような形態をしていることであるということだが、ここでは敢えて単純な人口数だけの話として論を進める。
人口が減るということは、僕が小学校の社会科で習った危惧が解消されてよいのではないのかという疑問が出てくるというものだ。しかも、現在では我が国の「食料の自給率」が他国に比べて低過ぎるという心配をさせるような意見が声高である(この議論も一方的で怪しい点が多い)。じゃあ、なおさらやっと人口が減少するのは良いことなのではないのかと問いたい。僕は、ある程度は本気にそう言いたいのである。喉もと過ぎれば何とかで、あの頃の心配を忘れたのか? やはり狭い国で1億人以上は多過ぎるというのは直観的かつ生理的な感覚で「そうだよな」のように感じてしまうのだ。しかし、何故論調が真反対になったのかはこう言う僕にも判ってはいるつもりだ。それは経済構造が変わってしまったからだろう。

資本主義がどんどん先鋭化している現在では、今や人口は企業の生産活動の労働者としての意味と消費者(内需)としての意味でしか見ようとされない。そうなってくると、大量生産・大量消費、そして、しばしば薄利多売の経済活動の前提では、人口が多くないと企業が持たない。しかも、国民はその企業の活躍なくしては生活もままならない。
しかし、日本が「そこそこ」にしなかったから敗戦の憂き目をみたように、この先鋭化した資本主義そして株主絶対主義化や国の枠をはみ出すグローバル資本による支配化という「やり過ぎ」から脱却できないと間違いなく地球にいろいろなカオスが到来すると思われる。
欧米中心のこの経済構造(中共も国家資本主義として同じようなことを先鋭化している)が現に進行している時に、日本だけがそれと無関係に存在するべきであるというようなことを言うつもりはない。それは実際上は無理だろうと思うからだ。しかし、古来から独自の存在感のある文化で育まれ、そして作り上げてきた日本人は、少しでもその影響力を世界に与えていくべきだと思う。少なくとも、欧米の価値観が正しくてそれに盲目的に従っていこうと思ってはいけない。
明治維新の頃の脱亜入欧には意味があったが、キリスト教一神教的な西欧精神文化とは冷静に対応していかねばならないと思う。西欧社会の行き詰まりに対して、彼らに日本文化がヒントを与えるようになると僕は予想している。ユーチューブをいろいろ見ていると質的にはそういう変化が既に明らかになっている。
年功序列・終身雇用を完全に見捨てるような最近の我が国の流れであり、これらの制度とこれと連関した「愛社精神」の意義や、QCサークル活動などの生産現場での「改善」という日本の世界に誇示した長所を全て否定されるものではないはずだ。日本の優れた精神をかなぐり捨てないで、年功序列制度や終身雇用精神の時代に多少合わなくなった部分の修正を図れば良かったのにと思うのである。

キリスト教社会では教義的にあるいは歴史的に「労働はネガティブなもの」だということを日本人は認識しておく必要がある。つまり、労働は「働かされるもの」あるいは「仕方なく働く」というもので、基本的には宜しくないのである。ところが、日本では「働くことができてお天道さまに感謝する」というものなのだ。僕は日本文化の方が明らかに人間性として素晴らしいものだと思っている。そもそも動物全般においてはそれが真実なのだ。繰り返すようだが、西洋文化であってもイスラム文化であっても、それは日本古来の考えとはいささか異なるのである。日本古来からの文化は一神教ではないがゆえに、争わず良いところだけ吸収するというものだ。ラテン社会で目立っているような「働くことはなるだけ止して、なるだけ楽しもう」という文化はそのまま吸収するような代物ではないのだと解脱し直さないといけない。「そこそこ」にしておかないと、最終的に狭いタイムスパンでの地球温暖化は起こり、人口爆発が止まらない地球になるであろう。ただし、地球温暖化は炭酸ガス増加が原因ではなく、人口爆発した各人がどんどんエネルギーを消費する事態そのものがもたらすであろう。

