「徹底的討論」:①自分の主義主張が通るまでは議論を止めないこと
②意見の異なる他者の次の行動を一切阻止する、とほぼ同義語
③民主主義(民主制)には本来的には容認されるはずのない行動
日本共産党の下部学生組織の「民青」は「徹底的討論をしよう」というようなことは言わなかったが(当時は生活改善路線で、アジテーションもソフトだった)、「中核」「革マル」「社学同」などの懐かしい響きのある「反日共系」セクトがよくこれを言った。全共闘はこれらのセクトの影響を受けていることが一般的だった。
「徹底的討論をしよう」「えっ、君は逃げるのか」。これを言われた側は厄介だ。「腹が減ったから早く飯を食いに行きたい」という場合でも後ろめたさを感じさせられそうだが、自分が相手の意見と全く違う、または、一寸違う場合では、抜き差しならなくなる。
学問の世界や文筆の世界では、ずっと議論が続いても構わないが、日常の生活の方針を決める場合に、こういう要求に付き合わされると、①相手に「君の言う通りだ」と言ってしまうか、②現実の行動は一切進まない、のどちらかということになる。
現在に当てはめれば、野党が政権与党に「徹底的な議論を要求する」ということだ。この「徹底的」という言葉は、「痛めつけてやるぞ」への修飾語であれば非情すぎるが、「議論」の前の修飾語であれば、いかにも正論を言っているかのような錯覚を受け手や第三者にもたらす。主張している側については、もしこれを「言葉の綾」とか「駆け引き」として言っているのであればまだしも(それでも受け容れられない)、どうも主張している者も本当に正論だと思っているのなら、「身勝手」というよりは「頭が悪い」に違いなかろうと思われる。僕は、学生時代からこのように思っていた。
国家運営や企業運営やその他の社会活動の最中では、現実的には「締め切り」のようなものがある事案が多いはずだが、「徹底的議論」を要求する諸君は自分だけでなく国家運営や社会活動の責任者である相手にも「責任放棄」を強要することだ。どこかで取り敢えずは決めなくてはならない。決めたことも、次の実情に合わなくなったら、また変えることができる。数学の解と違って、もともと正解など人智の及ぶところではないはずだ。