2021年2月14日日曜日

森 喜朗元首相の失言(?)とマスコミの狂乱

  一つ前の投稿記事は「ポリティカル・コレクトネス」(ポリコレ=政治的正解?政治的正義?)のことだった。僕は、テレビや新聞をあまり見ないので知らなかったが、2月3日の五輪組織委員会において、森元首相は女性蔑視発言をしたということで、最近急に、誰かが騒ぎ出して、2月12日に同委員会会長を辞任しなければ収まらなくなったということを知った。

 僕自身は、何だか典型的な自民党的雰囲気のある森さんはもともと好きではなかった。しかし、多分、良いところが多い人でもあると思うのだ。とにかく、東京五輪の準備においては大恩人ではないかと思う。それが、組織委での発言の一部を切り取って、この時期において辞任させてしまうとはまともな人間かと疑うものである。欧州を始めとしてIOCからも、非難声明があったりして辞任にならざるをえなかったらしい。日本国民はマスコミの横暴をいつまで許しておくのだろう。具体的な対策案はないのだろうか。政府与党が骨抜き状態だからどうしようもない。

 これ、すなわち、組織委員会での発言をIOCに告げ口をした者がいるということだ。形としてはそうなる。これは、常々、左巻きの人たちが行うパターンと共通しているのが興味深い。韓国の慰安婦問題も、朝日新聞がわざわざ外国にそういう話をチクるのであった。しかも、捏造だった。国内で優勢な自分との対立勢力を困らせるために、外国からの圧力を、虎の威を借りるように利用するのである。こういう図式は歴史上、いろんな時代にいろんな国の勢力がやっていることなので、ひとつのありふれた戦術なのだ。

 僕は、詳しいことは読む気もしないし、知らないのであるが、以下のことを述べておこうと思う。森さんの発言は以下のような話と共通点があるのではないかと思うからだ。

 車の運転を長らくしていると、女性ドライバーのレベルの低さに苦々しい思いをすることが多い。狭い道路で離合が難しい時は、僕たちなら、どちらが止まる方が適切かを考えて、自分が止まる方なら、狭いなかでもやや幅が広いところで相手がすれ違って行くのを待っておく、ということを考える。多くの男性ドライバーはそういうところである。ところが、多くの女性ドライバーは、先ず自分は止まって相手が何とか工夫しろという風である、しかも、離合できないような狭いところで平気で止まっている。これ、ものすごく多い。

 僕は、しばしば、ワイフに「今日、こんな女性ドライバがいたぞ。女性ドライバーはなんでああなんだ」と、つい言ってしまう。すると、ワイフは「ああ、そう。この前ねえ、あんたと同じようなおっさんが、こんな運転していたのを見たよ」という。このやり取りは、ワイフの出まかせの言い返しと思われるので、正直言って気分が良いものではない。やはり、圧倒的に女性ドライバーの方が不適切なことが多いという実感を持っているからだ。しかし、こういうような反論をすればよいのではないか。相手が、自分にとっては不適切だと思う発言をした場合、自分も同じように言い返すか、別に気にしないと受け流すかの、どちらかで良しとすべきだと思う。発言のあった委員会の外の勢力、特にマスコミに垂れ込んだり、国外の機関に垂れ込む方が、大問題ではないのか。破廉恥な行為であると自覚しなければならない。

 多くは知らないが、森氏と小池都知事を比べると、後者が圧倒的に人間が悪いと僕は思う。五輪準備に関する築地移転問題で、「安全」より「安心」というとんでもない主張をしたような、自分の利益のためには悪いポピュリズムを最大に利用しようとした人だ。もちろん、本当は「「安全」と考えらる程度だから「安心」して大丈夫だと私は思います」と都民に正しく説明するのが責任ある政治家だ。この犯罪的行為によって、莫大な税金と貴重な時間が飛んでしまった。何故、誰かが損害賠償の民事訴訟を起こさないのだろう。しかも、森氏が辞任に追い込まれた発言に比較して、この「安全」より「安心」という発言は、政治家失格にとどまらず、判断力のゼンマイがどっかで狂っていると認定すべき、大失態だったはずだ。

 ところで、多くの女性ドライバーの資質の話に戻ると、日本では、ドライブに限らず、ややこしい話になると、男性がカバーせねばならないということがままあるのではないかと思う。そういう流れで、ここは女性の方が男性に任せてみようということがままあるように思う。そういうことはあってもよいのだと僕は思う。ただ、車の離合困難な場合は、女性や男性やということではなく、女性の方も主体的になる「姿勢」をとろうとする気構えを持つようになって欲しい。あらゆる場面において男女同権を言うなら、女性の方もあらゆる場面において主体的になる「姿勢」を持たねばならない。僕自身は、男女は同じではないので、あらゆる場面において同じように求めることはないと思っている。ただ、車の運転の場合は、同じ程度の主体性を持つ「習慣」が必要だと思う。「習慣」「姿勢」「意識」「訓練」の問題である範疇のことだと思う。しかし、男性が女性を斟酌したり、女性が男性を斟酌する範疇のことはあるのだと思う。

 くつざわ区議が森さんの辞任を聞いて、「自分がPTA役員の時に、自分以外は母親で何も決まらなかって困った」とユーチューブで述べられていたが、地方都市在住の僕も、PTAの会合に一度出たことがあった。女児への痴漢が散発するので、その対策というものだった。やはり、ほとんどが母親だったが、だらだら話ばかりで「こうしませんか」という話は全く出ず、何も決まらなかった。これは、女性であっても、たとえば、東京の生き馬の目を抜くような職場で働いている人ならば、違った話になる可能性があると思う。やはり、習慣・訓練で女性でも劣るところはないことになりうるだろう。男女同権を主張するなら、自分たちの「習慣」「姿勢」「意識」「訓練」のレベルを構造的に引き上げる努力をしてからにして欲しい。くどいのであるが、僕は男女は違うんだというところから話を進めることの方も大切にしたい。二者対立的(dochotomy)的な西欧イデオロギー的な考えばかりでなく、二者融和的な古来からの日本列島の文化であったと思われる考えも大切だと思うのだ。

 筋力などの体力の問題やホルモン環境に係る問題については、当然、女性は男性の斟酌を要求できると思う。それと引き換えに、すべてのことで男女同質のような男女同権を主張すべきではないと思う。

 一つ前の記事で述べたが、西洋人社会が「きれいごと」を言うのは、歴史的に実態が「きれいではない」からだこそと気付かないといけない。日本では、そんな固いことを言わないでも、「そこそこ」折り合ってやってこれた「まあまあ」の文化国家なのだ。国内のことで、外国に「言い付け」するなんて、本当に恥ずかしい行為だと思う。江戸時代にもそういう政治学者がいたらしい。「この国は怪しからんから中国に支配してもらってよい国にしよう」という訳らしい。何時の時代にもどこの国にもこういう輩がいるらしい。

 なお、付記しておきたいことがある。学生時代の同級生の知人だった女性と、僕のワイフはこちら顔負けのドライバーだと思うことがあった。

 


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