日本は古来からの自慢できるような精神文化がある。しかし、現在の日本人の精神文化は総じて「贅沢の欲望がとどまるところをしらない」状況になってしまったと僕は感じている。日本は世界の中で、全般的にみて非常に裕福な国民であり、かつ、貧富の差が世界基準からすると驚く程少ない。であるのに、不幸を煽るマスコミを無批判的に受け入れてしまっている日本人には「自分は貧しい」と不満を抱いている者が多い。どこまで贅沢なのだ。経済的に「そこそこ」で良しとしないこの精神では、この一点で日本は破綻するだろう。上昇志向で頑張ったり工夫を凝らすことは良いことだと思うが、自分より贅沢をしている者を見て不満を募らせることは結局は不幸なのだ。「ひとそれぞれ」なのだから、各自は自分なりに真面目に仕事をして、適度の余暇を過ごして、それなりに生命を維持出来て、その間に多少とも個性のある精神的な活動が出来れば、それは幸福でないのかと問いたい。僕は、海外からの旅行者が驚き・称賛するウォッシュレットその他のハイテク機能の付いた便器を憎む。これが日本の庶民の贅沢化の典型だと思うからだ。「日本人よ、何様と思っているのか」と思ってしまうのだ。
欧州からの観光客は日本に来ると「また来たい」という人たちが多いらしい。彼等にとって日本の日常生活は非常に魅力ある生活なのである。そのような印象を多くの外国人が持つことに「そうだろうな」と僕自身は直ちに了解できる。僕は欧州に行ったことはないが、身内の者がアイルランドや東欧に行った時の印象を聞いたのだが、街中でも夜は明かりもほどんどなく、ひとびとは自宅の中で何かをしているだけで、通りには誰もいないような生活なのだそうだった。日本では庶民であっても金満的といえるような華やかな生活に溢れているように思われる。勤勉の結果に得たものだと思ってよいのかもしれないが、いつまでも続くのが当たり前というような天を恐れぬ精神であってはいけないと思う。何かあれば、あの戦後の慎ましい状態に耐えることが出来るという覚悟もありかなと思うことは、少なくとも精神修養には必要だと思われる。まあ、そのような覚悟があれば日本は満蒙には進出せずに済ませられたと僕は頭の中だけで思い返している。

なお、日本の人口について付け加えたいことがある。15世紀に1千万人を超え、江戸時代の初期に急増してその後3千万人で一定していたらしい。この一定ということの要因としては、作物の収穫量がどんどん増えるというイノベーションは起こらなかったのだろうことと、貧しい人々の間に「人減らし」という悲しい行いがあったからなのかもしれない。明治の後半には5千万人、以後終戦の年の7千万人まで徐々に増加していた。
戦前、日本政府が満州に進出しようとした理由は、根本的には増えた人口を「人減らし」のようなことなしに賄っていこうとしたからに他ならない(これにひきかえ、それに先立つ朝鮮半島への進出はロシアの侵略からの日本の防衛が主な目的だったし、これは当時の国際秩序からしても軍事力をそれなりに備えていた国家の普通の対応であったと認められている)。満州への進出は領土拡張主義でなく既存人口の生命維持のための食糧確保が目的であるとの認識であった。このことは、最近世に出た松岡洋右の復刻書「東亜全局の動揺」(経営科学出版)にも明言されている。
 しかし、そうであったのなら、その頃こそ人口抑制政策を模索することを含む収穫量に見合った人口の維持というノウハウを探究すればよかったと残念に思う。他所の土地に無暗に進出することは特段の理由がなければ褒められたことではないし、朝鮮半島や満蒙地区というところは日本人が進出しうるような甘いところではなかったことは、その後思い知らされることになるのである。その地方の土着の精神文化が全然違うので、「大東亜共栄圏」ということも無理な話だった。
蛇足だが、「大東亜共栄圏」というものは、戦後のGHQの洗脳内容のような侵略的な雰囲気は乏しくて、博愛主義の雰囲気の優勢な方針だったというのが事実だったと思われる。しかし、アジア大陸の各地域はあまりにも精神文化が異なっていたので、現実的には「きれいごと」で終わってしまったと僕はその失敗から学ぶことが出来ると思う。曽野綾子が繰り返し警告しているごとく、「きれいごと」を主張すれば、それは結局は人を不幸にしてしまうものだ。大東亜戦争の目的のひとつであったアジア諸国の欧米列強からの独立の契機を日本がつくったことは失敗の中の大成功だったと思っている(最近、こういう総括の書物を西欧人が上梓している)。

ところで、農業や科学の発展した現在の時点では、日本の国土からは潜在的に3億人の人口を賄えるキャパシティーがあるらしい。日本は「温帯のモンスーン気候が中心で複数の暖寒流に囲まれた南北に長い列島」という地理的にまことに恵まれた国なのである。マスコミに席捲しているところの日本の食料自給率はとんでもなく低いという警告は、今後もどんどん贅沢をしていこうとすればそうである。ところが、現在の科学技術のもとでは、我が国は贅沢をしなければ自前で国民すべてを十分に食糧で賄うことができると思わなければならない。その点が、満蒙に進出した時との違いである。
しかし、それは、庶民のかなりがグルメ志向で、庶民の多くがウォッシュレットを持っており、ほとんどの未成年者までがスマホを持っている、というような「贅沢」をどんどん進める構造とは並立できないように思うのである。





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