2018年1月13日土曜日

ブログを開始するにあたって

   

僕は自分を意味論者として勝手に自認している。意味論はもうひとつのイデオロギーではない。一般意味論というものは、信仰や思想ではなくて、技術の範疇にあるものだ。ただ、必然的にイデオロギーの言語的な問題点を認識して、それを排さないと健全な認識に至らないということになる。どちらかといえば、「是々非々」とは共存しやすい態度だと思っている。

また、幸福と不幸に関すること、健康に関すること、福祉に関すること、男女の間の特質や権利に関すること、などのように普通生活から社会学的な分野に至る非政治的な事柄においても、準イデオロギー的な風土が増殖していると感じている。これは、真の知性主義ではない似非知性主義が最近の日本で増殖してきたことに一因があると思っている。僕は反知主義ならぬ反似非知性主義という議論を、早晩するだろうと思っている。

 ただ、意味論的な思考をすると、政治的には、あるイッシューにおいては、左翼を批判することに至ることもあるし、別のイッシューにおいては右翼を批判することに至ることもある。だからといって、最初からいずれかのイデオロギーに呪縛されるものではない。そうなれば、意味論の存在価値はなくなる。

 以前から、日々の身の回りの出来事やマスコミ・雑誌・ネットに接して、意味論的観点を中心に思うことがあったので、このブログで表したいと思う。(➔意味論ノート)。特に意味論的ともいえないような感想も書きたいと思うかもしれない。(➔雑感ノート) 

 それと並行して、自分なりの言葉の辞典を書いてみようと思う。一年前ほどから既にメモしているものがあるので、書き始めてみる。「広辞苑」という立派な言葉を流用したが、言葉だけでなく、文節の場合も、諺のような文章の場合も対象にすることも予想されるので、不適切な流用であることは自覚している。(➔意味論的広辞苑)(注)意味論的国語辞典に表記を変更した(2018.11.17)

 

 「What's  一般意味論 ?」という肝腎なことについて書こうと思っても、実は、1冊の書物(注)の紹介以上のことは僕にはできない。この書物が書店の棚にあるのを見つけたのは、多分、大学院を修了した頃のことらしい。機会があれば、後日のブログで触れてみたい。また、ここで散々イデオロギーという語彙を用いたので、「意味論的広辞苑」で説明しないといけなくなった。「左翼」とか「右翼」とかいう」語彙も定義不詳のままで自分の都合の良いように恣意的に用いることは、一般意味論の立場としては避けなければならい。そうすると、一つのことを書くと、どんどん書き続ける流れになる。ネットサーフィンならぬ記述サーフィンとなる。ただ、エネルギーが切れたら終わってしまう。

(注)S..ハヤカワ「思考と行動における言語」大久保忠利訳、岩波現代叢書(1978)

    Language in thought and action by S.I. Hayakawa (third edition, 1972)