2018年1月13日土曜日

意味論的国語辞典「人の命は地球より重い」


「人の命は地球より重い」「二十世紀の最大の妄言」


 


  

 昭和52年9月に、ダッカ日航機ハイジャック事件があった。「日本赤軍」と自称していた若者が乗客を人質にして収監されているメンバーの釈放を要求した。時の日本の首相の福田赳夫が、「人の命は地球より重い」と言って、超法規的措置として受け容れた。

 誰がこの時に首相だったとしても、苦渋に満ちた判断をしなければならなかったし、要求を呑む」のも「要求を拒絶する」のどちらが正しいとも断言が難しいと思われる。このことの後日談やその後の内外の評価につてはここでの関心ごとではないが、先進西欧諸国の行動指針の観点からは、どちらかといえば「その場限りの軟弱な対応」であったとの批判の論調の方が大きかったと記憶している。

 当時の僕は、この報道を知って、一つだけ大間違いをしていると思った。「人の命は地球より重い」という発言だ。要求を呑んで罪人を釈放したことは「仕方がない」という考えもあると思った。この言葉は福田氏の言葉としてあまりにも有名だが、多分、それ以前に欧米の誰かがどこかで発言していたのだろう。まあいえば、ありふれたような言葉のようでもある。それを福田氏は苦渋の決断の際に、「何とかご理解を」という気持ちでこの言葉を適用したのだろう。「私も苦しんでいます。私は結果的にはこの措置がよりベターな策だったと認められることを祈っています。この重い責任は私一人にあります」とかなんとか言えば良かったのだと思う。

 しかし、福田氏は、この名言?を表明して措置を決めたのである。形としては「胸を張った」発言だ。これは、大嘘である。

 この頃、日本の交通事故の死亡者が年間で一万人を超えていた。「人の命が地球よりも重い」のであれば、国が自動車の運行を認めるべきではない。一国における国民生活の支援や指導を考えると、現実的にはたとえ年間数千人以上の死亡者が統計上で確定的に発生するとしても、自動車の運行の禁止は少なくとも今や非現実的だ。そうすると、個々の人の命はそんなに重いという扱いを受けていないことになる。僕は、この現実を批判しているのではなく、現実容認的に思っている。こういう事例が無数にあることは、この一例の提示だけで容易に想像できると思われる。同様の事例を列挙するという試みは一般意味論の演習の場となるように思われる。

 なお、「人の命」といっても、そのコンテクストが、①特定の人や人々に係わること  vs 不特定の人や人々に係わること、②不特定の人々のことであっても、数人程度の少数のコミュニティ vs 一億人もの構成員が居るという国という違いによって、現実的な扱いが違ってきても不思議ではないと思われる。ダッカ事件の場合は、特定されたある程度多数の人々が対象であったので、大変に難儀な事案であった。

 以上のようなことを考慮したうえでも、僕は、この発言が二十世紀の最大の妄言と言っておきたい。こういう類の言葉は現実の社会的な場面の中では使わない方がよいと思う。たとえ、個人的にそのように感じていてもである。言った途端から、その場の思考と議論の機能が停止してしまう。このことは、ある言葉を「タブー」とするとか、「ヘイト言葉」として使用不可能にしてしまう態度によっても起こることがある。